1/18現代史研究会(コメント)
- 2014年 1月 9日
- スタディルーム
- 星野彰男現代史研究会
[コメント] 経済思想史における才能論 2014.1.18 現代史研究会
星野彰男
1.経済思想史における才能論―アダム・スミスの基本命題
スミスは労働能力と同義の「才能(talent)」を基本命題に据えているが、これは和田著を含め関係学界ではまったく無視されてきたので、その問題点を下記に列挙してみたい。
1)スミスは、労働能力(熟練、技量、判断力)=「才能」が未開~文明にかけての、また文明社会内での分業の進展によって大幅に改良され(下記2、①~⑤⑫、参照)、それに応じて価値も増加すると想定している(④⑤⑧⑩)。これは、talentの語源が『聖書』中の労働に支給されたタラント貨幣であることにも即している。リカードは分業生産力分析を省き、分配分析に焦点を絞ったため、この才能=価値増加視点を継承せず、むしろ富と価値の混同だと述べて退けてしまった。マルクスは複雑労働分析の中で才能視点を継承したが、それは剰余価値分析にとっては「どうでもよいこと」、「余計な操作」(『資本論』1巻3編5章2節)だと述べて才能視点を理論展開から除いた。しかも、両者ともスミス価値論放棄説を唱えていたため、スミス才能視点の一貫性も認めることができず仕舞いになった。ミルを初めすべての経済学派はこのスミス曲解に気づかず、それを踏襲→通説化してきた。
2)従来のリカードとマルクスに代表されるスミス解釈は、スミスが価値論を独立商品生産者社会に限り(③~⑤)、文明社会(資本制社会)では放棄した、と言う。その一例はリカードによるemployとbestowの混同によるが、スミスはそれらを混同せず、その価値論を決して放棄していない(①⑥以下)。放棄説のもう一例は土地による価値形成説だが、スミスはこれも退けている(①⑧等)。
3) 上記の才能=価値増加視点が成立しうる条件は、労働能力(才能)の価値(価格)増加率より当該商品生産の量的増加率のほうが上回る場合に限られることである(⑦)。
4) 上記理論が外国貿易に適用されると、貿易→国際分業に伴う国民的価値(純収入)増加論が導出される(⑨~⑫)。リカード→ミルの比較生産費説は価値一定を前提し、その説を継承した貿易理論では、自由貿易は先進国に有利になると解された。だが、スミスの才能=価値増加論によれば、貿易の平等互恵性(成長率均等)が論証される。さらに、知識や技術の移転は後発国側にはるかに有利に作用する。
5) 上記により、スミスの重商主義批判がより鮮明になる。従来は、保護貿易か自由貿易かという一長一短の議論に終始したが、自由貿易有利説が理論的に裏付けられる。また、これにより、植民地への一国独占貿易の不利益(⑪)も解明され、植民地独占批判を含むスミス命題の世界史的妥当性=信憑性が現実的に立証される。
6) これらにより、歴史の見方もより的確なものとなる。カント「世界市民的見地による普遍史の理念」(1784)も、上記のスミス視点と符合する歴史観を簡略ながら披瀝したが、その基になるスミス視点は、前記の価値論放棄説と植民地支配有利説によって、〈神の手〉の議論として体よく祭り上げられてしまった。この曲解の普及に際しては、マルクス経済学と新古典派経済学が奇妙な共鳴現象を呈していた。なお、植民地支配(独占)を資本主義の論理的必然性と解する「帝国主義」論や「独占資本主義」論は、スミスの重商主義批判等に内包される才能=価値増加視点を退けたことに伴う取り違えをしている。つまり、それら両論は価値法則→資本の論理でなく、スミス重商主義批判の再版に相当する。
7)才能=価値増加論から構成される自然価格は市場価格を規制する中心価格として機能する。そこに人為的な規制や法が介入して自然価格を恒常的に上回る独占価格が形成されると、最適資源配分から逸脱する。植民地貿易の独占はこれに当てはまるが、さらに遠隔地貿易への資本投下を促進し、軍事力も伴うため、当該国全体の才能=価値増加論の体系を歪め、非効率化させてしまう。スミスはこの論理(価値法則)を的確に捉えていた(⑪)。
8) ケインズとハイエクは、上記のスミス体系を明確に理解していたわけではないが、直観的に人一倍高く評価した。両者とも暗黙裡にスミスの植民地独占批判を念頭に置いていたようだ。とくにハイエク(1949)は、スミスを退けたミル、マルクス、シュンペーターに手厳しい。ハイエクの自生的秩序論は内生的成長論(人的資本)として継承・展開されてきたが、価値論視点を欠いている。インド人A.センのスミス評価が高いのもよく理解できる。高島善哉も卒論(1927[公刊1998])で(ミル→)シュンペーターの静態・動態二分論を批判し、これを克服すべきスミス生産力論をハイエク以前に提起した(1941)。しかしその動態論的含意は、内田義彦・小林昇も含め十分には受け止められて来なかった。諸学派は文明の発展が諸科学を駆使する生産能力(才能)の発達に負うことを捉え損ねている。よって、すべての経済学派はスミスの基本命題に立脚して再構成されるべきだ。
[参考文献] 拙著『アダム・スミスの経済思想』2002、『アダム・スミスの経済理論』2010、ともに関東学院大学出版会、「アダム・スミスの動態理論」経済学史学会報告2013.5.25
2.『国富論』からの才能論に関る抜粋 *(…)内は引用者、訳語を一部変更
①「この(すべての国民の年々の)生産物とそれを消費するはずの人々の数との割合は、どの国民にあっても二つの異なる事情によって、すなわち、その国民の労働が一般に適用される際の熟練(skill)、技量および判断力によって、そして第二には、有用な(生産的)労働に従事する人々の数とそうでない人々の数との割合によって、規制されずにはいない。……/この供給が豊かであるか乏しいかは、その二つの事情のうちの後者よりも前者によるところが大きい。未開民族の間では、働くことができる個人はすべて有用労働に従事している。……しかしながら、そのような民族は極度に貧しい。……これに反し、文明化し繁栄している民族の間では、多数の人々は全然労働しないのに、働く人々の大部分よりも10倍、しばしば100倍もの労働生産物を消費する。しかし……最低最貧の職人ですら質素かつ勤勉であれば、どんな未開人(国王を含む)が獲得しうるよりも大きな割合の生活必需品や便益品を享受することができる。」(岩波文庫1、序論、3-4パラグラフ[以下、パラ])
②「ヨーロッパの王侯(prince)の家財用品が勤勉で倹約な農夫のそれを超えている度合は、必ずしも後者の家財用品が、何万もの裸の未開人の生命と自由の絶対的支配者であるアフリカの多くの国王のそれを超えているほどではない…。」(第1編第1章末尾)
③「狩猟あるいは牧畜の種族の中で、ある特定の人々が……武器工になる。ある人は……家大工になる。……第三の人は鍛冶屋…になり、第四の人は……獣皮のなめし工や仕上げ工になる。こうして、…(相互に)確実に交換することができるということが、各人を特定の職業に専念するように、そしてその特定の仕事に対して彼が持つあらゆる才能(talent)や資質(genius)を育成し、完成するように仕向ける。/様々な人の生まれつきの才能の違いは……小さいのであり、成人したときに、様々な職業の人たちを隔てるように見える大きな資質の相違も、分業の原因であるよりは、むしろ結果である場合が多い。……/異なる専門職の人たちの間で、これほど顕著な才能の差を生むのが交換性向であるように、その差を有用なものとするのもまさにこの性向である。…(動物と異なり)人間の間では、最も似たところのない資質こそ互いに有用なのであって、彼らのそれぞれの才能の様々な生産物が……交換性向によって、いわば共同財産になり、そこから誰もが他人の才能の生産物のうち自分の必要とするどの部分でも買うことができる。」(第2章、3パラ~末尾)
④「その(財産の)所有が……もたらす力(power)は購買力、……支配力である。彼の財産の大小はこの力の度合……に正確に比例する。すべてのものの交換価値はそれがその所有者にもたらすこの力の度合につねに正確に等しいはずだ。/しかし労働がすべての商品の交換価値の真の尺度であるとはいえ、それらの商品の価値が普通に評価されるのは労働によってではない。……耐え忍ばれたつらさ、行使された創意(ingenuity)の程度の差も同様に考慮に入れられなければならない。1時間のつらい作業の中には2時間の楽な仕事よりも多くの労働があるかもしれず、習得するのに10年の労働が必要な職業での1時間の執務の中には、ありきたりの分かりきった仕事での1ヶ月の勤労よりも多くの労働が含まれるかもしれない。……様々な生産物を相互に交換するに際しては、その両方について何らかの斟酌がなされるのが普通である。ただし、それは何か正確な尺度によってなされるのではなく、市場の駆け引きや交渉によって、正確ではないが日常生活の仕事を継続するには十分であるような種類の、大まかな等式によって調整される。」(第5章、3-4パラ)
⑤「貯え(stock)の蓄積と土地の占有の双方に先立つ社会の初期未開の状態にあっては、様々な物を獲得するのに必要な労働量の間の割合が、それらの物を相互に交換するための何らかの基準を提供する唯一の事情であるように思われる。(鹿とビーヴァーの例)/もしある種類の労働が他の種類の労働よりも激しいものであれば、この一層のつらさに対して当然に何らかの配慮がなされるだろう。……/また、もしある種類の労働が並外れた程度の技量と創意を要するものであれば、そのような才能に対して人々が持つ尊敬は、当然にそうした才能の生産物に対して、それに用いられた(employed)時間に相当するよりも優れた価値を付与するだろう。そのような才能は長い精励の結果でなければめったに取得できないものであり、その生産物の優れた価値は、そうした才能を取得するために費やされ(spent)なければならない時間と労働に対する合理的な償いにすぎないことが多いだろう。進んだ(文明)状態の社会では、格段のつらさや格段の熟練に対するこの種の配慮は、労働の賃金についてなされるのが通例であり、ごく初期未開の社会でも、おそらく何かこれと同種のことが行われていたに違いない。」(第6章、1~3パラ)
⑥「一たん貯えが個々人の手中に蓄積されてしまうと、彼らのうちのある者は自然にそれを勤労者を就業させるために用いるだろう。彼らが勤労者に材料と生活資料を提供するのは、勤労者の生産物を販売することによって、すなわち、勤労者の労働が材料の価値に付加する(add)ものによって、利潤を得るためである。」(同、5パラ)
⑦「こうした(分業や機械化による労働生産力の)改良の結果、多くの商品が以前よりもはるかに少ない労働で生産されるようになるから、労働の価格の増加は(個別商品の)労働の量の減少によって相殺されて余りあることになる。」(第8章末尾)
⑧「労働のうちである種類のものは、それが投下された(bestowed)対象の価値を増やす(add to)が、もう一つ別の種類の労働があって、それはそのような効果を持たない。前者は価値を生産するのだから、生産的と呼び、後者は不生産的と呼んでいいだろう。こうして製造工の労働は、一般に彼が加工する材料の価値に彼自身の生活費の価値と彼の雇主の利潤の価値を付加する(add)。これに反して、家事使用人の労働は何の価値も増やさない。」
「どの国でも、その国の土地と労働の年々の生産物の価値を増す(increase)には、その国の生産的労働者の数を増すか、すでに雇用された労働者の生産力を増す以外の方法はない。」(岩波文庫2、第2編第3章、1パラ、32パラ)
⑨「勤労の生産物とは、勤労が用いられる対象すなわち材料にその勤労が付加するものである。この生産物の価値の大小に比例して、雇用主の利潤も同様に大きかったり小さかったりするだろう。しかし人が勤労を支えるのに資本を用いるのは、ただ利潤のためである。したがって、生産物が最大の価値を持ちそうな勤労……を支えるのに、資本を用いようとつねに努めるだろう。/しかしどの社会でも、その年々の収入はつねにその社会の勤労の年々の生産物全体の交換価値と正確に等しい。あるいはむしろ、その交換価値と正確に同一物なのである。したがって、どの個人もできるだけ、自分の資本を国内の勤労を支えることともに、そうすることでその生産物が最大の価値を持つようにこの勤労を方向付けることにも努めるから、どの個人も必然的に、その社会の年々の収入をできるだけ大きくしようと骨を折ることになる。……そして彼は……見えない手に導かれて、彼の意図の中にまったく無かった目的(公共の利益)を推進するようになる。」(第4編第2章、8-9パラ)
⑩「買うよりも高くつくものは自分で作ろうとはしないというのが、およそ一家の慎慮ある主人たるものの格言である。……/……それが振り向けられている商品の生産よりも、明らかに価値が大きい商品の生産から、こうしてそらされている場合には、勤労の年々の生産物が多かれ少なかれ減少することは確実である。……したがってその国の勤労は、こうして、より有利な用途からそらされて、より不利な用途に振り向けられ、その年々の生産物の交換価値は、立法者の意図通りに増加する(increase)どころか、そうした規制を受けるごとに必然的に減少するに違いない。」(同、11-12パラ)
⑪「植民地貿易の独占は、重商主義の他のすべての…方策と同様に、それが利益を与えようとした国の勤労を少しも増進させ(increase)ないで、反対に減少させつつ、他のすべての国の勤労を、主に植民地の勤労を衰退させる。」(岩波文庫3、第4編第7章、56パラ)「独占は、それが無い場合よりもすべての収入の源泉、すなわち労働の賃金と土地の地代と貯えによる利潤とをはるかに少なくする。」(同、60パラ)
⑫「有用労働の生産諸力の改良は、第一に、職人の能力(ability)の改良に依存し、第二に、彼が仕事するに当たっての機械類の改良に依存する。ところが、工匠と製造業者の労働は農業者と農村労働者の労働よりも細分化が可能であり、各職人の労働はより専一的な(simple)作業に削減されることが可能だから、さらにこれら両種類の改良をはるかに高度に行うこともまた可能である。」(第9章、35パラ)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study605:131209〕
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