池子米軍住宅追加建設は基地の強化と池子の森の破壊に他ならない!
- 2010年 11月 11日
- 評論・紹介・意見
- 中森圭子池子の森米軍基地
池子の森が米軍住宅に!
在日米軍基地「池子住宅地区および海軍補助施設」は、逗子市と横浜市にまたがる自然豊かな池子の森を占有している。この池子の森へ米軍家族住宅の建設計画が始まったのは1982年、逗子市民を始め全国にまで広がる反対運動が展開された。がしかし、1987年、国は強権をもって建設工事に着手した。1982年から実に12年にもわたって建設反対への取り組みが展開されていったが、建設が強行される状況を目前にして、1994年11月逗子市は33項目の条件を付けて神奈川県と国との三者で「施設・区域内の緑地の現況保全に配慮する−追加建設は行わない」とした「三者合意」を交わし、建設が合意した。あれから10年も立たない2003年、三者合意を無視するかのように住宅の建設計画が出され、池子の森に再び住宅が建設されようとしている。「三者合意」という政治判断の是非について当時、様々な意見があり議論があったという。だが、今ではこの合意が追加建設への歯止めとなっていることも確かで、追加建設計画が出ると市民は県と国に裏切られたことに憤り、再び市民は反対の意志表示を始めた
池子の森は総面積288ha、約252haが逗子市域で、残る約37haが横浜市域となっており、逗子市域に68棟854戸の住宅が建ち、約3,300人が暮らしている。この252haは逗子市の総面積の約14%にあたり、米軍基地として提供されている。現在再び米軍住宅が建設されようとしているのは、横浜市域部分である。
「池子住宅地区および海軍補助施設」は1985年に名称変更されたが、それまでは「池子弾薬庫」と呼ばれていた。戦前は旧日本海軍が地下弾薬庫として使用していたが、そこでは横須賀海軍第2工厰造兵部谷戸田注填場を設置し、毒ガスのイペリットを砲弾に充填していたという。敗戦時の処理が適切におこなわれたかどうかの確約はない。戦後は米軍に接収され、そのまま弾薬庫として使われ、朝鮮・ベトナム戦争時には大量の弾薬が運びだされていった。この静かで小さな町が戦前戦後を通じて前線と隣り合わせだったことを思うと戦争を身近に感じさせられる。ベトナム戦争が終了し、1977年に弾薬が最終搬出されてからは遊休化していた。その少し前の1972年に空母ミッドウェーが横須賀母港化され、それにともなって乗組員の家族住宅が1000戸程度必要となり、1980年米軍家族住宅建設問題が浮上し、最初の反対運動が展開されていくことになった。米軍は当初、横須賀市及びその周辺に居住するので、新たな施設の建設は予定になかった。それが既存の住宅は米軍の規格に合わないというその理由だけで、池子弾薬庫が建設地の候補に上がったのである。国から逗子に建設のための調査要請があったのは1982年8月、しかし池子弾薬庫が遊休化していたことや横須賀や横浜の住宅施設が返還されていたことなどで、逗子市においても返還されるのではという期待が膨らんでいたので、建設は当然受け入れられるものではなく逗子市民は反対の姿勢を示した。それにもかかわらず、1983年7月、「1000戸を建設する適地である」との通知がなされた。
池子の森に隣接する池子地区の住民は、1941年から旧日本海軍の有無をいわせない強制買収の下、短期間での立ち退きを強要され、消滅した村もあったという。田畑や墓を奪われた旧村民には、この地への格別の思いがあり、返還への期待がしぼみ、住宅が建設されそうになるのでは、反対の声が上がるのは当然のことだろう。
「三者合意」に至るまでの市民の闘い
1982年から三者合意までの12年に及ぶ反対運動は、エネルギーの結集であった。逗子市民は様々なグループを立ち上げ、取り組みを始めた。神奈川県議会や逗子市議会でも建設反対の決議をあげていた。逗子市民は二度の市長リコールや議会リコールで反対の意志表示を示したり、米国の国防省や議会、平和団体や自然保護団体への働きかけをおこなったりと精力的に活動した。1983年適地通知をおこなった国は、環境アセスメントのための調査を開始するなど着々と準備を進めていった。このアセスメントによってシロウリガイの化石や縄文時代の土器類や弥生時代の暮らしの跡などが大量に発見されたのである。さらにオオタカの営巣地、フクロウのつがいなども見つかり、池子の森が自然と文化財の宝庫であることが改めて示された。市民はアセスメントの公告に先駆けて「アセス意見書10万枚運動」を始めた。限られた期間の中で集まった意見書は10万5088通で、このうち建設賛成は770通でしかなかった。しかし、国が民意を反映することなく建設を断行していく中で、逗子市は「三者合意」を成立させた。この時の広報号外で「横浜市域を含む206haの残余地の保全、追加建設はない」と明記されている。こうして「建設反対・早期全面返還」の垂れ幕を市庁舎前面に掲げ市是として維持しつつ、12年間に及ぶ運動は三者合意の締結により一旦閉じられた。
横浜市域への追加建設計画が浮上
2003年、突然、住宅の追加建設計画案が持ち上がった。2001.9.11以降、米軍の世界戦略を視野に入れた再編計画が進み、在日米軍の役割も大きく変わろうとしていた時期でもあった。沖縄に次ぐ第2の基地県である神奈川でもキャンプ座間、相模補給厰、横須賀海軍施設での再編が問題になっていたが、このような状況下での追加建設は再編の補完に他ならない。最初の住宅建設は空母ミッドウェーの配備に伴うもので、今回は2008年の原子力空母の配備計画によるものである。米軍の駐留経費削減と通勤や住環境の充実化などを考慮して池子への追加建設なのだろう。
7月、日米政府は横浜市に対して横浜市域分37haに800戸の建設を条件に、根岸住宅地区、深谷通信所、富岡倉庫地区、上瀬谷通信施設の一部の4施設を返還すると申し入れてきた。根岸住宅400戸が老朽化したため、新たな住宅と不足している戸数を合わせて800戸を建設したいという。当時の横浜中田前市長は「日米安保条約及び地位協定の目的のために必要がなくなった時は無条件で行うことが大原則であり、住宅等の建設とは切り離し、返還の条件が整ったものから、逐次返還すべきである」と建設と返還をバーターにしない姿勢で臨んでいた。この時、返還予定施設を見学してみたが遊休化していることは素人目にも明らかであった。それが翌2004年8月4日にはどうみても建設受け入れのための交換条件としか思えない「横浜市声明」を国に提案した。横浜横須賀道路で隔てられている飛び地部分と小柴貯油施設を返還に加え、上瀬谷施設を全面返還、そして住宅戸数の削減を求めている。そして9月2日に国から回答がくると、「返還面積の合計が米軍施設の7割以上になり、要望がほぼ受け入れられた」と評価して22日に建設への協議に合意した。あまりに早い展開に出来レースを見せられたようで納得がいかなかった。具体的協議に入ると、2005年12月に小柴貯油施設が、2009年5月には富岡倉庫地区が返還されたが、国の「アメとムチ」の手法をあからさまに見せつけられた思いがする。これが取引でなくてなんだろうか。
中田前市長は「市民、金沢区民と苦悩を共にした結果の判断である。かっての逗子の運動のように市民を二分するようなことにはさせたくないので自分が決断した。」と述べたが、市民の意見を聞かないまま政治判断で建設への道を開いてしまったのである。建設予定地に住む地元金沢区民からみると、広く周知もしない自画自讃の態度は、市民への説明責に欠けている。市民不在の政治判断としかいいようがない。説明会開催を求め、市民の意見を聞いてほしいと要請したが、「区内連合会町内会長らで組織する池子接収地返還促進金沢区民協議会以外の土地住民に意見を聞く予定はない」と突っぱねられた。これが開かれた市政を公言していた市長の姿である。さらに「熟慮に熟慮を重ねた判断」というが、返還予定地の遊休化を明確にすることや住宅の不足戸数を検証するなど、返還と建設をバーターにしない手立てをどれだけ尽くしたのか、政治の駆け引きに市民が翻弄されることがあってはならないと思う。
追加建設は三者合意違反!
一方、逗子の長島前市長は「建設は三者合意違反である」として、国に対して「池子の森に米軍家族住宅を追加建設してはならない義務等」を確認する裁判を9月17日に起こした。市長は「再三、中田前市長に面談を求めたが適わなかったので裁判に踏み切った。」と述べている。神奈川県松沢知事が2003年8月19日の記者会見で、「逗子市域への建設なので横浜は関係ないとして、逗子と県の問題になってきた経緯があり、三者合意に横浜市域は含まれない」と発言したこともあり、裁判に踏み切ったのだと思う。
残念ながらこの裁判は2007年2月15日、地裁に続いて高裁でも行政訴訟に馴染まない(訴えが不適法)として実質審理に入らないまま棄却された。門前払いである。2006年12月長島前市長の後任者である平井市長が上告しなかったので判断は行われていないが、松沢知事や中田前市長が三者合意の重みを受け止める態度で臨んでいたら、追加建設への歯止めとなっていたかもしれないと考えると悔しい思いである。横浜市域への建設は三者合意違反であることは明白である。三者合意に横浜が加わらなかったのは、横浜市域が建設用地として不適当とされたからだと聞いている。そのことは1987年12月に横浜防衛施設局(当時)が出した「池子米軍家族住宅建設事業環境影響評価書」に「建設用地として横浜市域部分は不適当である。その理由は、提供用地北東部(横浜市域36ha)は平坦部分が約14haであり、本事業の住宅用地としては狭小であること」と明確に書かれている。
池子住宅地区および海軍補助施設は、歴史的に逗子市域と横浜市域を分断することなく「池子の森」として常に一体として使用されてきたという。このことから逗子市は当然、池子の森を一体として見なし、「緑地の保全」を合意させたのである。この約束を反故にする国の態度は、安保をみて自治体(住民)をみない政治姿勢そのものだと思う。12年におよぶ反対運動の末の「三者合意」である。破棄に繋がる追加建設を認めることはできない。
基本配置案は示されたが、動かない建設計画!
2004年、横浜市が協議に応じると住宅建設へと着々を進んでいたように見えた。南関東防衛局は2006年8月に基本配置計画案を、翌2007年6月には基本構想を示したが、その後2010年8月まで動きはなく止まっていた。建設の工程表によると、2009年後半には工事着工の予定であるのに、環境アセスメントもまだで相当遅れている。2006年以降から3年もの間、進展をみない事態に何が起きているのかと2008年夏頃から横浜市議を中心に、南関東防衛局が発注する業務・工事に関する文書の情報開示請求を行ったが、軍事機密との理由でほとんどが黒塗りで驚いてしまった。すでに公開されている情報までもが非開示となっている。それでも黒塗りや非開示の行間から読み取れたことは、基本構想にはなかったトンネル建設や900台の地下駐車場設置や土砂の搬出など、大幅な設計変更が伺えるものであった。さらに環境アセスの手続きに入っていないのに、事前調査として大気、土壌、水質、動植物などの調査を行っていたこともわかった。環境アセス制度を逸脱したこのやり方は、アセス法を骨抜きにするものである。
南関東防衛局や横浜市基地対策課と何回か面談をしたが、「米軍との調整に時間がかかっている」と答弁するだけで、その内容を明らかにしようとしない中、2009年3月には「2009年度の工事着工を断念」と報じられた。水面下では米軍の意向に添った計画が進められていることは想像できた。
逗子市への攻勢が始まる!
逗子市の三者合意違反を問う裁判が終わるのを待っていたかのように、2009年7月、国は逗子平井市長に「700戸の住宅・逗子と横浜市を結ぶ連絡用トンネル・米軍小学校と3つの建設を容認すれば、40haを返還する」と迫ってきた。当初市長はこれまでの逗子がたどって来た道を考えると住宅の建設には応じられない。」とまだ反対の姿勢を示していた。国の提案を受けて、市長はすぐ市民説明会を市内4カ所で開いたが、その席でこの32年間返還がない逗子と返還が進んだ横浜を比べ、協議に応じたい気持ちが言葉の端々から感じられた。だが、横浜の返還は市民を抜きにしての建設容認であって、国に屈しての成果であることを忘れてはならない。説明会に参加した住民の意見は反対が多く、市長も簡単に協議に応じることはできなかったようだ。
この説明会を機に逗子の市民は市長に任せておけないと再び反対運動に立ち上がり、2010年4月10日には、県内外の市民を始め、反戦平和市民運動団体や労働組合、民主・社民・共産党の議員が参加して20年ぶりの全国大会を開催した。
2009年9月の政権交代で事態の好転を期待したが、新政権も追加建設に関して変更はない考えを示した。民主党の公約は思いやり予算や地位協定の見直しを掲げ、「コンクリートから人へ」といっていたことを思うと、実体のない言葉の空虚さに空しくなる。しかし、政権交代を実感させることが一つだけあった。それは1999年9月に在日米海軍司令部が作成した「21世紀関東平野米海軍家族住宅建設計画(K21)」の文書を入手できたことである。2004年に「K21」の存在が明らかになり、文書提出を求めたが防衛省は応じなかった。それが政権交代後、民主党国会議員の要請で提出してきたので市民の目にも触れることとなった。
防衛省は1999年11月、横浜と逗子の両市長に打診したが、断られている経緯もある。「K21」には1320戸の追加建設計画とその用地には逗子市域と横浜市域が示されている。またトンネル建設やインターチェンジ建設予定地、横浜市域での東門の建設、さらには返還候補地まで盛り込まれている。トンネルの建設予定地は推測でしかないが、現在の逗子住宅と追加される横浜住宅とを結ぶ通路のようである。またインターチェンジは横浜横須賀道路へ繋ぐもので(現在池子ゲート前の道路は狭く渋滞しており)、これが作られると横須賀への通勤時間が短縮できる。これらのことは南関東防衛局から開示した資料と重なるもので、追加建設がこの「K21」によって進められていることが推測できる。米軍が基地を使いたいように、また使いやすいようにしていることも一目瞭然となった。
2010年1月25日、南関東防衛局は米軍小学校に関する落石防護柵工事の入札をおこなう等、逗子への圧力を強めていった。多大な犠牲を払って854戸の住宅を受け入れたにもかかわらず、32年間返還がない逗子市にとって、40haの返還は甘いアメとなったのか、平井市長は容認へと傾き始めていた。2010年2月、返還のための協議に入ることを表明、3月には返還に関して財産処分の優遇措置、活用への財政的支援など3項目の要請をおこなっている。それでもまだこの時点では、返還と建設は分けて考えると発言していたが、6、7、8月あたりに大きな局面がくるので12月の市長選に向けて見解を表明すると答えている。再選を目指す平井市長は、返還合意など実績になるものを手にしたいことが伺えた。
追加建設問題があらたな局面を迎える!
逗子平井市長が返還への協議に応じると、追加建設問題は大きく展開を始めた。 2010年8月10日、平井逗子市長は防衛省に40haの返還の実現を要請した。12日、国の「責任をもって進める」との発言を評価し、返還の促進剤になると米軍小学校周囲の落石防護柵の工事着工を容認した。南関東防衛局は待っていたかのように9月3日、工事に着手した。当日は正面ゲート前に逗子・横浜両市民30人が早朝5時から集まり、建設機材の搬入に抗議の声をあげた。
一方、8月10日は横浜林市長も防衛省に対して「住宅建設戸数の削減と返還合意された施設の早期返還」を要請している。こうした動きの中で、8月26日に日米合同委員会が開催され、横浜市域での追加建設戸数を400戸にすることと逗子市への返還用地を共同使用することが合意された。市民から見ると突然の動きにただ、驚くばかりだが、両市長とも要望が聞き入れられたとするコメントを述べている。
戸数を400戸とした理由を①根岸住宅の移設分 ②米軍による300戸の借上げ制度の活用 ③良質な住環境の提供 ④地元自治体の削減の要望 ⑤横浜市内の返還予定施設の早期実現の要望を受けて住宅建設の早期終了 をあげている。削減の300戸については「将来その時点の需要に考慮し、日米間で協議する。場所については横浜市域が一つの選択肢ではるが、日米間で協議する」と含みをもった内容となっている。これでは逗子市域への建設もあり得ると考えられる。現在の住宅は逗子市域252haに854戸が建っているが、追加建設計画は横浜市域37haに700戸である。どう見ても良質な住環境であるとは言い難い。米軍はそれでなくても兵士の士気をあげることに苦心しているはずで、このような住環境に納得しないことは容易に推測できる。だからこそ、2007年から米軍との調整に時間を取られていたのだろう。だが、最も疑問に思うのは、当初の計画は800戸であったものが、700戸になり、今さらに400戸となったことで、戸数の根拠はどこにあるのかということである。建設計画の全体像が示されていないままでは評価の仕様がなく、市民の安全を守る義務のある自治体として積極的に情報を求めていく姿勢も感じられず、これでは不信感がつのるだけである。まず当該市民への説明が先ではないだろうか。大事にされるべきはその地に住み暮らす住民の意思だと思う。
8月26日の合意は9月30日に日米間で正式に承認された。逗子においては、一部返還も叶わず共同使用となったが、平井市長は「返還への前進」と評価している。全面返還を掲げていたことを考えるとこれも後退としか思えない。共同使用は米軍にとっても利便性があり、これでは返還への道が遠のくと考えるのは市民だけだろうか。
そもそも、国の逗子市への要請は40haの返還は住宅・トンネル・米軍小学校の建設の容認が条件であったことを思うと、国がまだ取引のカードを握っていることになる。
「K21」からもわかるように、国は米軍の意向を受けて逗子・横浜両市と水面下で調整を進めていたに違いない。
追加建設に抗する市民たち!
米軍住宅の追加建設は、三者合意違反であり、池子の森を破壊することはもちろんだが、基地の強化と恒久化に繋がるもので看過することはできない。さらに心配なことは、池子の毒ガスの遺棄問題がある。これまで毒ガスに関する地歴調査も行われていない。戦後60年も経ってから寒川町や平塚市、茨城県の神栖町から遺棄された毒ガスが見つかり、住民が被害を受けている。千葉県でも昨年から次々と旧毒ガス弾が見つかっており、池子においても発見される可能性は高い。毒ガスは一度体内に入ると障害が残るなど、その影響は計り知れない。被害がでてからでは取り返しがつかない。こうした問題に加えて、今の新たな動きに対して、逗子と横浜の市民たちは協力して追加建設は認められないと異議の声をあげている。
毎週金曜日、午前8時30分から9時30分まで池子の正面ゲートに集まって、横断幕やプラカードを持って集まっている。10月3日には市民の手作りデモをおこなった。これからも反戦・反基地運動に携わる多くの人たちと共に追加建設問題から見えてくる基地問題を考えていきたい。
基地のない社会を目指して市民の平和力を活かそう!
今年6月19日、日米安保条約成立50年を迎えた。今でも安保賛成は半数を超えている。多くの人は安保があるから基地があるのは仕方がないと容認し続けている。だが在日米軍の75%が駐留する沖縄の基地負担は限界を超え、第2の基地県神奈川も同様でその負担は重くのしかかっている。戦後65年を経てなお他国の軍隊が駐留することの是非を考えてみたい。日米同盟が軍事同盟のように強化されている現実を前にして、問われるべきは平和国家から軍事国家へと舵を切っている政府であり、それを支える私たち市民かもしれない。沖縄では辺野古新基地建設をさせない名護の住民を始め、もう我慢できないと各地で立ち上がった住民の意思は鮮明である。私たちも安保条約を必要としない安全保障のあり方を視野にいれ、市民の平和力を模索しながら沖縄に続きたいと思う。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion0206:101111〕
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