軍事的独裁体制下の政敵殺害をどう理解するか -軍事的独裁体制下の政敵殺害をどう理解するか-
- 2013年 12月 24日
- 時代をみる
- 北朝鮮盛田常夫
北朝鮮におけるNo.2張成沢の抹殺は、冷戦が終わった時代には奇異な違和感を抱かせるものであるが、北朝鮮が20世紀社会主義の「どん詰まった」戯画的な姿だと考えると良く理解できる。筆者が『ポスト社会主義の政治経済学』(日本評論社、2010年)で詳述したように、20世紀の社会主義は軍事社会主義あるいは戦時社会主義を超えるものではなかった。その社会は資本主義からの発展形態ではなく、社会主義の理念を掲げてはいたものの、社会主義理念の実現を支える経済社会基盤をもたない、したがって次第に劣化し退化する社会でしかなく、一党独裁と鎖国政策によって辛うじて維持された、歴史の一時期に短期間に現象した過渡的な社会でしかなかった。このような継続的に退化する社会は持続可能なものでなく、自己崩壊する社会であるというのが、筆者の結論である。
ヨーロッパの社会主義国はすでに自壊してしまったが、アジアにはアジア的専制支配とスターリン型戦時社会主義が組み合わさったアジア的混合体制が依然として維持されている。すでに中国は資本主義経済へと転換して経済基盤を立て直し、政治的支配のスローガンとして社会主義を利用し、次第にその社会主義から民族主義へと舵を切る二枚舌の国家資本主義体制に自己転換しつつある。ところが、北朝鮮は南北分断という特殊要因が絡んでいるために、自らのレーゾンデートルを否定し、国家崩壊をもたらす経済開放を拒んだ結果、ますます孤立し退化する道へと進み、挙句の果ては警察力を武器にした封建的恐怖社会へと社会を形骸化させることになってしまった。そこでは20世紀社会主義が特徴とした共産党独裁という政治支配の形態のみが模倣され、家族的封建支配への歴史退化が限りなく進行している。
共産党独裁と政治警察
歴史的に見れば、共産党独裁の成立と政治警察による支配は表裏一体の関係にあった。ソ連のみならず、第二次世界大戦後、東欧に成立した社会主義国は政治警察による国民監視なしには存続できないものだった。なぜなら、社会主義理念を実現する国民経済計画の策定が不可能(国民経済計画化の不可能性)であり、社会主義経済を自律的に発展させるメカニズムを構築することができない結果、現存社会主義国では「経済計画」が党の政治的な物流指令(配給指令)の域を出ることはなかった。そのような恣意的な経済制度は、政治的に維持することはできても、自律的に発展するモーメントをもっていない。このような体制では政治権力の維持と物財配給制度は同義であり、政治権力なしに自立的機能する経済が存在しなかった。経済的発展を持続させることができない国家では、国民の不満を押さえるために政治権力を維持する暴力装置が不可欠であり、それを最終的に保証するものが政治警察(保安警察)であった。戦後日本の歴史学が唱えた「人民民主義革命から社会主義への発展」という東欧社会主義の歴史理解は、現実社会の分析をないがしろにした観念論である。日本から遠く離れた東欧社会主義国の実情を知る術もなかったのだから、最初からその分析には絶対的な限界があった。
第二次世界直後のヨーロッパでは、迫害を受けたユダヤ系の若い活動家が競って戦後の共産党に入党し、迫害へのリヴェンジに燃え、積極的に政治警察の活動に加わった。折しも、アメリカとソ連の冷戦が勃発し、再び世界が二分された時代である。東欧各国の共産党は、社会主義の敵=アメリカ帝国主義の手先をでっちあげることによって、自らの権力支配を強めることを狙った。それが1940年代末からスターリン批判まで東欧諸国を席巻した政敵抹殺の嵐である。これらのフレームアップで、実際の尋問を担当した取調官の多くはユダヤ人であった。少なくともハンガリーでは。ただし、取調官と拷問担当は別で、拷問には専門グループが対処していた。
北朝鮮の張成沢抹殺と同様の事件は、1940年代末のハンガリーにおけるライク外相処刑、チェコスロバキアにおけるスランスキー共産党書記長処刑に見ることができる。もちろん、その歴史的背景は異なるが、いわゆる独裁体制の維持強化のためのフレームアップは、20世紀戦時社会主義の特質を雄弁に語る歴史事実である。
ライク外相処刑とスランスキー事件
1949年にハンガリーの外相ライク・ラースローが「アメリカ帝国主義の手先」として逮捕され処刑された事件は、ハンガリー共産党の独裁者ラーコシがスターリンの歓心を得るために仕組んだフレームアップである。当時の内相で後の共産党(ハンガリー社会主義労働者党)書記長となったカーダールがライク逮捕の実行責任者で、ライクはラーコシ邸から遠くない保安警察の隠れ家に拘留され、尋問と拷問を受けた。ライク逮捕に至る経緯は前掲の拙著に詳しく記したが、アメリカの共産主義者のノエル・T・フィールドの逮捕から始まっている。チェコスロバキアの保安警察の助けを借りてフィールドをプラハで拉致し、国境でクロロホルムをかがせてハンガリーの保安警察に引き渡し、上記のブダペストの隠れ家で尋問と拷問が行われた。拷問の末、フィールドは自分と関係のあった東欧諸国の共産主義者のリストを作成したが、それがアメリカのスパイリストとされ、ライクはスパイの首領という筋書きが描かれた。ラーコシはそのリストを筋書きとともに、スターリンに送った。他方、チェコスロバキアとハンガリーの保安警察に拉致されたフィールドを探し始めた一家は、ポーランドとソ連の保安警察にそれぞれ拉致されるという数奇な運命を辿った。その詳細も前掲書に記した。
ライク外相裁判では、裁判所とラーコシおよびとソ連顧問団への直通電話回線が敷かれ、ラーコシの指示通りに裁判が進行し、死刑判決が下された。裁判から間もなく死刑が執行された。スターリンは即座の死刑執行を許可しなかったが、ラーコシの強い要望を受けて最終的な承諾を与えた。
これらの具体的な経緯は、ラーコシとともに戦後のハンガリー共産党四人組を構成したファルカシュ・ミハーイの息子ヴラジミールが、体制転換直後に、詳細な口述記録を残したことから明らかになっている。ヴラジミールはフィールド誘拐からライク拷問、死刑判決、死刑執行のすべての現場に、盗聴機材の技師として現場に居合わせた。数百頁におよぶ口述筆記では驚くような事実の数々が明らかにされているが、初版が出版された後に絶版となり、多くのハンガリー人はこの記録の存在を知らない。この記録が出版された1990年には、保安警察や裁判官など多くの関係者が存命していたが、皆口をつぐんだまま他界してしまった。
ライク外相処刑から3年経た1952年に、チェコスロバキアではスランスキー共産党書記長ほか14名の共産党幹部と政府高官が逮捕され、裁判にかけられた14名のうち、11名に死刑、3名に終身刑が科せられた。死刑を免れた一人であるアルツール・ロンドンが、1968年「プラハの春」で釈放され、自らの体験を長文の手記として発表した。それにもとづく映画「告白」(1969年)がイヴ・モンタン主演で制作された。この事件も大がかりな捏造で、容疑者には想像を超える拷問が加えられた。
ハンガリーにおけるソ連と共産党支配にたいする1956年の反乱(ハンガリー動乱)は、このような保安警察に守られた政治支配にたいする人民蜂起であった。しかし、この反乱はソ連の武力鎮圧に遭い、ソ連はカーダールに動乱以後の政治支配を託した。動乱参加者うち、300名近い活動家が短期間のうちに処刑された。民主主義政府樹立を約束し、ソ連軍の鎮圧とともにユーゴスラヴィア大使館に亡命したナジ首相は、嘘の約束で大使館から出た途端に拘束されてルーマニアに移送された。ナジ・イムレ首相やその側近たちは、後にハンガリーに戻されて、1958年に死刑判決を下され処刑された。当時の日本の知識人の動乱評価はソ連の公式見解をそのまま鵜呑みにするものだった。
その後、1960年代に入り、フルシチョフの平和共存路線で、ハンガリー動乱で死刑判決を受けた死刑囚の多くが釈放され、国民宥和へと舵が切られたが、そこに至るまでの人的犠牲は言葉に尽くせない。他方、スランスキー事件以後のチェコスロバキアはスターリン主義的抑圧体制が継続し、それが1968年の「プラハの春」の運動となった。しかし、ソ連軍はプラハを制圧し、ソ連支配からの脱却にはさらに20年の歳月を要した。
余談になるが、最近、1956年以後のカーダール体制で内相を務め、動乱参加者の処刑実行責任者であるビスク・ベーラがまだ存命中で、国からそれなりの年金を受給していることがメディアで暴露された。取材者が身分を隠してビスクをインタヴューした記録がドキュメンタリー映画として上映された。この上映にあたっては、ビスクの家族と取材者との間で何度も話し合いがもたれ、短期間の一般上映が実現した。映画の中で、ビスク本人は「ハンガリー動乱は社会主義を転覆させる反革命であり、何も恥ずべきことはない」と意気軒高だった。
また、今年他界したホルン・ジュラ元首相(ハンガリー)は、1989年の国境開放で当時のハンガリー外相として一躍時の人となり、体制転換を推進した国際的な改革政治家と過大評価されているが、ハンガリー動乱時には体制側の親衛隊として動乱鎮圧に加わり、死去するまで「ハンガリー動乱は反革命」という姿勢を崩さなかった。そのために、ドイツを初め多くの国から褒章されたにもかかわらず、ハンガリー社会党の歴代首相が提案した叙勲申請は、二度にわたって大統領の拒否にあい、ホルンはハンガリーで叙勲の栄誉を得ることができなかった。筆者が前掲書でホルンの歴史評価の問題を扱った理由である。
ハンガリー社会主義を安定化させたとして評価されているカーダールのケースもそうだが、政治家の功罪の歴史的評価は簡単ではない。
いずれにしても、北朝鮮はいわば20世紀社会主義の支配形態の骨と皮だけを懸命に維持した、博物館的な存在価値を持つ、封建国家へ退化して崩壊の崖っぷちにある国家であることは間違いない。
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