歴史が生み出した複雑な民族構成
- 2014年 5月 15日
- 時代をみる
- ウクライナ伊藤力司
ウクライナをめぐる“新冷戦”を読み解く(その2)
ウクライナ危機の原因の多くは、この国の民族構成が複雑であることだ。東部と南部にはロシア系住民が多く住み、彼らはキリスト教東方正教会に属するロシア正教会の信徒である。中部から西部にかけてはウクライナ人が多数派だが、彼らの宗教は東方正教会に属するウクライナ正教会とギリシャ系カトリックの東方帰一教会、さらにローマ・カトリック教会の3派に分かれている。さらにクリミア半島にはトルコ系のイスラム教徒のタタール人が住んでいる。
このような民族構成になったのは、数奇な歴史によるものだ。有史以前、ウクライナの肥沃な大地にはスキタイ人などの騎馬・遊牧民族が遊弋していたことが知られているが、この国の歴史は882年に東スラブ民族のルーシ人がキエフ大公国を建国したことで始まる。ルーシとはギリシャ語でロシアを意味する。その後に建国されたモスクワ大公国もルーシの国だ。“兄貴分”だったキエフ大公国の後身がウクライナであり、“弟分”のモスクワ大公国の現在がロシアというわけだ。ウクライナとロシアの他にベラルーシもルーシの子孫である。
2014年の今日、ロシア人とウクライナ人はいがみ合っているが、1100年前は兄弟だった。そのころはキリスト教会も東西に分裂しておらず、10世紀末ごろからロシア、東欧に住むスラブ民族の間にキリスト教が布教されていく。スラブ民族を大別すればロシア、ウクライナ、ベラルーシが東スラブ民族、ポーランド、チェコ、スロバキアなどが西スラブ民族、セルビア、クロアチア、ブルガリアなどが南スラブ民族となる。言葉も東・西・南スラブ語と分かれているがルーツは共通で、文法などはかなり似ている。
ところが1054年ころ、キリスト教会がラテン語を使うローマ・カトリック教会と古くからの教会用語であるギリシャ語を使う東方正教会に分裂する。その後スラブ民族の多くは、それまでの流れから東方正教会に属することになるが、ポーランド、チェコ、クロアチアなど西欧の影響を受けてローマ・カトリックが優勢になった国もある。ウクライナの場合は前記のようにキリスト教会が3分割されているからややこしい。
島国の日本からは想像できないが、南の黒海沿岸部を別とすれば東、北、西と陸の国境に囲まれたウクライナは、四方八方から外敵に侵略された歴史を引きずっている。キエフ大公国はまず1240年に東から攻め込んだモンゴル軍に征服され、13世紀から15世紀にかけてチンギス・ハンの子孫が支配するキプチャク・ハン国の版図に組み入れられた。キプチャク・ハン国とは、ユーラシア大陸を蹂躙したモンゴル騎馬軍団が、その大帝国を分割統治した4ハン国のひとつである。中央アジアのキルギス草原からロシア南部のキプチャク草原にまたがる広大な領土を支配し、モスクワ大公国もその一部に組み入れられた。
ウクライナという国名はポーランド語で「辺境」を意味する言葉だそうだ。ウクライナは16世紀半ば、西のポーランド王国とリトアニア大公国の連合軍に攻め込まれ、国土の大半を100年近く占領された。ポーランド・リトアニア連合軍は一時モスクワまで攻め込む勢いだったが、17世紀後半に衰退する。18世紀に入ると、ウクライナは中欧から東欧にかけて勢威をふるっていた、オーストリアに本拠を置くハプスブルク帝国に侵略される。ウクライナ西部のガリツィア地方は17世紀初頭から100年余りにわたってハプスブルク帝国の版図に組み込まれた。
ポーランド王国とハプスブルク帝国はカトリック国であり、その影響下でウクライナ西部はカトリック色が濃い。ガリツィア地方の中心都市リビウを訪れた人の話では、カトリックの教会をはじめハプスブルク様式の伝統的な建築が数多く残り、石畳の狭い路地が迷路のように巡るリビウの旧市街は、ポーランドの古都を思わせるという。リビウはユネスコの世界遺産にも登録されているが、この街を2001年6月に訪問した当時のローマ法王ヨハネ・パウロ2世(ポーランド出身)は、市民からひときわ熱烈な歓迎を受けたことがローマ法王庁に記録されている。
この間ウクライナ東部は1660年代からロシアの支配下に組み入れられた。ロシア帝国ロマノフ王朝の女帝エカテリーナ2世は1783年、ウクライナ全土を直接統治することを宣言。さらに女帝は3次にわたるポーランド分割を実行してリトアニア・ポーランド連合王国を消滅させた。また2次にわたるオスマン・トルコ帝国との露土戦争に勝利、1791年にオスマン帝国の支配下にあったクリミア・ハン国を併合した。
こうしてクリミア半島を含むウクライナ全土は、18世紀末にはロシア皇帝ツァーリの支配下に組み込まれた。この結果ウクライナに住む人々は、ルーシの子孫であるウクライナ人とロシア人、それにトルコ系のクリミア・タタール人、リトアニア・ポーランド系、ハプスブルク・ドイツ系などの少数派が混在する複雑な民族構成ができあがった。その後もウクライナは歴史に翻弄される。
第1次世界大戦中の1917年にロシア革命が起こり、ロシア帝政が崩壊した。そこでウクライナには共産党系の「ウクライナ人民共和国」やドイツ帝国が支えた「ウクライナ共和国」が発足したが、大戦でドイツが敗れてウクライナ共和国は消滅。1920年にソビエト赤軍が白軍との内戦に勝つと、赤軍側の「ウクライナ社会主義ソビエト共和国」が西部を除くウクライナを確保した。その2年後の1922年に、ウクライナは「ソビエト社会主義共和国連邦」つまりソ連に参加して、事実上ロシアの支配下に入った。
1939年9月ポーランド侵攻で第2次世界大戦の口火を切ったヒトラーは1941年6月、開戦直前の1939年8月に「犬猿の仲」のスターリンと結んだ独ソ不可侵条約を一方的に破棄して、ソ連に奇襲攻撃を掛けた。同年8月までにウクライナの大半はナチス・ドイツ軍に占領される。しかし1942年の6月から7カ月間続いたナチス・ドイツ軍と戦ったスターリングラード攻防戦に勝利したソ連軍は、1943年2月から大規模な反攻作戦を展開してウクライナを奪回した。
しかしこのウクライナがナチスに占領されて間に、旧ハプスブルク帝国領だったガリツィア地方では、約30万人のウクライナの青年たちがドイツ側に加担して、ソ連側と戦った。一方ソ連軍に加わってナチス軍と戦ったウクライナ人は200万人に上ったと記録されている。
これより先スターリンは、クリミアのタタール人がドイツに内通する恐れがあるとしてタタール人の中央アジアへの強制送還を行った。住民不在となったクリミア半島には多数のロシア人が入植、またソ連海軍黒海艦隊の基地がセバストーポリに置かれるなど、クリミアは黒海を臨むソ連軍の戦略用地となった。第2次大戦後タタール人の多くは中央アジアからクリミアに帰還したが、この間にタタール人の所有していた土地の大半はロシア人に奪われていた。この結果、現在のクリミアの人口構成はロシア人58%、ウクライナ人24%、タタール人12%となっている。
スターリンが1953年に死亡した後、ソ連内部の権力闘争に勝ち抜いたフルシチョフ共産党第1書記兼首相は1957年、それまでロシア共和国領だったクリミアをウクライナ共和国領に編入させた。フルシチョフは元々ロシア人だが、子供も時に父親がウクライナに移住したためウクライナで成人、ウクライナで共産党指導者として頭角を現してスターリンに認められた。ソ連トップの座に上り詰めたフルシチョフが“故郷”に錦を飾るつもりで、クリミアをウクライナにプレゼントしたのだろう。
以上が、このように複雑な民族構成を織りなしてきたウクライナ史の素描である。ソ連崩壊後のこの国の事情については次回に触れたい。
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