《教育委員会制度》解体は何をめざすか(下) ― 徹底批判、安倍「教育再生」と「中教審答申」―
- 2014年 5月 17日
- 時代をみる
- 青木茂雄
1.《教育委員会制度》解体をめざす安倍「教育再生」
2.安倍「教育再生」の中の「教育委員会制度改革」
3.中教審のスピード審議と2つの報告
4.首長権限を強化する『中教審答申』の問題点 (以上、3月号)
5.最悪の改定案が準備されている
2014年3月現在、教育委員会制度について定めた「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」(地教行法)の改定(=改悪)の作業が与党協議の中で進められている。首長権限の強化を巡って、強化の方向を強く進めている自民党、首相・文科相側と、それに慎重な公明党及び(おそらく」)文部官僚側の間の調整の結果、法案の大筋が固まり、4月にも提出の見通しであると報道されている(注1)。
調整の結果、中教審答申に盛られたA案(首長権限を強化し、教育委員会を首長の諮問機関とする)、B案(教委の権限は縮小するも現行の枠組みを維持)の外に、新たにC案が登場した。それによると、首長による教育長の任免を内容とするA案を基にながらも、執行機関としての教育委員会の権限を大幅に縮小した上で、新たに首長と教育委員・有識者で構成される「総合教育会議」を設置し、教育行政の大綱を協議する、となっている。首長一人ではなく、複数名で構成する「会議」の結論で、教育委員会の協議・決定に対して大きな枠をはめようというものである。2012年に大阪「府市統合本部会議」で、橋下市長・松井知事のもとで、旧教育基本条例案に関しての審議が行われ、教育委員会が首長の事実上の下部機関となったことは記憶に新しいが、今度の法改正はそれを全国規模で合法的に行わせようとするものである(注2)。問題となっている「学力テスト」結果の公表や教科書の採択その他でこの「総合教育会議」はその威力を遺憾なく発揮するものと予想される(注3)。C案は教委に執行権限を残したのでA案よりは現行制度に近いと評価する意見もあるが(注4)、最近の政治情勢から運用の実態を少しでもリアルに予測してみれば、中教審答申を越える最悪の改定案であり、教育委員会の事実上の解体になることは必至である。
現在のところ教職員組合をはじめとする関係諸団体の動きは極めて鈍い(注5)。わずかにいくつかの市民団体が危機感から運動を始めているが、圧倒的に少数である。そういう中で、教科書ネットに結集したメンバーを中心につくられている「安倍教育政策NO・平和と人権の教育を!ネットワーク」は3月21日に都内で集会を開き、教職員や市民など多数が参加した。大阪でも3月22日に同様の集会が開かれている(注6)。また、全国の教職員・元教職員の有志で新たに「許すな!『日の丸・君が代』強制 止めよう!安倍教育破壊 全国ネットワーク」の結成を準備中であり、4月20日の午後に日比谷図書文化館で高橋哲哉氏を講師に招いて全国集会を予定している。新たな動きもまた確実に生じつつある。
特定秘密保護法に次いで、集団的自衛権・教育関連法案等々、安倍政権による諸種の反動政策が目白押しである。
特定秘密保護法案反対で盛り上がった国会周辺がまた、騒がしくなろうとしているし、そうならなければならない。
(注1)東京新聞3月5日朝刊「首長介入教委骨抜き、政治主導の改革案」、朝日新聞3月13日朝刊「教委見直し案自公合意、政治主導教育成立の公算大」
(注2)本誌2012年7月号所収、拙稿「大阪府三条例の危険な内容」を参照されたい。(注3)「総合教育会議」に参加する「有識者」の人数と選出方法は現時点では不明。文科省の担当者(初等中等教育企画課)は3月14日の市民団体との意見交換の場で「総合教育会議は年に1回開催されるのみであり、あくまでも協議の場である」と強調していたが、制度がどのように機能するかまでは保障していない。
(注4)朝日新聞3月27日朝刊「教委制度踏みとどまったが」
(注5)日本教職員組合(日教組)は中教審の審議に対しては「意見書」を提出したようだが、組織的運動に取り組む動きは全く見せておらず、現在までのところ反対声明すら出していない。もっとも、日教組が国会議員を組織的に送り込んでいる当の民主党はかつては(現在も?)教育委員会制度の廃止を唱えていた。また、3月15日に開かれた教育関連学会連絡協議会のシンポジウムでは与党案が一部の研究者によっても評価されている。注4の新聞記事を参照。
(注6)筆者の所属する「都教委包囲首都圏ネットワーク」(ブログあり)では4月から国会前での路上リレートークを断続的に行っている。連絡先は090-5415-9194。
6.《教育委員会制度》とは何か
「戦後教育はマインドコントロール」とまで言い切った首相安倍晋三と文相下村博文のもとで進められている戦後の教育システムの根幹をなす《教育委員会制度》の解体―教育の自主性・自立性の解体と教育の国家支配の貫徹―は、彼らの行おうとしている「教育再生」の根幹をなしている。そのことの意味を歴史的経過を踏まえて考えてゆきたい。
《教育委員会制度》は、終戦直後に行われた米国教育使節団報告の中で最初に提起され、「天皇のために」進んで命をささげる「少国民」の「錬成」に収斂していった戦前教育に対する深刻な反省として、戦後の一連の教育改革の中でつくられたものである。1948年制定の教育委員会法は47年制定の教育基本法・学校教育法と並んで戦後の教育制度の根幹を形作る法規となるはずであった。
旧教育委員会法1条は制定の目的を「教育が不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきであるという自覚のもとに公正な民意により、地方の実情に即した教育行政を行うために教育委員会を設け、教育本来の目的を達成することを目的とする。」と述べている。また、教育委員は選挙により選ばれ、任期は4年とし、教育委員会は独自の予算編成と執行の権限を持っていた。事務局には「教育長」と「専門職員」・「指導主事」が置かれた。教育長は教員免許状を持つものの中から教育委員会が任命し、専門職員は現場の教員をもって充てることとされ教科書の検定や採択及び教科内容の取り扱いなどの任に当たった。指導主事は「教員に指導と助言」を与えることができるが、「命令及び監督」をしてはならなかった。
独立委員会としての《教育委員会制度》により、国家権力をはじめとする行政権力から教育の自主性の保持と教育本来の目的の達成が担保されるとしたのである。
旧教育委員会を公選制で特徴づけることは一般的に行われているが、単に教育委員の公選制にのみ限ってはこの制度の矮小化である。学校現場が教育行政に加わることによって言わば《教育の自治》をめざしたものであったと言うべきである(注7)。
公選制の教育委員会制度は必ずしも理想通りに進行したわけではなかったが(注8)、定着せんとした矢先に国家権力側からの揺り戻しが始まった。1956年3月に、政府・文部省は「教科書法案」と並んで、教育委員会法の廃止に代えて新たに「地方教育行政の組織及び運営に関する法律案」を国会に上程した。日教組や野党・革新勢力は「教育の国家統制の強化」として強力な反対闘争を展開し、教科書法案は廃案としたが、教育委員会法は廃止され、かわりにこの地教行法が成立した。これが現行の教育委員会制度の根拠法となっている。
地教行法は、①教育委員をこれまでの公選制から議会の同意を経た首長による任命制に変え、罷免・解職規定を新たに入れた。②教育委員会が教育長を選任する点は変わらないが、教育長の教員免許取得要件を外し常勤の公務員でも兼務可能とし、文部省の承認を要件とする一方(注9)、教育長に事務局の統括と職員の監督権限を付与した。③学校教員をもって充てることとされていた専門職員を廃止し、指導主事の職務権限を明確化した。④独自の予算作成と執行権を剥奪した。
このように、地教行法に基づく教育委員会制度は、教育行政事務の統括者としての教育長の権限を大幅に強化し、文部省がその任免権を握ることによって国による教育への介入を可能とすることが企図されていたのである。
しかし、制定当時の社会情勢や政府文部省と日教組・革新勢力との力関係から、制度の大枠として次の2点で踏みとどまった。
ア.意思決定機関としての教育委員会という原則とそこから委任を受けた教育長が統括する事務執行組織という形式(注10)。
イ.教育委員会の職務権限は「教育に関する事務」に止まり、教育内容には及ばないという原則。
アの原則は形式上のものにとどまり、実態としては教育長とその配下の事務局が“事実上の教育委員会”として学校現場に君臨していた。しかし合議体としての教育委員会が独立委員会として学校や教職員を統括する形式は維持されていた。そのことが教育行政の一般行政からの相対的独立性を保障していたのも事実である。
イの原則に関しては、教科書・学テ裁判などを経て、国は学習指導要領という大きな縛りの中で「大綱的」に教育内容に関与するが、地方教育行政は教育事務の執行に止まるという解釈が教育関係者の間では通説になっていた。しかし、2003年の東京都の「10・23通達」による「日の丸・君が代」の強制とほぼ時を同じくして、地教行法23条に記載されている「職務権限」をたてに、“地教委は教育の内容・方法について、監督し命令を発する権限を持つ”という解釈が都教委を筆頭として公然と行われるようになり、司法もいつくかの下級審でその解釈を追認した(注11)。言わば地教行法の“解釈改憲”である。
これが2007年の第一次安倍政権終焉時までの状況であった。教育委員会制度の改編まではまだ視野に入っていなかったのである。
(注7)教育委員の公選制に基づく教育委員会制度が1956年に廃止され、実態としては「教育長」が権力者として学校現場に対してふるまい、「指導主事」があたかも戦前の「視学」のようにふるまっていた、ところが多く見られた。そういう所から、「教育委員会」という呼称はとくに教職員組合側からは権力機構としての教育行政の“代名詞”のようなものであった。私もそのような意味で「都教委」という用語を日常的に使用していたし、現在も使用している。「都教委」、すなわち名目上の「意思決定執行機関」としての(狭義の)東京都教育委員会から「事務」を「委任」された「教育長」の下部組織のことである。その権力機構的色彩は抜きん出ており、学校現場を巻き込んで現在さらに加速増殖中であり、修正不能のもはやカルト集団と言ってよいであろう。
(注8)「公選制教育委員会」の実態については、宗像誠也編『教育行政論』(1957年東大出版会)所収の持田栄一論文「戦後日本の教育体制」、及び古典的名著である鈴木英一著『教育行政』(1970年東大出版会)がある。最近の研究では柿沼・永野編『迷走する教育委員会』(2000年批評社)がある。
(注9)1999年の「地方分権推進整備法」の制定とともに「教育長任命承認制度」は廃止された。
(注10)地教行法26条には「教育委員会は、教育委員会規則で定めるところにより、その権限に属する事務の一部を教育長に委任し、又は教育長をして臨時に代理させることができる。」とある。
(注11)2006年9月の予防訴訟東京地裁難波判決の後、同年12月都教委側が提出した「控訴理由書」には「都教委は、都立学校を所管する教育行政機関として、旭川学テ最高裁大法廷判決が判示するとおり、(地教行法23条5号を根拠とする―引用者)その管理権に基づき、学校の教育課程の編成等ついて基準を設定し、一般的な指示を与え、指導、助言を行うとともに、必要な場合には具体的な命令を発することもできるのである。」とある。2011年1月の同訴訟2審の東京高裁判決ではこの論理を全面的に採用している。他の「君が代」裁判の下級審でも同様である。ただし、最高裁ではこの判断については言及していない。予防訴訟については拙著『「日の丸・君が代」強制の次に来るもの』(2006年批評社)を参照されたい。
7.《教育委員会制度》解体は何をめざすか
a「学校長ハ地方長官ノ命ヲ承ケ校務ヲ掌理シ所属職員ヲ監督ス」(国民学校令16条)
「訓導ハ学校長ノ命ヲ承ケ児童ノ教育ヲ掌ル」 (同 17条)
b「校長は、校務をつかさどり、所属職員を監督する。」 (学校教育法37条4項)
「教諭は、児童の教育をつかさどる」 (同 11項)
aとbの違いの中に戦前教育と戦後教育の大きな違い、戦後の教育改革の意味が凝縮して表されている。このことの意味は強調しても強調しすぎることはない。
戦前の教育制度のもとにおいては、学校は上命下服の体系の中に厳しく位置付けられていた。「地方長官」(道府県知事)すなわち政府から任命された中央官僚の命令下に学校現場は置かれていたのである。教育内容は文部省令の「教則」として法制化されており、その上で、教材も国定教科書(小学校の修身・国語から順次国定化され最終的に中学校・師範学校にまで及んだ)で、個々の教員の研究・工夫の余地はいっさいなかった。
戦後の教育改革のキーワードになったのは「教育の自主性の尊重」である。「自主性の尊重」とは、当事者である学校現場、教師・生徒・保護者の意思の尊重である。そのことの法的表現が1947年教育基本法10条の「不当な支配」排除条項である。そのことと対応して、「命ヲ承ケ」の文言を廃した学校教育法の規定は、教育の専門性と独立性のまさしく法的表現であった。
学校はカリキュラム(教育課程)編成主体である。全国的な教育課程の「基準」としての学習指導要領は、戦前の「教則」とは性格をまったく異にして、「手引き」書として出発した。1958年に「文部省告示」とした後にも、教育課程は「学校が編成する」との制度上の趣旨は、少なくとも文言上は現在でもなお存続している(注12)。
このように、戦後の教育改革の中で作られた法制度は、教育の自主性尊重という前提から出発し、カリキュラムの編成主体としての学校は法制度上、行政の長(戦後は公選された首長)を頂点とする上命下服の体系とは相対的に独立した位置を占めていた。そのことを法的にも内容的にも保障しているのが《教育委員会制度》、となるはずだったのである。旧教育委員会法1条にあるように、教育委員会は「教育が不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われる」ことを目的として設置されたのである(注13)。
しかしながら、その出発点の前提が、1956年の教育委員会法の廃止と地教行法の制定を機に崩れ始めた。その後、学校現場の様々な取り組みが、教育裁判の進行と教職員組合運動の中で「自主編成運動」として存続していったが、日教組の分裂を機に、全国的に弱体化していった。しかし、地教行法下の教育委員会制度はその当初の趣旨が形骸化されているとはいえ、力関係の中で学校現場の独立性と教育行政の一般行政からの独立性を飽くまでも相対的にではあるが、しばらくの間は保持し得ていた。
決定的な変化は2003年の東京都における「10・23通達」による「日の丸・君が代」の強制からである。紙幅も尽きたので結論だけ述べるが、卒業式・入学式における「国旗国歌」の強制は、これまでの「学習指導要領」を通じた「大綱的」かつ間接的な介入を越えた、行政権力による教育内容への直接的な介入・支配の本格的開始の表徴である。
2006年の教育基本法の改悪を経て、2014年にはついに教育委員会の解体に至っているのである。権力意思が直接的に教育内容に介入する戦前の教育制度に限りなく回帰しつつあるである。
いや、戦前と違う。「民意」によって選ばれた首長が教育に介入するのであるならば、それは「民意」による教育のコントロールではないか、教育における民主主義の実現ではないか、と主張する向きもあろう。私は、《ことがら》の本質に基づかない、「風」に漂うただの「量」としての「民意」に決定をすべてゆだねてしまうとしたならば、それはとうてい真の意味での《民主主義》であるとは言えず、もしそれをもって「デモクラシー」と言うならば、それは独裁政治と紙一重の、「衆愚」の「政治」そのものであろう。
時代は今、そのようなところまで来ているのである。
(注12)学習指導要領(小・中・高とも)総則には「各学校においては(略)適切な教育課程を編成するものとし」とある。
(注13)注10で引用した「控訴理由書」では、10・23通達及び職務命令が教育基本法(旧)に規定する「教育に対する不当な支配」にあたらないということを教育委員会法の1条のこの文言を根拠に、「教育委員会は不当な支配を排除するために作られた組織なので教育委員会が不当な支配を行うことはありなない」という奇妙な理屈を開陳しているが、東京高裁も追随したこの法規範というものを弁えない暴論は、教育委員会制度が解体したらどのように弁明するのであろうか。
初出; 「科学的社会主義」2014年5月号に掲載
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〔eye2627:140517〕
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