テント日誌1月21日特別版【テント外伝…1】 経産省前テントひろば864日目…商業用原発停止132日
- 2014年 1月 21日
- 交流の広場
- 経産省前テントひろば
三上さんから私に対して「テント日誌に関連する、あるいは関連してなくてもよいから何か書いてほしい」と言われた。いきなり言われたので「少し考えさせてもらいます」と答えた。しかし、いざ書くとなると何からどう書くのか、さっぱり方向が見えない。こういう場合は「何でもよいから書く」ことよりも、「この件について書いてほしい」とかの枠を与えられた方が楽である。と言うわけで、私の身辺とテントの運動こもごも、いわば定点を定めないでその時の気分を交えて不定期的に記してみようと思う。前口上はここまで、以下雑文に入る。
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今私は書かねばならない要件が山ほどある。①日大闘争の記録である「忘れざる日々(とき)」vol.5の原稿を来月初めまで書く。②日大全共闘の仲間とともに「9・30新聞」を刊行するがこの記事も今月末までに書く予定である。③考古学の同人誌を毎年刊行しているが、今年は昨年亡くなった私の友人である京大教授(考古学専攻)の追悼論集の書評を来月末まで書く。とこのように今すぐ手をつけねばならない要件がある。それもみんな1銭にもならない「仕事」である。ところが、それぞれの優先順位とか、切り口とかが全く白紙である。それぞれ考えているのだが、また私は文章をどのように纏めるのか、その構成はどうあるべきなのかという「書くことの訓練と実践」を40年間近く続けてきており、文章を書くことは苦痛ではないのだが、なぜか前に進まない。
この、苦痛ではないはずのこの諸課題が「全て入口で止まっている」状態が昨年の12月以来続いている。この原因の一つには風邪とPTSDの再発と言うことが長引き思考回路がうまく回転しないということもある。私は、テントで受付を行ったり、座り込みをして言うときにも手元にメモ帳、あるいはihoneを忍ばせており、何とかこの停滞状況を変えようと密かに念じているのだが。ところが、テントに来客があり「***に行くのはどうすればよいのか」と道案内係りになることや、来客が「反原発運動の目的は何か」と聞いてくる。もちろん邪けに扱う訳にはいかず、私なりに対応をする。だが、このような状況で停滞状況に変化はない。この停滞状況を打破して何とか思考回路復活のエンジンを駆けたいのだが、思うようにはいかないものだ。
思えば日本の政治的中枢部である霞ヶ関に、しかもその中でもほぼ中心部に反原発運動の拠点としてテントを建てる、そして実際にも反原発活動を展開するという大胆極まることを我々は実行しているのだ。それが、もうすぐ1000日近く継続し反原発運動の橋頭保としてテントの存在がある。鎌田慧さんをして「テントは霞ヶ関の”へそ”である」と言う評価を戴き、その意味することは深いものがある。あの3・11以降私の内部において今までの価値観や世界観に大きく変化をもたらしたが、その変化が物質化したものの一つがテントの存在である、と私は思う。私はこのことについて、ある人から「霞ヶ関に反原発の旗幟を鮮明にしてテントがある。これだけでもすごいことであり、政界・財界の反応もテントの存在の当否の評価は別にしても無視できないだろう」と言われた。周囲の心ある人はそう見ているのだろうか、と思った。そう言えば昨年の夏の盛り、テントの前で座り込みをしていると、作家の浅田次郎さんが突然目の前に現れて「あなたたちの行為はすごいことなのだ。私は応援するよ」と言うようなことを言って、2・3秒でタクシーに乗り去って行ったこともある。
こういうことを書き連ねていると、自分の行為を”自画自賛”しがちになる。周りの人が「すごいことだ」と言われれば、自分自身が「本当にすごいことになっているのか」と思い込み、そこには自分を顧みるという下向思考が無くなるような気もする。だが、運動には常に「自分を顧みる」と言う自浄作業は必要なことだ。周りから評価されて、有頂天になり自浄作業が停止した段階でその運動は堕落し、運動としての存在意義は無くなるだろう。また、どのような運動体であってもその内部における馴れ合い、持たれあいも運動体としての緊張感を崩壊させる。無論テントでの個々人の信頼関係の持続は必要だが、そのためにも相互批判=自己批判を意識的に維持し、運動体内部の緊張感を持ち続ける。これもテントの運動を維持するために継続することだと思う。
何をこんな分りきったこと書いているのだ、一体上記の①から③までの問題をどうするのか、早くエンジンを駆けろと心の中の「三尸の虫(さんしのむし)」が背ついているのだ。
2014/1/21(A/Y記)
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