テント日誌2月19日 経産省前テントひろば894日目…商業用原発停止162日目─都知事選の残した傷痕と大雪の残したもの
- 2014年 2月 21日
- 交流の広場
- 経産省前テントひろば
二度の週末の大雪の残雪がテント前の道端のあって寒い。周辺の空気が冷たいのだ。なかなか消えずに残る雪を見ながら思わぬ大雪に苦闘を迫られている山間部の人たちのことを思う。一昔前なら、雪も含めて冬を過ごし人々の生活の知恵が機能していたのであろうが、利便化という都市生活の浸透が自然の猛威に対応しえない面を暴露してしまっているのではないのだろうか。過日の都知事選だって、原発というエネルギー問題がなかなか争点にはなれにくくなっていたのを想起すれば、自然離れが常態化していく都市生活のことなどなかなかふり返れないのかもしれない。大雪は天の怒りだなんて言わないけれど、時に自然のこと、自然と人間関係の現在などを考えてみるにはいい契機なのかもしれないと思った。テントで寒さを凌ぎながら忘れがちな自然のことを随分と考えさせる契機をもらった。せめて大雪がそんな契機になったらと思う。
大雪は自然のもたらしたものであり、近づく春と共に消えゆくだろう。都知事選は脱原発を掲げる候補の敗北で終わったが、あちらこちらに傷痕を残しているようだ。テントの内で選挙をめぐる討議は白熱した形であるし、これが冷めるのには時間も必要であろう。都知事選の残した傷痕は残雪のように自然には消えていかないものだし、その傷痕は思想的に包括されてしか解消しえないものだろうから、痛みがあっても多いに論議すればいいのだと思う。ちゃんとした論議ができることも僕らにとってはとても大事なことで、論議や討議の下手な僕らの現状を振り返りながら、大いにやればいいと思う。ある歴史的な政治家も論争こそが運動に生命力を与えると言っている。これは間違えば、運動を分裂と不毛な対立に導きかねないが、運動に生命力を与える契機を内包していて、恐れずにやればいいのだ。論議や討議(論争を含め)は文化の様式であって、運動には文化が含まれてもいるのだからである。
僕は今回の選挙に当たって「『火事と喧嘩は江戸の華』という喩もあるじゃないか」、「細川でいいじゃないか」などをテント日誌として書いた。これには賛意や批判など多くの反応を頂いた。これは大変にありがたいことで、テント日誌の編集担当者としては強い励ましになった。その意味では幾分か、こころは重いが、僕なりの選挙についての感想を書いて置きたい。
選挙についてはいろいろのとらえ方があるだろうが、僕は何よりも今回の選挙を「原発問題を最大の争点」にすべきだ考えたし、この政治的判断は今もって変更する必要はないと思っている。この意味では最初の土俵づくりが大事だと思ったが、政府ヤメディアの戦略に最初の段階で崩されたのは痛かったと思う。地下鉄の掲示板に「東京には ひとつになれる 場所があります」というコピーが張り出されてある。テントに行くエレバターの前にあって、これを見る度に何か皮肉を言われているように思う。脱原発の候補がひとつなれる選挙でありますとも読めるからだある。このコピー通りにならず、細川と宇都宮の候補が立って負けた。これは予測できたことだし、選挙結果についてはとやかく言っても仕方がないと思う。
僕は今回の選挙で細川を支持した、その最大の理由は小泉も含めて細川の脱原発の動きを評価し、その背後の動きも含めて今後の運動で連携をめざすべきであると考えたことにある。今回の都知事選が突然であったように、細川の都知事選出馬も突然であったが、細川に協力をしたいというのは僕には自然だった。どういう形になるか,分からないが小泉たちの脱原発の動きにどう連携していけるか、小泉の発言を聞いた時から考えていたことで、今回の細川支持だけでなく、今後の脱原発の運動にも関わることなので、この点を何よりも明瞭にしたい、と思う。
僕はあちらこちらで小泉発言についての論評を書いてきたが、こんなことなら、テント内にも積極的に提起して議論をして置けばよかったかな、という悔い思いというか、反省が残る。細川出馬は突然のことだったが、その前に小泉の動きがあり、今後にまた、彼らの動きがあるのだから、彼らとの関係のことを検討して置けばよかったのだと思う。今からでも遅くないことでもあるが。
それで、この点を考えたいのだが、僕は持久戦と称している日々の闘いの中で自問していることが二つある。自問自答している中で一つは政府の再稼動の足音が聞こえる中で、前回の大飯再稼動時を超えていく闘いをどう展望できるかであり、もう一つは福島での闘いである。この二つはイコールで簡単に結び付けられないで、重層的に深めていかなければならないものだが、僕らにとって展望の明瞭にできないものとしてある。考えつめたからといって、何かが出てくるものでないのは自明だが、堂々巡りのようにいきつくのはこの二つである。今回はこの前者について論じたい。(福島のことは場を変えて論じたい)。
大飯再稼動の反対闘争を超えて行くということについて、展望は描けない中で、国民、とりわけ原発再稼働立地の地域住民の反応に秘かな期待を寄せているというのが僕らの現状である。期待と不安でそこを見守っているというのが僕らの状況であると思う。再稼動時の国民の反応や動きは予測できないことだし、現実に直面して見なければ分からないことだが、こうした中で小泉等の動きがどう出てくるかを僕は期待も含めて注目している。これはこれまでの脱原発運動になかった契機であり、形の姿も分からないが注目していいことではないのか。やはり、僕らは彼らの動きと提携して行く心構えというか、心的準備をして行く必要があるのだと思う。
僕にとっては脱原発運動において小泉たちの動きを評価し、彼らとの提携を模索することは自然なことだった。小泉の過去の政治的言動がいろいろ出てくることは予測できないことではなかったが、彼らへの否定的な反応については正直驚きだった。(選挙戦が対立候補の攻撃になる契機を差し引いても)。だから、この点については述べておきたい。僕は脱原発が左右、保守・革新などの政治的枠組みを超えた課題としてあること、そこに従来の政治性(党派性)持ち込めば運動は発展しない、と述べてきた。これは決定的なことで僕は繰り返し、繰り返し考えてきたが、この点の問題を今回の選挙ははからずも露呈させたのだと思う。
この点については改めて説明はしないが、この考えを政党や政党の組織する運動の周辺にある人は理解がしにくいのかもしれないが、どうもここのところの徹底した理解がないと、政治意識という名の同族意識や党派意識に囚われてしまうのかもしれない。親鸞が宗教意識から自由になるために苦労したことをふと思う。これらの意識は無意識としてあり、単純に国民的にとか、幅広くとか言うだけでは超えられものである。脱原発運動を従来の政治的枠組みを超えて闘うことは最も単純だけど、もっとも難しいことであり、そこが今回の選挙でも鍵だったのだと思える。僕が小泉たちと連携していく心構えとか、心的準備とか言ったのは、原発問題の基本としてある考えを自問しながら、深めていくということである。少なくともその一つはこれなのである。
選挙の感想はいろいろあるのだが、長くなるのでこの辺で今回は終る。テントの内でも外でも今回の選挙のことを脱原発の運動のありかたを考える契機というか糧にしてもらいたい。本来、議論や論争は愉しいもので、楽しみながらやって欲しいと思う。(三上治)
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