「ブタ積み」された不換紙幣の価値とアベノミクス
- 2014年 2月 5日
- スタディルーム
- 奥山 忠信
アベノミクスと貨幣数量説
2年間で貨幣量を2倍にして、2%の物価の上昇をもたらす。言うまでもなく、アベノミクスと呼ばれる経済政策の根幹をなす黒田日銀総裁の金融政策である。貨幣量の調整を経済政策の基本とする点で、マネタリズム(貨幣量の増加が物価を上げ、貨幣量の減少が物価を下げるという経済学の伝統的な学説)にもっとも忠実な政策である。
30年前のアメリカのレーガン大統領の政策と目標は逆だが、手法は同じである。いわゆるレーガノミクスが、インフレとの戦いを目標にしたのに対して、アベノミクスはデフレからの脱却を唱えている。レーガンの新保守主義を支えたマネタリズムの巨匠フリードマンが、インフレは貨幣現象である、という名言を残したが、安倍首相は2013年2月7日、衆議院予算委員会において、デフレは貨幣現象である、とフリードマンを真似ている。
たしかに、アベノミクスの推奨者たちは、現政策を単純な貨幣数量説ではないと主張し、インフレマインドの定着を唱えている。フリードマンは、マインドの定着は20年かかると言っている。インフレが起きてから20年という意味である。今回の政策は、インフレが起こる前にインフレマインドを定着させようとする点と、インフレマインドを短期に定着させようとする点が、新しい点と言えなくもない。
しかし、これは「騙せたら勝ち」と言っているに等しい。危うい政策であり、メディアの「大本営発表報道」的協力を不可欠とする政策と言える。文字通り背水の陣の政策である。しかし、背水の陣の政策は、本当に有効性を持つのかどうか。
■19世紀への先祖返りの結果
1980年代以降のマネタリズムの隆盛と、1990年代以降のグローバリゼーションの急展開で国家対市場の対立が叫ばれ、国家や社会による保護を前時代的なものとし、規制緩和を是とする経済思想が席巻した。そして、市場主義の下での自由競争を最も効率的なシステムとする思想が広く受け入れられるようになった。これは19世紀への先祖返りである。
第二次世界大戦後に人類の「進歩」と思われていたケインズやマルクスの「革命」は、マネタリズムによって一掃されてしまった。いわゆるフリードマンによる経済学上の「反革命」の勝利である。
しかし、市場主義の下での自由競争は、不運な弱者を淘汰し、格差社会は世界的な傾向となった。新興国はもとより、先進国の貧困問題が時代の新しい主要な社会問題として浮上してきた。
わが国もまた、労働者の3分の1を非正規雇用とする社会となった。事実上の社会主義とさえ言われていた70〜80年代の日本の賃金体系がたちどころに崩壊し、先進国内でもまれにみる速さで格差社会を生み出したのである。
■通貨変動相場制を真に受けた唯一の国
今、アベノミクスで株価が1.5倍になるなかで、2013年下半期(7~12月)の実質賃金(物価変動を考慮した賃金)は、1%を超える下落が予想され、リーマン・ショック以来の下落はばとなる。年間60~70兆円の貨幣供給は、賃金には反映していないのである。
日本の賃金は下降線をたどり続けている。これは国際化への日本的な対応の帰結であった。その基本的な原因は、日本が変動相場制への転換を生真面目に受け止めた点にある。ニクソン・ショックとスミソニアン体制の崩壊後の1973年以降、変動相場制が導入された。
1944年のブレトンウッズ会議によって作られた第二次世界大戦後のIMF体制は、固定相場制とアメリカ・ドルと金との兌換(1トロイオンス=35ドル)によって成立していた。ニクソン・ショック(1972年8月)による戦後体制の崩壊は、資本主義世界の崩壊を思わせるほどの衝撃であった。しかし、東西冷戦下、ベトナム戦争の泥沼化が続く中で、アメリカは金兌換による金の国外流出を見逃すことはできなかった。戦時には紙幣はただの紙に戻る。金は戦時には不可欠の貨幣となる。
変動相場制は、金・ドル兌換停止と国家の為替市場への不介入を前提とする。国家が為替市場に介入しないということは、外貨準備が不要になることを意味する。変動相場制に伴う為替以上の混乱は、先物市場が作られることによって回避されるものとされていた。フリードマンが提唱したこの学説は、貨幣に関する市場主義であり、外貨準備不要の理想的なシステムとされていた。
しかし、理論的な関心は持たれていても、その現実性は信じられていなかった。信じられていなかったからこそ、8月のニクソン・ショックの後の変動相場制を12月のスミソニアン合意によって固定相場制に戻したのである。その崩壊は、変動相場制の理論的な優位ではなく、固定相場制の放棄の帰結に過ぎない。
現実の変動相場制は、為替を維持するために大量の外貨を必要とし、国家が為替介入し、国際的な協調体制をとることによってかろうじて維持されてきた。当初の理論的な想定とはあまりにも違いすぎる。為替リスクを回避すると言われていた先物市場も、アジア通貨危機(1997年)には、投機の対象として利用された。
変動相場制を真に受けたのは日本だけと言える。ヨーロッパはさまざまな制度を作って広域経済圏の固定的な為替相場を維持しようと努めていたし、新興国はドルをはじめとする強い通貨にリンクして貿易の安定を保とうとしていた。この動向は今でも同じである。ヨーロッパの努力の結果が欧州単一通貨ユーロである。ドルが世界通貨である限り、アメリカは経常収支の制約を直接に受けることはない。おそらくは、日本が変動相場制の被害を一番被った国であろう。
■起きなかったトリクルダウン
1985年プラザ合意時の1ドル250円水準から、1995年の1ドル=80円の円高まで、10年間で円は3倍になる。以後一時的に円安に振れることはあったが、円高基調は続いた。日本は、この経済環境の悪化を、国外への生産拠点の移動と賃金の切り下げによって国際的な競争力を維持し乗り切ろうとしたのである。
正規雇用者の賃金の上昇を抑え、非正規雇用を急激に増やすことで、グローバリゼーションに対応したのである。名ばかりの労働市場の流動性である。規制緩和の行きつく先が今であり、安易な市場主義導入のつけが回っているのである。
戯言を言わせてもらえば、もしニクション・ショック(1971年8月)がなければ、・・・金とドルとの兌換、そして固定相場が維持されていれば、日本は今でも「ジャパン・アズ・ナンバーワン」でいられたかもしれない。
現状は、過少消費不況である。非正規雇用の急激な増大が、貧困化をもたらし、消費需要を停滞させているのである。政府が経営者団体に賃上げを迫るという異常事態は、この問題の深刻さを政府が認識していることを示している。富者を富ませれば徐々に貧者も豊かになるというトリクルダウンは起きなかったのである。
■「ブタ積み」されたマネーの効果
日銀が供給した膨大なマネーはどこに消えたのか。日銀の中の金融機関の口座の中に眠っているだけである。これを隠語で「ブタ積」みという。貨幣数量説による貨幣量の増加のイメージは、しばしばヘリコプター・マネーと呼ばれる。貨幣数量説の論者であるベンバーナンキが「ヘリコプター・ベン」と呼ばれたのは、貨幣数量説による。
本当にヘリコプターから1万円札を撒くのなら拍手喝采であろう。しかし、そうではない。量的緩和のために日銀券を刷るわけではない。日銀券はアベノミクスの計画でもほとんど増えない。金融機関の国債が日銀に移り、日銀の中にある金融機関の口座に莫大な代金が振り込まれるだけである。紙幣の印刷費もかからない。
そこから先に貨幣が流れるかどうかは、企業と金融機関の行動次第である。実際にはなかなか流れないのである。不況マインドの中では、資金は借りたくても借りられない。貸したくてもリスクが大きすぎる。統計上の雇用が増えても、非正規雇用が増えるだけで、肝心の実質賃金が下がるとなると、何の効果もなかったことになる。「ブタ積み」の量が増えたのである。根本的な問題は、貨幣の問題ではないのである。
しかし、日銀が国債を買って貨幣を供給するという手法は、国債の値段を上げ、金利を低くする効果は期待できる。もともとゼロ金利状態なので、その変化はわずかであり、国内の製造業がこの微々たる金利の変化で投資行動を変えることは考えにくいが、金融機関にとってはわずかな差も見逃せない。金利の低下が期待されれば、円は売られ、円安になる。この期待は為替を円安に誘導する。輸出産業にとっては、これは有利に働くはずである。
言うまでもないが、円安による輸入価格の上昇は、デフレからの脱出ではあっても、不況の脱出の指標ではない。物価が上がっても喜ぶべきことではない。むしろ実質賃金の低下の要因となる。また、財政投資によるGDPの増大は、経済成長ではあるが、ケインズの手法であり、マネタリズムの批判してきた政策である。貨幣量増大の成果に数えるべきではない。
また、国債を日銀が買うことによって、日銀以外の機関の投資行動が、国債から株にシフトすることは十分に考えられるので、株式市場は活性化する。あるいは活性化することが期待される。現状は外資中心の株の売り買いだと言われているが、この思い込みによって株価は上昇する。ただし、株価の上昇と実体経済の成長とは直接の関係はない。株価は株価、架空の評価である。株でもうけた人が、もうけた分を株に投資しないで消費に回すという仮定で成り立つ話であり、多くの期待は出来ない。
株や不動産は、生産を刺激するものではないので、いくら上昇しても、実体経済に結びつく保証はない。貨幣を増加すれば、為替が下がり、株価が上がる効果は期待できるが、景気が回復して物価が上がる保証は特にないのである。
■貨幣数量説の本来の意味とは?
なぜそのような幻想が生じたのか。それは貨幣数量説の出自と理論にある。貨幣数量説の起源は不確かである。貨幣が増えれば物価が上がるという考えは、日常経験に馴染みやすい。とは言え、この学説は、コロンブスのアメリカ発見以来の金銀のヨーロッパへの流入、これに伴う16世紀のいわゆる価格革命と呼ばれる時期に普及している。当時のヨーロッパの貨幣は金と銀である。その増加と物価の上昇が軌を一にしたのである。
これが学問的な関心の対象となった。貨幣数量説の創設者には、ジョン・ロック、モンテスキュー、デイビッド・ヒュームという世界史を飾る知性が名を連ねている。この学説は、ヒュームにおいて完成するが、有名な公式は20世に入ってから、アーヴィング・フイッシャーによって作られる。MV=PT(M:貨幣量、V:貨幣の一定期間での使用回数あるいは流通速度、P:価格、T:取引量)、である。千円札が5枚、1週間に各3回使われたとすると、1万5千円。アイスクリームが1個100円で1週間に150個売れたとすると、1万5千円。購入総額(MV)と販売総額(PT)は常に等しいので、この公式は常に成り立つ。Vが慣習的に一定でTにも大きな変化が一般にはないと仮定すると、MとPは、比例定数1の正比例関係になる。つまり、一方が2倍になれば他方も2倍になるのである。MV=PTが「自明」であるとすれば、この正比例関係も「自明」になる。
フリードマンによれば、貨幣量と物価の比例関係を言うだけでは貨幣数量説ではない。貨幣量の増加が原因で、価格の上昇は結果であると言うことが重要である。Mが原因で、Pが結果であるということは、この等式からは本来導くことはできない。価格が上がれば貨幣量も増えるという必要流通手段量説も成り立つ。この考えは貨幣数量説に対する批判の系譜として伝統的に受け継がれている。アダム・スミスやカール・マルクスなどがそれであり、現在の貨幣供給に関する内生論もこの系譜にある。
とは言え、貨幣数量説にとっては、貨幣の供給が外生的に決まる、とすることで政策手段としての意味を持つ。しかし、この学説には当初から根本的な疑問が付きまとっていた。貨幣量が増えれば本当に需要量は増えるのか(ジェームズ・ステュアート)、貨幣が増えても使われなければどうなるのか、という疑問である。使われなかった貨幣は物価に影響しないのだから、等式から外して、貨幣数量説を成立させる(J.S.ミル)見解も登場する。
単純化すれば、一定期間に100円のアイスクリームが1個売れ、100円玉が一個使用された、というだけの等式である。自明ではあるがそれ以上の意味は持たない。今でも、使われた貨幣だけを取れば、貨幣数量説はいつでも成立する。問題なのは供給されたが、使われなかった貨幣の存在である。今の日銀の目標は、貨幣量を2倍(基準年の200%)にして、物価を2%上げることにあるが、それ自体が、本来の貨幣数量説とは程遠い。
■国際的通貨システムの根本的な見直しを
ニクソン・ショック以降、アメリカ・ドルは一国の不換紙幣のままで世界貨幣として信認されてきた。ロバート・マンデルによれば、シニョレッジ(貨幣発行益)がアメリカ一国によって独占されている状態であり、道義的にいつまで続くかわからない状態にある。各国通貨もまた不換紙幣である。通貨発行の歯止めは失われつつある。
それとともに、バブルとその崩壊が景気循環を主導するようになっている。アメリカはリーマン・ショックの後で、4カ月で通貨を3倍にして、証券市場崩壊の危機を乗り切っている。しかし、増えた貨幣を回収することは極めて困難である。量的緩和を縮小したり、場合によっては止めたりすることはあっても、通貨量を元に戻すことはありえるのだろうか。市中に流された大量の貨幣は、次のバブルの源泉となる。その分だけバブルとその崩壊の規模が大きくなる可能性が高い。
しかし、それだけではない。不換紙幣は固有の価値を持たない。貨幣数量説が唱えるように、貨幣量によって比例的に貨幣価値が管理されているわけではない。貨幣価値は人々の社会的な幻想によって維持されているにすぎない。貨幣価値に対する信認の崩壊は、インフレのレベルを超えて市場の崩壊である。
格差社会の現実に立ち向かい、現代の国際通貨システムを根本的に考え直す時期に来ていると言える。
初出:「法と経済のジャーナル」http://judiciary.asahi.com/fukabori/2014013100001.html
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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study608:140205〕
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