懲りずに4度目のピョンヤン管見記(2) -直接君主制?を味わってみると-
- 2013年 10月 26日
- 評論・紹介・意見
- 北朝鮮田畑光永
前回の(1)ではは去年から今年にかけて北朝鮮が実施した経済面でのいくつかの新政策を紹介した。農村では昨年6月から「分組管理令」を徹底する措置が取られ、農作業を請け負う基本単位を農民3人から5人という小規模にして、メンバーに分配された報酬(生産物の分け前)の自由処分権を認めたこと、企業には経済計画で決められた生産以外の生産物を自由な価格で売り、従業員への報酬も自由に決めるのを認めたこと、各道に開発区の設置を奨励し、観光を含めて外資を積極的に取り入れること、が新政策の中身である。
一見、中国の改革・解放政策の初期との類似を感じさせるが、前回も述べたようにじつは根本のところで大きく違う。それは中国と違って改革・開放へ向かうための思想的準備工作が北朝鮮ではまったく行われていないばかりか、逆に権力を引き継いでまだ2年弱の若い指導者にいかに威信を持たせるかに大きな社会的努力が払われている。
中国ではこれも前回述べたように、1978年5月から「真理を検証する唯一の基準は実践である」というキャンペーンが全国的に展開されて、毛沢東思想を唯一絶対と崇めることからの脱却が図られ、その上での改革・開放であった。それでもとくに中堅幹部は思い切った改革・開放に踏み切る勇気を容易に持ちえず、豪を煮やした鄧小平が「幹部たちは額に『怖い』という字を貼り付けている」と罵ることで、最保守層を形成していた中堅幹部の背中を押したのであった。
そこで今回はピョンヤン滞在中に味わった、あの国の権力者崇拝の仕組みとでもいったものを紹介してみたい。もとより短期滞在の外国人の体験と見聞だから、見当違いの恐れも大いにあるが、試論として聞いていただきたい。
***「国民が推戴した」***
帰国前夜のことであった。今年に入ってピョンヤンに開店した「ハマナス館」という外貨専用の飲食店ビルの最上階のコーヒー・ショップで、われわれ一行と受け入れ団体である朝鮮対外文化連絡協会のスタッフが三々五々テーブルについてお茶を飲んでいた。私は一行の中の最ベテランだがピョンヤンは初めての某氏と対文協の1人と3人で同じテーブルだった。と、そのベテラン氏が「やはりこれは聞いておかねば」といった感じで、対文協氏にこう問いかけた。
「社会主義国で指導者が世襲というのは聞いたことがないが、お国ではこのことについて国民の間に疑問はないのですか」
これについての対文協氏の答えは簡明直裁、次の一言だった。
「それはありません。あの人は国民全部が推戴したのですから」
これでは話の継ぎ穂がない。ベテラン氏は沈黙した。
われわれの常識では2代前の金日成から先代の金正日への権力世襲も不可解であった。しかし、金日成はとにかく抗日ゲリラ闘争を指揮して、この国の独立に貢献したとされているから、その死後、アカの他人が権力を引き継ぐよりも、その息子が後を継いだ方が、万事丸く収まるという判断が大勢を占めたのは、まあ分からないでもなかった。
けれど、それが3代目まで続くとなると話は別だ、まして2代目がとりわけすぐれた指導者であったとは言えないのだから。社会主義陣営の崩壊という世界史的出来事の後に権力を受け継いだという不運なめぐり合わせとはいえ、金正日時代は自らが「苦難の行進」というように、国民は飢餓に苦しんだ時代であった。国民の飢餓を放置して、核開発に国力を蕩尽し、曲がりなりにそれを手にはしたものの、国際的には孤立を招いた時代であった。
その2代目がいなくなった時、それまで国民には表向き名前さえ知らされていなかった若者が2代目の子息としてにわかに権力者に推戴されるというのは常識では理解できない。ベテラン氏の疑問は極めて自然である。
とすれば、対文協氏の答えが非常識ということになる。あるいは彼もそれが非常識であることを知った上で、保身のためにあえてそれを口にしたということになる。しかし、本当にそれだけであろうか。あの空気の中に身を置くと、みんながみんな心にもないことを保身のために口にしているだけとは思えなくなってくる。
そのメカニズムはうまく表現できないのだが、私自身の「個人崇拝」体験を思い返しながら、考えてみたい。
***行事と検問***
今回の訪問は9月7日月曜日夕刻のピョンヤン到着から始まった。そして翌8日はメーデー・スタジアムで「アリラン」の公演に政府の文化部から招待されていることを知らされた。「アリラン」というのは、大きなスタジアムの巨大なスタンド1面に人文字が踊り、グラウンドではバレエやら舞踊やら体操やら音楽やら曲芸やらがテーマに合わせて繰り広げられる、西側ではちょっと想像しにくい大型ショウである。毎年7月から9月までのロングランで、もう10数年続いているから、私もこれまでに2回見物していた。
入場料は旅行費用には含まれない別料金で、確か日本円で1万円くらい払わなければならないのだが、今年は文化部の招待だから無料というありがたい話だった。
さて翌日、午後5時20分にホテル発。公演の始まりは午後8時である。2時間半以上をどうつぶすのかと思う間もなく、車は10分ほどで金日成広場に着いた。軍事パレードなどが行われるあの広場である。われわれが着いた所は観閲台から見て左側から広場に入る幅の広い道路であった。そこに続々と人を載せた車がやってきて片側に7列に並べられる。そこで1台ずつ検問、1人づつ持ち物検査が行われるのだ。
なるほど分かった。今夜はあの人物がスタジアムに現れるのだ。それなら仕方がない。一昨年の9月9日にはまさにこの場所で行われた軍事パレードを見るためにやはり検問、検査を受けた。
検問がわれわれの車に来たのは、6時25分だった。待つこと約1時間である。いい加減な検問ではない。丹念に行われる。1人1人の持ち物があらためられる。カメラ、録音機、望遠鏡の類はダメ、はまあ仕方がないとしても、メモ、筆記用具まで持ち込み禁止だという。しかし、これは案内人が面倒を恐れてわれわれにそう言うのだということが先回の例で分かっていたので、数枚のメモ用紙とボールペンを懐深くしのばせて、持ち物検査を切り抜ける。
車がやっと動いたのはそれから20分後の6時45分。車列を組んでスタジアムにむかうが、座席近くの入り口までは行くことが出来ず、決められた駐車スペースに1台ずつぎっしりと並べられる。それが7時。そこからかなり歩いて、行列して中に入り、とにかく決められた座席に着いたのはなんと7時半であった。
このスタジアムは独特の造りで、正面スタンドの向かい側、向こう正面とでもいう側のスタンドは下から上までの傾斜が急で、しかも出入り口が見えない。人文字の巨大な画面になっている。
われわれが席に着いた時には、その人文字のリハーサルがさかんに行われていた。スタンド1面の縦縞が一瞬にして色が変わったり、横縞になったりと見事なものである。演ずるのは中高生だそうで、地区ごとに縦に区切られていて、それぞれが人文字で所属地区を書くと、そのたびに大きな拍手がわき起こる。でもあんなにぎっしり座って、トイレはどうするのだろうなどと、余計な心配が頭をよぎる。
8時の開演間近にスタンド中央部が明るくなり、人々が一斉にそこに視線を注ぐ。指導者たちの入場である。みんなあの人物を探す。でもなんと、あの人物の姿はなかった。拍子抜け、と同時に、2時間半という時間でこの国における権力というものを体感できた。
ここでは「アリラン」の中味には触れない。大量の人間と光と音響を溢れさせて、9時半前にショウは終わった。また30分ほどをかけて車にもどり、順番を待って走り出した。驚いた。スタジアムを埋めていた数万の人間の大部分が大河となって流れていた。メーデー・スタジアムは大同江の中洲の島(と言ってもかなり大きい)にあるから、地下鉄などはない。どうやら島を出るまで、何キロか歩かなければならないらしい。みんな黙々と歩いている。時折、隊列を組んだ兵士たちが歌を唄いながら、歩調をとって人々を追い抜いて行く。あの調子で兵営まで行進するのだろうか。
ホテルに戻って5時間を反芻する。1つのショウを見物してきたという以上の何かが体の中に残っていた。それはうまく表現できないのだけれど、長時間ほとんど拘束されていたことが、同時にあの盛大な行事に自分も参加してきたという感覚を生んだとでも言ったら近いかも知れない。
***パレード***
さて翌9日は建国記念日、軍事パレードである。金日成広場の観閲台の下の方のスタンドにたどり着くまでの検問のことは繰り返さない。朝食もそこそこにホテルを出て、着いたのは8時50分だった。パレードの始まりは10時だが、広場のほぼ半分から先のほうは大同江の川べりまで、すでに赤い造花を持った人がびっしり詰まっている。広場を挟んで左右に向かい合う政府と朝鮮労働党のビルの前に仮設されたスタンドにも人があふれている。こんなに大勢の人たちがそれぞれ検問は受けたとすると、いったい何時に家を出てきたのだろうかとつい考える。
パレードはテレビでおなじみの光景がえんえんと続く。今年のパレードは正規軍でなく民兵組織の労農赤衛軍の順番だそうで、新鋭ロケットなどは登場しない。その代りに軍の後には各界、科学技術、スポーツ、医療、産業といった分野の代表たちがそれぞれのよそおいで行進した。
みんな晴れ晴れとした顔で行進して行く。無理してそういう表情を作っているのではないか、とつい勘ぐりたくなるのだが、そうだと言えるような材料はない。
行進は1時間余りで終わった。その後が実はすごい。広場の先の方を埋めていた群集が造花を振り振り前進してくる。行進の舞台となっていた左右に延びる道路にも同様に群集が湧き出てくる。広場正面に進んでくる群集には後ろから続々と増援部隊が加わって、結局、あの広場も道路も立錐の余地もないほどに人間で埋まってしまった。
誰かが10万人はいると言った。後楽園の東京ドーム2つ分になるが、確かにそのくらいはいそうだ。そこでふとあることに気が付いた。今、この巨大な空間を埋めている群集のざっと5分の4はさきほどまでは観閲台からは見えなかった。ということは、彼らもまた広場で行われていることのまったく見えないところで、早朝から11時過ぎまでじっと待っていたことになる。
その圧迫感、被拘束感は相当なものだろう。前夜とこの朝の自分はまさにそうであった。といっても、ここで造花を振っている人たちとは比べものにならないだろうが、それでも狭い車内でただじっと待っているのは楽ではなかった。ここの人たちは、外で、大勢が固まって、長時間ただ待たなければならなかったはずだ。
だから出番が来た時には、文字通り解放されるのだ。肉体が解放されると同時に、あの人物に向かって行進し、あの人物に造花を振り、大声でスローガンを叫ぶ無数の群集の中に自分がいることで、壮大なショウを成り立たせたという達成感が身を包むのだ。何時間かのつらい時間と引き換えに現場で味わうその感覚は、大勢との一体感を生み、権力者とともにこの体制を作っていることを実感させるのではないか。
この国がなにかと言えば、人を集めるイベントを行うのは、拘束後の解放感と抱き合わせで国や権力者との一体感を味あわせるためではないのだろうか。生活苦、国際的孤立といった想念は大歓声の中でかき消され、大勢で一隻の船に乗っているような連帯感と一種の安堵感を抱かせる。イベントはそのためのメカニズムではないのか。
***現地指導***
しかし、イベントにいくら大勢を集めると言っても、実際に集められる数は国民の中のごく少数に過ぎない。国民の大部分は自分とは縁のないものとして、群集の熱狂をテレビの画面で見るしかない。そういう大部分が存在することが、イベント参加者へ「選ばれたもの」としての誇りと高揚感を与え、それが肉体の疲労の自信にとっての価値を高めるのではないか。
では、取り残された大多数にはなにが用意されているのか。そう考えた時、われわれにはなんとも不可解なこの国の指導者の「現地指導」なる奇妙な風習の意味が分かるような気がしてきた。
ピョンヤンで行われる大規模イベント参加者とそれをテレビで見るしかない各地の庶民の間の隔たりを個別に埋めていくのが「現地指導」なのだ。画面で見る指導者と群集の間隔よりももっと間近に指導者に接すれば、その人間は気持ちの上でテレビの群集より優位に立てる。指導者への親近感はより強いものになる。1年に100回前後も行われる「現地指導」はピョンヤンの群集イベントと対になって、この国の指導者を支えているのだ。
専制君主制においては君主は民衆から遠く離れて存在するものというのが通り相場である。簡単には接しえないことが君主の高貴さを高め、威厳を増すのだが、その点、この国は独特の手法を編み出した。「直接君主制」とでもいうか、民主国家の国会議員が選挙区を回るようにこの国の君主は国内をくまなく回る。その際に発せられる君主の肉声が土産として分け与えられる物質的利益とともに接した民衆に強い感動を与えるのだ。
というのは、この国では独裁国家にしては独裁者がテレビで国民に直接語りかけることが極めて少ない。金正日の声がテレビで流れたのは1回だけと聞いているが、それは「現地指導」での肉声を効果的にするための深謀ではないかと思われる。
この仕掛けが成功するためには、権力者は絶対的に1人でなければならない。国民の尊敬の対象が分散されてはならない。金正恩が権力の座に就いて以来、あの国では大きな勢力を擁するとされる軍の総参謀長と人民武力部長というトップ2人が2年足らずの間にそれぞれ3人もが更迭されたのは、自らの権威に自信のない権力者の疑心暗鬼のなせる業であろう。
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こう見てくると、あの国の個人崇拝は特有のメカニズムで日々、再生産されていることが分かる。そしてそれを解消する方向に進む兆候は今のところ見られない。最初に紹介した経済面での新政策は、個人崇拝を背景にした「命令―統制―分配」の体制に対して、そこへ多少なりとも市場メカニズムを導入しようとするものだが、この両者がすんなり共存するとは思えない。市場メカニズムの合理主義が個人崇拝のフィクションを打ち壊すことが出来るのか、逆にあるところで市場が権力で押しつぶされるのか、予測は出来ない。いずれにしろ、北朝鮮が簡単に「改革・開放」へ進むとは思えないというのが結論である。
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〔opinion4661:131026〕
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