私たちは自身が鼓舞される言葉をもっているだろうか -あるリサイタルの会場で考えたこと-
- 2010年 11月 4日
- 評論・紹介・意見
- 坂本朱岩垂 弘
一夕のリサイタルが、私を50数年前に引き戻した。そして、そこで朗読された一編の詩が、私に「言葉」についての考察を促した。
そのリサイタルは10月14日夜、東京・上野の東京文化会館小ホールで開かれた「坂本朱リサイタル」。「武満徹生誕80年メモリアルコンサート Liberté リベルテ~自由」と題されていた。メゾソプラノの坂本はギター、ピアノの伴奏で武満徹作曲の「翼」「小さな部屋で」「死んだ男の残したものは」など21曲を歌った。
坂本が自らのリサイタルに「Liberté リベルテ~自由」と冠したのは、この夜歌った武満徹作曲の「翼」に因んだものだったようだ。
会場入り口で渡されたプログラムには「Liberté(リベルテ)とは、フランス語で自由を意味する。武満徹の『ソング』のなかでは〈翼〉にその語が用いられている――『風よ 雲よ 陽光(ひかり)よ/夢をはこぶ翼/遙かなる空に描く/<自由>という字を』。作詞も作曲者自身によるもので、『自由』は最後にあらわれる」(小沼純一)とあった。そして、小沼純一は「作詞/作曲者のなかには、エリュアールの高名な『自由』があったにちがいない」と続けていた。
つまり、「翼」を作詞・作曲した武満徹の頭の中にはポール・エリュアールの詩「自由」があったのだろう――というわけである。
坂本も、リサイタルを開くにあたって武満徹の詞とポール・エリュアールの詩を交差させていたものと思われる。それを裏付けるように、リサイタルの冒頭、坂本の歌が始まる前に舞台に男性が現れ、フランス語で長文の詩を朗読した。ポール・エリュアールの「自由」の全文だった。末尾の一節はこうだった。
一つの言葉の力によって
僕の人生は再び始まる
僕の生まれたのは 君と知り合うため
君を名ざすためだった
自由 と。
(安東次男訳)
それを聴いて、私に50数年前の学生生活が甦ってきた。私は1950年代後半に早稲田大学の政経学部で学んだが、そのころ、私の周りの学生たちの間では、フランスの詩人や小説家の作品が関心を集めていた。詩人のポール・エリュアール、ルイ・アラゴン、小説家のクロード・モルガン。いずれも、第2次世界大戦中にナチス・ドイツに対するレジスタンスに加わった文学者だった。
私の周りの学生たちの間では、とくにアラゴンとモルガンの人気が高く、その作品が熱狂的に読まれていたように記憶する。私も、アラゴンの詩をいまでも暗誦できる。
「教えるとは 希望を語ること 学ぶとは 誠実を胸に刻むこと」(ストラスブール大学の歌)
モルガンの作品では「人間のしるし」が読まれていた。己を犠牲にして対ナチス・ドイツのレジスタンスに献身する人間の物語だった。それは、学生たちの胸を熱くしたものだ。
エリュアールの「自由」は第2次世界大戦下の1941年の作とされる。そのころ、フランスはナチス・ドイツの占領下にあり、フランス国民は占領軍による圧制によって自由を奪われ、絶望のどん底にあった。エリュアールのこの作品は、そうした状況の中で「自由」への渇望をうたったものであり、それゆえに彼の訴えはフランス国民の心を深くとらえたのだった。
1950年代の日本は、戦前や太平洋戦争中への記憶がまだ色濃く社会に残っていた。そのためか、戦争や戦争中の庶民生活を描いた映画が盛んに作られた。それらは、戦時中の、平和と自由のない苦難の生活をあますところなく伝えていた。裏返せば、それは敗戦によってようやくもたらされた「平和」と「自由」への謳歌であり、賛歌であった。
そのことに象徴されるように、そのころ、日本国民の間では「平和」と「自由」を求める気運が強かった。朝鮮戦争の直後ということもあった。だから、学生の間でも「平和」と「自由」を求める意識が強く、一部学生の間に「平和」と「自由」と「民族独立」を掲げて果敢に戦ったフランスのレジスタンス運動へのあこがれ、共感、崇拝を生み出していったものと思われる。
ともあれ、あの時代、「自由」という言葉は光り輝いていた。それは、肯定的な内容を含んだ言葉だったからだ。それだけに、人々はこの言葉に新鮮なものを感じ、胸をわくわくさせたのだ。が、今はどうだろう。輝きを失ってしまっているのではないか。人々が完全な「自由」を獲得したからだろうか。いや、とてもそうとは思えない。人々は、なお自由でないからだ。
私自身のことを言えば、1980年代以降、この「自由」という言葉にそれほど魅力を感じなくなった。なぜなら、この80年代以降、「新自由主義」という言葉が世界を席巻するに至ったからだ。これは市場原理主義に基づく経済思想・政策とされ、具体的には、小さな政府、均衡財政、福祉や公共サービスの民営化、あらゆる面での規制緩和、労働者保護の撤廃などを推進することをよしとする経済思想・政策とされる。
日本でも、小泉内閣によって強力に推進された。その結果、国民間の経済格差が拡大したほか、さまざまな国民生活の分野に弊害をもたらした。今や、その修復が緊急の課題となっている。
いうなれば、「新自由」の名でこうした社会的な危機がもたらされたのだった。「自由」という言葉がかつてもっていた輝きは失われ、著しく色あせてしまった。私にはそう思えてならない。
思えば、「革新」という言葉が光り輝いた時代もあった。一言でいえば、社会党、共産党、日本労働組合総評議会(総評)など、社会主義を目指す勢力の総称だった。1960年代後半から70年代にかけては、3大都市圏の自治体の首長の多くが、これら勢力が推す人物によって占められ、「革新自治体」という言葉も生まれた。しかし、1989年の「ベルリンの壁崩壊」をきっかけとする、ソ連をはじめとする社会主義陣営の崩壊、社会党の解体、共産党の後退、総評の解散といった一連の流れによって「革新」はほとんと死語になった。
また、「連帯」という言葉がもてはやされた時代もあった。1980年にソ連の影響下にあったポーランドのグダニスクで造船労働者らが自主管理労組「連帯」を結成したのがきっかけだった。翌年には「連帯」議長のワレサ議長が来日し、熱狂的な歓迎を受けた。その後、ワレサ議長はノーベル平和賞を受賞し、大統領にまで登りつめるが、いつしか「連帯」が日本国民の口の端にあまりのぼらなくなった。この時期、人々は「連帯」という言葉に何を見いだしていたのだろうか。
民主党政権が誕生し、鳩山首相が熱っぽく「友愛」を語り始めたとき、人々はその言葉に長年にわたる自民党政権に代わる政治の始まりを感じ、大きな期待をかけた。が、鳩山政権は8カ月であえなく自壊、後継の菅政権が次々と繰り出す言葉に「友愛」はない。
今、私たちは、心を揺さぶられるような言葉、沸々と希望がわいてくるような言葉、自分自身が心底から鼓舞されるような言葉をもっているだろうか。
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