大人国か小人国か
- 2014年 1月 6日
- 評論・紹介・意見
- 外征戦と自衛戦岩田昌征
安倍首相が年末に靖国神社参拝を決行した。特定秘密保護法採決等と関連して、諸外国からの風圧が強まっている。
私見によれば、文武強国の国家指導者たる者は、まず大人(たいじん)であるべきであり、自国民の心を心とするだけでなく、隣国諸国民の心を心とする所がなくてはならない。
かつてABCD包囲網が語られた。靖国参拝に関するA、B、Dからの批判とCあるいはKからの批判は、その意味が異なる。
欧米旧植民地大国からの批判は、大東亜戦争が全面的ではないにせよ、部分的には有していたアジア解放戦争の意義を完全に抹消したいだけである。アジア諸国からの批判は、かかる解放性よりも、A、B、Dにかわって、Jが新しい支配者たらんとする征服性が圧倒的に強かったと言う実体験に根ざしている。それ故に、私は、ニューヨーク・タイムスの批判を矛にして安倍政権を攻めない。中国や韓国の民衆の感性的反発を重く受けとめる。
そんな気持ちで大東亜戦争中に日本国民が歌っていた軍歌を一覧してみた。そうすると、日本国民の国土防衛意識の薄さに驚く。歌われているのは、ほとんどが本国を遠く離れたいくさである。遠くの情景である。
“思えば遠く来しものぞ”(「あゝ草枕幾度ぞ」)
“重い爆弾抱え込み 南京くらいは一またぎ”(「荒鷲の歌)
“くにを出てから幾月ぞ”(「愛馬進軍歌」)
“ここは御国を何百里 はなれて遠き満州の”(「戦友」)
“背も届かぬクリークに”(「父よあなたは強かった」)
“興安嶺よいざさらば”(「討匪行」)
“海山遠く隔てては”(「可愛いスーチャン」)
“敵の頼みのクリークも 江南の春未だしです”(「上海だより」)
“さらばラバウルよ 又来るまでは”(「ラバウル小唄」)
“ガダル思えば血の涙”(「海鷲だより」)
“栄えあるわれら ラバウル航空隊”(「ラバウル海軍航空隊」)
“この青空も敵の空 この山河も敵の陣”(「空の神兵」)
“シンガポールは陥しても”(「戦友の遺骨を抱いて」)
“徐州徐州と人馬は進む”(「麦と兵隊」)
“東亜の空を制するわれら”(「燃ゆる大空」)
“うたえ湖南の進軍譜”(「湖南進軍譜」)
上記のように、外征の歌が圧倒的である。但し、代表的軍歌「同期の桜」にはかかる直接的外征性はうたわれていない。
国土防衛が歌詞に銘記されている軍歌は、学徒出陣の「あゝ紅の血は燃ゆる」の“今こそ筆を擲ちて……護る国土は鉄壁ぞ”ぐらいであろうか。
日本軍は、他人の土地では勇戦し、強かった。しかしながら、国土防衛戦で国民党の中国軍や中国共産党の紅軍ほどに強靭であったろうか、それは実証されていない。外征に死力を尽くしたが、国民国土防衛では死力を尽くさなかった、と言う評価は、日本の国民や軍人にとっては、決して名誉ではない。あえて言えば、汚名の要素があろう。だからと言って、2千万人の死を覚悟した本土決戦の狂気を肯定するわけではない。国軍の名誉や体面にこだわって、原爆投下を許し、ソ連参戦を招いた政治判断の欠落は責められねばならない。しかしながら、外征に強く、自衛に弱いと言う事実の不名誉は残る。
かかる不名誉をぬぐい去ってくれた人達こそ国内唯一の陸戦・沖縄戦における沖縄県民である。日本国に国民政党があるとすれば、それが行うまつりごとの第一は、沖縄をして日本国の中で外国の軍事基地が無く、国軍のそれも日本国内最小であるような、平和な島にする事である。それが誠というものであろう。そしてかかるまつりごとの出来る国民的リーダーは、同時に隣国諸国民の心をも心とすることの出来る人物であろう。
平成26年正月3日
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion4707:140106〕
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