[追加コメント]「経済学の展開」と「資本主義の発展」の関係―1月18日の現代史研究会
- 2014年 1月 15日
- スタディルーム
- 星野彰男
[コメント]「経済学の展開」と「資本主義の発展」の関係 2014.1 星野彰男
(1) かつて「反映」という言葉は、歴史(土台)がイデオロギー(上部構造)に「反映」されるという唯物史観の言葉として、盛んに使われたことがある。だが、その観点が行過ぎ、教条主義化した結果として、丸山真男等による「基底体制還元主義」等の批判を受けた。それ以来、教条的な「反映」論は克服されてきたが、その反面、歴史やイデオロギーに対する懐疑主義が言論界を覆ってしまったようにも見える。本報告はそういう状況に対する反論の試みのように思われる。その試みの現代的必要性を受け止めた上で、その内容に関して若干の疑問点を提起したい。
(2) その難点の一つは、「資本主義の発展」と言っても、その中身の捉え方によってかなり異なる発展像が描かれうることである。例えば、植民地支配の拡大は、「資本主義の発展」なのか、その歪みなのか、といった問題である。それは1世紀以上にわたる世界史の事実だが、それを「発展」と言えるのか。確かに植民地諸国との一国独占貿易であっても、それをしないよりしたほうが「発展」する。しかしその貿易を諸国に自由化したほうがもっと「発展」したとすれば、その独占は本来の「発展」をかなり妨げたことになる。その妨げられた「発展」を黙認・助長することを「反映」と言ってよいのか。そこに理論分析が関わってくる。つまり、その理論がなければ、「反映」の是非も解明できないことになる。教条的「反映」論の克服とは、そういう意味だったはずだ。
(3) 上記に「経済学の発展」を当てはめてみよう。(2)の観点はスミスの主著第4編の重商主義批判の中にある。ミルの主著もスミスと重なる5編構成を採っているが、その第4編は、スミスの重商主義や独占貿易への批判を黙殺したまま、美しい将来社会論に振り替えてしまった。他の箇所では、植民地化を是認する議論をしているから、そういう形で現実を「反映」・先取りしている。それをもってスミスの議論を過去化し、ミルの議論が新しい現実をよりよく「反映」していると言えるのだろうか。また、ミルの植民地肯定論の延長線上での「資本の文明化作用」とか「資本の論理」としての植民地化必然論にも疑問がある。法思想に自然法と実定法があるように、経済思想にもその両面があろう。もし実定法が自然法から乖離しているとすれば、その実定法の「反映」は真実から乖離しているはずだ。長期的なバブル現象についても同様のことが言える。植民地拡大も一種のバブル現象であった。つまり、スミス視点からは、それは経済的には割の合わないものだが、経済外的諸要因に支えられて列強諸国がそれに狂奔したということになる。そういう風に捉えることが真の意味での反映ではないか。
(4) 「発展」を「反映」させるならば、経済学は何よりも科学技術の飛躍的発展を「反映」させなければならないはずだが、ミル以来の新古典派は価格機構を静態論とし、それ以外の分野を動態論とし、そこに政策も加えられた。そのため、発展の契機が内在的でなく、外在的に捉えられた。スミスの労働生産力改良論は価格機構に内在する動態論だが、それが継承されず、近年ようやく、内生的成長論として再評価されつつある。ミル以来の二分論よりもスミス理論のほうが、先の場合と同様に、自然法的現実をより正確に「反映」・先取りしていたのではないか。
(5) スミスの動態理論は、ヒュームの「勤労の増進」を継承・具体化したものである。経験論者ヒュームは金銀貨幣の長期的な増加をもってそれを論証したが、スミスは不変の価値尺度を金銀から労働に振り替えた。その意味で、スミスの価値増加論はヒュームを介してイギリス近代史の発展を反映していた。スミスは未開社会にも初歩的な分業の存在を認め、その分業が各自を専門化し、その才能を伸ばすと言う。その未開社会の何万人の支配王より文明社会の農夫のほうが、彼と同時代の王侯との格差以上の格差で豊かなはずだと言う。未開社会に分業がなければ、その格差論は理解しやすいが、スミスはそこに分業を想定したから、その格差は分業の成熟度に伴う才能の格差と同じことを意味しよう。スミスの労働価値論はそこに生かされてくる。つまり、文明化に至るまでに才能の平均水準が飛躍的に向上したという認識がそこに含まれる。スミスの文明社会論は基本的にその論理を反映している。
(6) リカードは分配論を主題としたために、才能を世代間でもほとんど伸張しないとしてその議論を省いただけでなく、その議論は物的増大を価値増大と混同していると言って、退けている。そしてミルはリカードを継承する。マルクスも、才能向上論は剰余価値論にとっては、人数増加と同じ論理だから、「余計な議論」だと言って、理論体系から省いてしまう。最近、邦訳されたポストン著はマルクスのその価値一定論が現実の生産力の超高度化を反映していないと詰問しているが、まさにその通りだ。ポストンはスミスには言及していないが、スミスの才能伸張論は、科学技術による超高度化生産力の根源を的確に捉えていた。リカードがそれを曲解し、ミル以降のすべての経済学がそれを見過ごしてきた。僅かにハイエクがそれに近い市場認識を示し、近年の人的資本や内生的成長論に継承されているが、価値論には関わらせていない。ハイエクはヒュームをスミス以上に評価するが、そのヒュームが「勤労の増進」という才能価値向上論と同じ論理を展開していることをどう評価しただろうか。しかも、それはヒュームの歴史的経験認識に支えられた議論でもあった。
(7) スミスは秘密保持の利得に関わる議論の中で、ある染色業者が従来のコストの半額で染色する技術を開発してその秘密を保持する間、特別の利得を得る場合、それはその開発労働の利得になるべきものが、普通には利潤の利得と考えられていると言う。いかにも才能論者スミスらしいが、これは現代にも通ずる議論ではないか。そして多くの同様の利得が企業利潤に回されているのではないだろうか。スミスの才能論が継承されなかった付けがそこに示されている。これも自然法的な反映のあり方と言えるだろう。こうして、人的資本や知的財産論としてようやく才能論が復元されつつある。これにより資本主義のあり方もかなり変わらざるをえなくなろう。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study607:131215〕
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