沖縄現地からの通信 高江での攻防戦から(2)
- 2013年 11月 23日
- 交流の広場
- 9条改憲阻止の会
2013年11月23日 連帯・共同ニュース第317号
11月15日(金)
N4奥を作業人が徒歩で、白いパジェロ軽が工事現場へ。(I氏報告)N4-2には7~8人の作業人、重機音。男性一人と女性三人がテントへ来てくれた。「映画(「標的の村」であるらしい)を見てきました。私達は支援します、頑張って下さいね、と言いたくて来ました」と激励。映画を制作した三上智恵さん、やってくれました。このところ連日このような支援者の訪問を受ける。防衛局員、海兵隊、(警察も混じっていた?)十人くらいがN4奥(添付写真で風景を参照下さい)で会話をしていた。N4-2の思考状態視察、あるいはN4-1の完成度(使用可能かどうかの)調査か。そのほかは動きも少なく、わりと平穏。
11月17日(日)
路傍には薄が一面に咲き誇り、まるで秋真っ盛り。N4Bに張った布の横断幕がカッターみたいな鋭利な刃物で切られたそうである。それを見たある女性の支援者が裏布を当て見事に修復された。「右翼の妨害などに負けてはおられない」という意地だったそうである。その横断幕はそのような経緯も分からぬ姿で今も綺麗な姿を誇っている。添付写真参照のこと。
11月18日(月)
今日はN4奥には作業人の姿も話し声も聞こえない。重機の音もない。先週金曜日にメインゲートで監視していた支援者の一人が、「金曜日の午後三時に見たことがある三人の作業人が『(インスタント)ラーメンだけでは三日が限界だな。あの五人も五時には出て来るだろう』と話しながらゲートから出てきた。たぶんオスプレイ離発着陸帯の作業人だったろう。だから、土、日は工事現場には誰もいなかったのじゃあないか。今日もメインゲートから基地へ這入った作業人は見なかったから、作業は無かったんだよ」 と、言った。
K子さんとF子さんに訊いた。
「東京に住んでいる沖縄出身の友人と“安保破棄”について話していたところ、友人は、
『米軍基地がなくなって米軍がいなくなっても、その基地へ自衛隊が這入ってくるから同じさ』と言いました。私は、米軍の存在は犯罪の原因なので自衛隊の方が少々はましなんじゃないのと言うと、友人は考え込み、そして顔を歪めて『終戦の歳に生まれたので日本の兵隊は知らないけど、親に訊いたところ』と言った後、言葉を無くして黙ってしまいました。何を言いたかったのか聞かずじまいになりました。なにが言いたかったのでしょうか。お二人には分かりますか」
実を言うと私は友人の言葉は聞いていたので知っていた。その友人の結論を言うとお二人の返事にバイアスを掛けることを恐れたので敢えて嘘をついてしまった。心の中ではお二人を騙すような自分の行為を謝っていた。昭和九年生まれのK子さんは、「戦争が終わって米軍が来たときには歓迎しました。これで戦争が終わると思いました。友軍は私達をガマ(自然に出来た鍾乳洞、防空壕として使用していた)から追い出しました。私達は弾が飛び交う危険な場所へ放り出されました。私達が持っていた食料は、『俺達は国を護るために闘っているのだ。俺達によこせ』と言って取り上げました。(このほかにも書くことを憚られる兵隊の残酷な行為が話されました。全て兵隊が自分の行為を正当化するために行ったことであると推定できます)。しかし、その後の米兵の行為は決して私達を解放するために沖縄へ来たのではないことも分かりました。強盗、陵辱など私達を苦しめました。しかし、彼らの犯罪は個人の犯罪であり、集団がする犯罪ではありませんでした。日本の兵隊は集団で沖縄の人たちを苦しめました。私は、日本の兵隊が怖いと思いました。その思い出がありますので、自衛隊にはきてほしくありません。戦争が全て悪いのです」小生と同じ昭和二十年生まれのF子さんは、「私は母達から聞いた話ですけど、K子さんと同じです」と言って黙ってしまいました。私は、友人の結論を知っていたこのような質問をしたことを謝罪した。二人は笑いながら、「そうだろうと思いました」と赦してくれました。
(文責 富久亮輔)
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