特定秘密保護法案と国家の超権力化(弐)
- 2013年 11月 11日
- 評論・紹介・意見
- 三上 治
特定秘密保護法案に対する批判や懸念が高まってきていることは周知のことである。これについては多くの分析がなされているが、ここで忘れてはならないことはこれが官僚側の権力強化の道であることだ。ここ何年間にわたって官僚主導の政治に対する批判が展開され、民主党の政権交代時にそれがピークであった。小沢一郎を政治資金規正法違反事件によって政治的に排除(監禁)したのはそれへの反撃であったが、彼らは官僚主導(独裁)批判への対応を準備してきたのであり。この法案はその流れにあるものだ。
国家をどう開くか、官僚主導政治をどうするかが、国家の理念的、あるいはイデオロギー的議論とは別に出てきたことは重要なことである。国家の理念やイデオロギーを問うことは大事なことであるが、それとは別のこの論議は国家と国民の権力関係を具体的に問うことであり、その点で歩を進めたのだ。日本の近代的な、明治維新以降の国家のことを問う時に、国家権力のあり方として問うことは一番不十分なことだったからだ。国家は「お上」として何故に存在し続けられるのか。現在の国家制度(政治制度)は理念通りに機能しないのか。何故に法治国家は名目的に過ぎず、実際はそのように機能しないのか。幾つもの問いを発してもいいのだが、国家はとりわけ、戦後国家は名目的には国民主権の国家にはなったけれど、実質は官僚独裁(官僚主権国家)であり続けたかを問うことだった。幻想(宗教的権威)は天皇に、実質的な政治権力は官僚(天皇の官僚)にというのが明治時代から敗戦期までの日本の国家であった。戦後もこれは形を変えて続き、天皇の代わりにアメリカが多くの要素を占めるようになった。その分だけ、戦後の官僚はアメリカの官僚という要素も強くなった。確かに。官僚は名目は国民の公僕であるが、実際は「お上」として国民の上に君臨するのであり、国民と官僚の関係は伝統の中にあるのだ。国民の代表である国会[議会]が政治の主導を持ち、それが政府通して官僚を統括できることが一つの道だ。《実際は逆で官僚が政府を主導している》。もう一つは国民の政治的意思が直接的に形で登場し、国家権力に迫ることであり、それを政治として実現することだ。日本では憲法が革命(直接民主主義)でできたものでない以上は特に重要だ。先にあげたことよりも大切なことだ。この後者の動きに対して日本の官僚権力は大逆事件―治安維持法等を持って臨んできた。そこでは法律は国民の権利でも、主権の発現でもなく、権力の統治の装置(道具)だった。この伝統的な権力再編の中に秘密保護法のあることを見抜かねばならぬ。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion4647:131111〕
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