テント日誌4月29日…【テント外伝…8】
- 2014年 4月 30日
- 交流の広場
- 経産省前テントひろば
経産省前テントひろば962日目 商業用原発停止226日
【テント外伝…8】
私たちが現在住んでいる都市部では昔からの伝統的な「生活共同体」は崩壊している。その結果、餓死・孤独死・虐待死などの悲惨な状況が格差社会の拡大に伴い深刻化し、「生き難い」生活がより一層全人民に押し付けられている。「家族」と言う支配者が近代資本主義の発展的基礎に位置付けてきた「擬制的共同体」も崩壊している。自殺者も政府発表だが過去10年間3万人以上となり、さらに「蒸発者」や「行方不明」「不審死」を加えると10~15万人以上と言われる。その原因の一つに都市部では隣に住んでいる人が誰であり、家族構成はどうなっているのか、生活はどうしているのかなどが敢えて無関心な構造が蔓延化しており、行政の介入も拒むということがプライバシーの尊重の名のもとに形成されている。さらに、行政自体が税金収入の管理徹底化と、それと相反するように低所得者保護義務排除の論理が機能し、70年段初頭に流行った歌謡曲の歌詞である「東京砂漠化」が40数年間をかけて全国化したのだ。なお、今や行政管理は都会の街角に監視カメラが付き(思えば山谷や釜ヶ崎に71年に監視カメラが設置されたのだ)、道路上にゴミは無いかとおじさんたちがアルバイトで動き回る。ナチス・ドイツやピョンヤン顔負けの「きれいな街」が作為的に作られている。そして、破綻した「擬制的共同体である家族」に介護などを押し付けるのだ。
しかし、考えるまでもなく人は人的な社会的関係性が生活する以上必要であり、都市部の「生活共同体」の崩壊は深刻だ、と言うだけでは済まされない。その一方地方では町や村単位で、あるいは集落単位で「生活共同体」が維持されていた。私が知る限りでも例えば伊豆諸島の新島、式根島、八丈島では1970年代までは「家に鍵を掛けない」ことが普通であり、「もあい(思いやり)」の精神が外部から来た人にも適用されており、生活に困ったら相互扶助の構造が集落全体で機能するということがあった。あるいは、三陸海岸で小さな町でも同様なシステムが見られた。これは、そこに住む人の経済状態が押しなべてほぼ同じであり、極端な金満家もいない反面極端な貧困人もいないという事情もある。なお、渋谷駅にある「モアイ像」は新島原産の抗火石で作られている。「もあいの精神」を新島から都会に伝えるメッセージモニュメントなのだ。なお、一部に「田舎は文化が遅れており、よそ者に対しては排他的だ」、と言うような意見もあるが、その多くはそこにおける人間関系を構築する上での「誤解と間違い」からきている場合が多く、また、「文化」に対する資本主義的優越感(上から目線)に無自覚な場合がある。そしてここには、「文化とは何か」と言う哲学的な問いに対する考察上の大きな陥葬があることを指摘しておきたい。
前書きが長くなったが、ここから本題に入る。共同体の意味とか原理はマルクス→マックス・ウェーバーにおいて原理論として確立された。ここでは、大塚久雄「共同体の基礎理論(岩波現代文庫:2000年)」を参考にする。なお、この本の初版が1955年でありそれ以降大塚批判も含めて様々な「共同体論」が出されている。しかし、大塚共同体論は批判されつつ今なお「段階論→現状分析論」として評価できると私は思う。そこで大塚は「共同体の基礎理論」で、共同体の発展を、「共同」と「私的」という矛盾する二つの要素のせめぎあいを軸に考察している。少し長く、難しくなるが我慢してください。以下引用。
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「富」の包括的な基盤である「土地」を「共同体」が占取し、それによって自己を現実に「共同体」として再生産していくばあい、以上述べたような「土地」の基本的な規定性からして、「共同体」内部にはいやおうなしに「固有の二元性」le dualisme inhérentがはらまれてくることになる。「固有の二元性」とは、いうまでもなく、土地の共同占取と労働要具の私的占取の二元性であり、「共同体」の成員である諸個人のあいだに取り結ばれる生産関係に即していえば、「共同態」という原始的集団性と、そのまっ只中に、それに対抗して新たに形づくられてくる生産諸力の担い手であるところの私的諸個人相互の関係、そうした二元性である。あるいは「共同体」に固有な「内的矛盾」(=生産力と生産関係の矛盾)といいかえても差支えないであろう。引用終わり。
共同占取と私的所有、集団性と個人、といった共同体「固有の二元性」。この二つのせめぎあいが、生産力向上のなかで、マルクスの言葉を借りれば「生産力と生産関係の矛盾」として表れ、生産関係の基礎となる「共同体」そのものの在り方を変えていく。それは、私的所有の拡大と共同体所有の縮小や、共同態規制(集団的、封建的な規範、ルール)の弛緩と私的領域の自立、となり最終的には共同体の崩壊と個人の自立により近代資本主義の時代を迎える、というのが大塚久雄の考え方である。
それが、日本的にはどのようにして適応してきたのか、と言う点においてマルクスの原理論(ここでは「資本主義的生産様式に先行する諸形態」である)を踏まえると、大塚は「ゲルマン的」と言う仮説を立てる。「諸形態」ではマルクスは「ゲルマン的」とは中世西ヨーロッパ、「古典古代的」とは古代ギリシャ・ローマ、「アジア的」とは古代ペルシャ・オリエントを指している。なぜ、大塚は日本が「ゲルマン的」と言うのか、以下大塚の論文から再度引用する。なお、「アジア的」と言うのだから、日本も含まれるなどとゆめゆめ思わないでね。
「アジア的形態」は部族・血族により構成され、血縁制的関係が強く、土地の所有も基本的には部族。私的所有はごく一部に限られます。
古典古代的形態では、古い血縁制的関係が緩み、家族形態も基本的には小家族(単婚家族)に移行しつつあり、共同体は防衛や拡大のための戦闘集団としての性格が強くなる。また土地の所有形態についても、「宅地や庭畑地」の私的所有は強固なものとなり、「公有地」と明確に分けられます。
「ゲルマン的形態」では、古い血縁制的関係の規制力は失われ、土地所有も「宅地や庭畑地」の私有はもちろん、共同耕地についても「フーフェ」という形態のもと一定の大きさの耕区に区分けされた耕地が私的に占取され、山林や放牧地などが共同地となります。また私的所有の進行に伴い、共同体内分業の進行し、共同体内市場の発達がみられます。引用終わり。
ここで、大塚は「ゲルマン的」の場合には「古い血縁制的関係の規制力は失われ、土地所有も「宅地や庭畑地」の私有はもちろん、共同耕地についても「フーフェ」という形態のもと一定の大きさの耕区に区分けされた耕地が私的に占取され、山林や放牧地などが共同地となります。また私的所有の進行に伴い、共同体内分業の進行し、共同体内市場の発達がみられます」と述べている。日本でも「入会地」とか「入浜権」あるいは「共同墓地」とかが、私的所有と切り離されており、墓地は共同体の紐帯としての「儀礼・儀式」の精神的拠り所である。山林や海岸での共同体独自の労働=共同体的発展力=生産力の内的発展となるということだと思う。細かいことはこれ以上避けるが、共同体の規制とその発展が維持された時に、「私的」と「共同的」と言う二律的構造、いわば内部矛盾を弁証法的に理解するならば、それ自体が共同体社会的の発展の運動的基礎であると言える。
これが、福島の原発事故で徹底的に破壊されたのだ。人びとの文化的・歴史的(その意味では過去の人物=死者と共に生きること)共有基盤も破壊されたのだ。共に生き、共に働く、そしてそれを創造的に未来に繋げると言う「場所的基盤」と「生活基盤」が破壊されたのだ。一旦破壊された生活基盤の再建は、その地域=場所でなされてきた文化的・歴史的遺産の継承が場所的に壊失した以上、別の場所に復元はできない。「取り返しが付かかない」こととはこのことである。被災者の方が、取り分け原発事故の被災者の方々が受けたダメージは私たちの想像を絶するものがあるのだ。安倍極右政権が言う白々しい、そして見え透いた「新しい街づくり」とは、画餅である。
私は、この文章の文頭で、現代社会は「共同体は都市部において崩壊している。東京砂漠である」と述べた。だが、村落や地方都市では場所によりこの共同体がかろうじて残っている、ことも述べた。仮に福島原発の周辺の集落が「かろうじて残っている」場所だとしたなら、それが失われたことの責任は大きい。文化的・歴史的遺産の継承も生者は死者に対して責任もある。重ねて言うが「地域や集落」を失うということはそういうことなのだ。
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「川内(せんだい)原発動かすな!東日本決起集会」第1回実行委員会
・日時:2014年5月5日(月、休日) 16時~18時
・場所:たんぽぽ舎「スペースたんぽぽ」(水道橋ダイナミックビル4階)
・実行委の呼びかけ団体(未定、準備会参加団体、あいうえお順):9条改憲阻止の会、経産省前テントひろば、原子力資料情報室、再稼働阻止全国ネットワーク、首都圏反原発連合、たんぽぽ舎、福島を返せ 福島原発事故緊急会議他
(連絡先:090-3919-0604、070-6473-1947)
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