首相のむなしい憲法論議
- 2014年 3月 2日
- 時代をみる
- 藤田博司
旅先で偶然耳にしたラジオの国会中継。2月10日、衆院予算委での安倍首相と長妻民主党議員とのやりとり。現行憲法でいう「公共の福祉」と自民党改正草案でそれに置き換えて使われている「公益および公の秩序」の違いは何か、という長妻議員の質問に、首相は「わかりやすく言い換えたもの、中身は変わらない」と答えた。
変わらないのなら憲法をわざわざ改正する必要がないではないか、と畳み掛ける長妻議員の問いかけには答えず、あとは「(自分は草案づくりの)議論の場にいたわけではない」「私は変えた当事者ではない」などと逃げの一手。また憲法21条が「一切の表現の自由はこれを保障する」としているのに対し、改正草案が「公益および公の秩序」を害する活動や結社は認めない、と留保条件を付けていることについては「まったく問題ない」と答えるだけ。(表現の自由に制約が加わるのではないかと懸念するのは)「なんとかの勘ぐりという」と開き直った。
そのあとに続いた憲法97条をめぐる議論も含め、首相の答弁は質問をはぐらかすばかり、逃げに終始した感じだった。
憲法改正をめぐって首相の憲法観をただすいい機会だと思われたが、まったくかみ合わない議論にむなしさばかりが残った。そのせいかどうか、翌日の新聞にはこの質疑応答はまったく伝えられなかった。
最高責任者は私
休日をはさんだ12日の同じ予算委では、集団的自衛権行使に関する質疑が行われた。このなかで安倍首相は、時の政権の一方的な憲法解釈の変更で集団的自衛権行使を容認できるのかという問題で、「政府の最高責任者は私だ。選挙で国民から審判を受けるのは内閣法制局長官ではなく私だ」と発言、首相の一存で憲法解釈の変更も可能との主張とも受け取れる考え方を披歴した。
翌13日の東京新聞朝刊は1面トップで「首相、立憲主義を否定」と大見出しで伝えた。憲法は権力の暴走や逸脱を防ぐためのもので、その解釈を首相の判断で変えられるというのは「立憲主義」の考え方を否定するもの、との指摘だ。しかし、国の大本に関わるこの問題をニュースとして取り上げたメディアはほかになかった。
朝日新聞は1日遅れ、14日の朝刊総合面で、首相の答弁に「自民党総務会で異論が相次いだ」という形で取り上げた。毎日新聞はさらに1日後の15日朝刊で、首相の答弁をめぐり自民党執行部が「党内批判の鎮静化に追われた」と、12日の予算委での議論の詳細より、与党内の波紋を重視するかのような扱いでこの問題を伝えた。ほかの有力紙はこの段階でも安倍首相の発言の問題を取り上げていない。産経は「首相答弁は、当たり前の話」と書いて、東京の13日の報道を「子供だまし」と揶揄している(15日、編集日誌)。
しかし東京新聞の問題提起が「子供だまし」などでないことは、自民党の長老政治家、野中広務・元官房長官と古賀誠・元自民党幹事長の発言を聞いてもわかる。二人は16日のTBS時事放談で、「最高責任者は私」発言を問題視し、「立憲国家として考えられないこと」「あんな発言をしたら、以前の国会ならすぐに審議がストップしていたはず」(古賀)と首相を厳しく批判していた。安倍答弁を「当たり前の話」として何の異議申し立てもしようとしない方がよほど異様に思われる。
メディアの反応の鈍さ
一連の動きとメディアの対応を見ていて気になるのは、メディア側の反応の鈍さとメディア間の足並みの乱れである。鈍さと乱れは昨年の特定秘密保護法案をめぐる報道でも際立った。それがまたぞろ、憲法改正問題の報道でも繰り返されようとしている。自民党の憲法改正草案は一昨年の4月に公表されてまもなく2年が経とうとしている。しかしこの間、2度の国政選挙でも争点として議論されたことはなく、国会でも本格的な審議はなされていない。
集団的自衛権行使容認を憲法解釈で実現しようという安倍政権の目論見が現実のものとなってようやく国会で憲法論議が行われることになったのに、予算委での首相答弁は論点をはぐらかし、正面からの議論を避けている。かと思えば、民主国家の憲法の基盤である「立憲主義」をはなから無視するような発言が首相の口から飛び出す。それを大問題として指摘する新聞と、それを「子供だまし」と揶揄する新聞がある。そしてその中間に、遅まきながらことの重大さに気づいた新聞と、気づかない新聞がある。
報道すべきニュースに敏感に反応する現場記者の感度は報道機関の命である。その感度の劣化が今回、あらためて確かめられたと言っていい。実を言えば、「立憲主義」を覆すような安倍首相の発言は今度が初めてではないらしい。ビデオニュース・ドット・コムによると、昨年7月3日、日本記者クラブで行われた9党党首討論会で、福島・社民党党首(当時)の質問に答えた安倍首相は、立憲主義を「王権政治の時代、専制主義的な政府に対する」ものという考え方だとし、民主主義国家の憲法は「権力を縛るものであると同時に、国の姿についてそれを書き込んでいくもの」と考えている、と答えている。
これは安倍首相が立憲主義を過去の「王権政治」時代のものと見なし、新しい憲法には自民党改正草案に盛り込まれた「国民の義務」など、「国の姿」を書き込むべきものと考えていることを示している。しかしこの討論の模様を伝えたメディアの報道に、「立憲主義」の核心に触れて発言を問題視したものはなかったという。
冒頭の「公共の福祉」と「公益および公の秩序」の違いや憲法21条、97条をめぐる国会質疑がまったくメディアの報道に取り上げられなかったのも、同じ感度の劣化によるものではないか、とも思われてくる。
勢いづく右傾化に危うさ
メディアの足並みの乱れも、普通の政治問題をめぐることなら不思議はない。しかし国の根幹に関わる憲法の大原則が守られるかどうか,の問題となれば、メディアは一致して原則を守るものと期待したくなる。が、現実はそれがかなわぬ時代になっていることを、あらためて思い知らされる。
メディアを取り巻く環境が急速に変わり、メディア自身も変わりつつある。変化を速めたのは、第2次安倍政権を誕生させた一昨年暮れの衆院選挙と、国会のねじれ状態を解消した昨年夏の参院選挙だった。二つの選挙で大勝した安倍自民党は、国家安全保障会議や特定秘密保護法など保守派の懸案を次々に実現し、いよいよ集団的自衛権行使容認や原発再稼動、憲法改正へと着々、布石を打ちつつある。
そうした政治の急激な流れに押されて、メディアは本来、市民に伝えなければならないニュースを十分に伝えているようには思えない。メディアのニュース感覚が鈍り、オリンピックやアベノミクスの話題に浮かれ騒いでいるうちに、日本や日本を取り巻く国際社会の地殻変動が進む気配が濃くなりつつある。
東京都知事選では、極右的立場を代表する候補者が61万票もの支持を集めてメディアを驚かせた。若年層や中年層に広がる閉塞感に後押しされて、有権者の右傾化がメディアの想定以上に進んでいることが明らかになった。安倍首相が側近の反対を押し切って靖国に参拝し、憲法解釈の変更を通して集団的自衛権の行使容認を強引に進めようとするのも、そうした社会の右傾化に支えられた自信のなせる業かもしれない。
首相が国会での憲法論議をいい加減にあしらう。それをメディアがしっかり批判することもできない。それでは、日本の民主主義は危機的な状況に瀕していると見ざるをえない。憲法改正への懸念を「勘ぐり」だと言う首相と、「立憲主義」に対する首相の無理解への批判を「子供だまし」と揶揄する新聞の存在。両者が勢いづく空気に危うさが募る。
(「メディア談話室」2014年3月号 許可を得て掲載)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔eye2562:140302〕
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。