サライェヴォ事件とヒトラー誕生日
- 2013年 11月 12日
- 評論・紹介・意見
- 岩田昌征旧ユーゴスラヴィア
セルビアの首都ベオグラードから出ている市民主義週刊誌『ヴレーメ』が久しぶりに読むに値する記事と写真を載せた。10月31日号である。
2014年7月は、第一次世界大戦勃発百周年である。大戦の契機となった1914年6月28日のサライェヴォ事件、すなわち「青年ボスニア」グループのメンバー、ガヴリロ・プリンツィプ等によるオーストリア・ハンガリー帝国大公夫妻暗殺の歴史的事件に関して歴史学界では新論争が始まっているようである。あるオーストラリアの歴史家は、ガヴリロ・プリンツィプをテロリストにすぎないと断定し、「青年ボスニア」を今日のオサマ・ビンラディン流アルカイダの歴史的先行者であると論定しているようである。勿論、セルビアの歴史家はかかる評価に反撥しているし、イギリスの歴史家もドイツ無罪論だとして同調していない。このオーストラリアの第一次世界大戦論がセルビア語に翻訳出版されるそうだが、その際、著者は、「テロリスト」表記をあらためて、「アテンタートル」(暗殺者)にすると言う。
そんな時に、『ヴレーメ』編集部は、まことに興味深い写真を発見し、掲載した。写真を文字で表現すると、以下の如し。
1941年4月20日、ヒトラー総統の52歳誕生日。ユーゴスラヴィア王国との国境に近いオーストリー領シクイェルスカに停車するドイツ国防軍特別列車「アメリカ」号。その最高司令官車輌内部。サライェヴォから誕生日プレゼントとして特別に持参された大理石記念銘板を感慨深げに見つめるヒトラーの姿。そしてかたわらで直立不動でヒトラー総統を見守る二人の将校。
1941年4月6日にユーゴスラヴィア王国に侵攻したドイツ軍は、10日間で王国軍を撃破した。一隊は、4月17日にサライェヴォに入城すると、大公夫妻暗殺現場の石壁にはめ込まれていたプリンツィプ記念銘板を引きはがし、20日に総統に特別なプレゼントとして献上された。
その銘板には、セルボ・クロアチア語で、かつキリル文字で、かつボスニア・ヘルツェゴヴィナ(BiH)方言を用いて、「この歴史的場所で、ガヴリロ・プリンツィプは、1914年6月15日(28日)、聖ヴィトゥスの日に自由をもたらす。」と刻記されていた。
1945年4月6日にサライェヴォを解放したパルチザン部隊は、5月7日に新しい記念銘板を現場の石壁にはめ込む。キリル文字でBiH方言で「この場所からのガヴリロ・プリンツィプの発砲は、反専制の人民的抗議と我等諸人民の長年にわたる自由への希求を表現している。」とある。
社会主義ユーゴスラヴィアが解体し、BiHが独立すると、45年銘板は撤去された。やっと、2004年になって、第3の銘板がつくられた。「1914年6月28日、この場所からガヴリロ・プリンツィプは、オーストリー・ハンガリー皇太子フランツ・フェルデナントと妻ソフィアを殺害した。」(ラテン文字、英語訳付き)
第一の銘板は、1930年2月2日、暗殺者の友人たちと家族等が私的に作って、設置した。ユーゴスラヴィア王国政府は、反撥する国々にこのように釈明していた。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion4650:131112〕
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