日本人にも通貨失権が感じられ始めます
- 2010年 11月 12日
- 評論・紹介・意見
- 海の大人通貨失権
3日前、私の実感では2日前、ニューヨーク金先物取引で1トロイオンス1400ドルがついに突破され、5日前から日本も金先物価格がほぼ棒上げとなり、昨日(11月11日昼)、5月につけたたぶん3728円の最高値を大きく超えました。事情はいろいろと説明できますが、商品の代表たる金の価格は、「通貨表示価格」によれば、次第に高くなっているわけです。
これは、通貨を前提に通貨の側から商品価格を観ていると、明らかにインフレが全世界を覆い始めたと言う事です。「物の値段が高くなり、収入が上がらない限り生活が苦しく」なるでしょう。だから反対の理屈として、「生活が出来る賃金を勝ち取って、現状の生活水準を維持する」衝動を労働者の気分として強めるでしょう。しかし、日本の高賃金は産業資本の競争力を削ぐ物として、85年のプラザ合意以来、繰り返しキャンペーンされ、すでに、相当の産業企業が海外に資本と事業を移転し国内には、一種の地場産業の様相を見せる自動車、鉄鋼、電器以外には大きな労働力吸収加工産業はなく、後は、第三次産業が雇用吸収力の柱として残っているだけです。まして、失業が深刻な問題として存在し、年金生活者も増える一方だと日本では予想されています。一般的に考えて、日本人の生活は次第に貧しくなる状態が現実感を持って予感されます。
もちろん、デフレこそが基調であって、インフレには為るはずがない、と言う議論の余地はあります。しかし、そうした議論は短期的であったり、個別の指標を云々したり、輸出入に目を奪われたりした議論です。商品と貨幣の間を繋ぎ止めている「価格」と「信用」の問題をよく考えていない議論です。価格とは何なのかを考えないまま、価値との関係だけで、「価格」を語れる時代は「金本位制の終焉や1930年代のケインズ政策の採用」によって終わったのではないでしょうか。もちろんそのことによって、貨幣は「通貨」一本槍になり、金とともに、「貨幣観念も隠されて中央銀行の金庫に了われた」のです。辛うじて、管理通貨の時代はドルと金とのリンクが政府を通じて保障されていたものの、基本的にはその時代は「通貨流通法という強制力と補助貨幣」によって、国内的な流通が確保されていた軍票と同じ「流通手段としての貨幣」の時代でした。
冷戦と安保と高度成長によって、そのことは隠蔽されてきましたが、71年ニクソンショックと72年変動相場制の時代と為って、あらゆる、商品交換は「貨幣と貨幣の売買による決済(支払い手段機能)にリンクされるとともに、貨幣売買が新しい信用創造の根拠になる」時代になってしまいました。ここで創造された信用は各国中央銀行では処理できません。(通貨主権という)主権の売買を認める超国家機関はありませんし、そこで創造される信用が巨額すぎるからです。世界貨幣や、世界中央銀行が作れなかったツケですが、ここで本格的に通貨と価格の乖離が生じたのです。信用は価格表示されますが、現実の通貨発行と関連する価格とは桁が違いすぎます。もちろん、信用としてだけ帳簿(たぶんコンピューターの中の電磁記録)の中にある利益としての「価格が巨大すぎて通貨化出来ない」事が、変動相場制のもっとも深刻な矛盾なのです。
だから、60年代までは国際援助がどんなになされても離陸できなかった後進国が、「マネーロンダリング投資の受け皿がブラックボックスである事によって、資本の原始的蓄積が無いにも拘わらず発展途上国として興隆してきた」のでしょう。だから、「償還できない事が前提の巨額の国債発行も大部分が不良債権となる事が解っている巨額のハイテク投資も可能で、アンダーグラウンド経済と不可分に結合した先進国娯楽消費社会が出来た」のでしょう。通貨化できない利益の社会実現=通貨化のためにはブラックボックスとアンダーグラウンドが必須のもので、第1次産業や第2次産業のような実業はM&Aの対象か、金融商品として意味がある社会になっているのです。
アメリカという国家や社会がこうした時代の動きの主体だったわけではありません。むしろ、玩具として弄ばれたのです。ヨーロッパという空間も同じ事です。アメリカやヨーロッパという空間に生息しているある種のエスタブリッシュメントが主役です。ドル・ユーロ・円という三極関係は、「ドル」、「ユーロ」、「円」の内実においてボロボロです。「元」などと言うものは四極関係を作る以前に破裂してしまう可能性の方が大きいくらいです。そして、ここ数年は通貨が商品との関係でじりじりとその権威と役割を軽くしていた過程だったのです。私はこれを「失権過程」と捉えていましたが、金に代表される商品群はあまりにもその所在が偏りすぎていて、通貨の担保としては劇薬過ぎる事を否定できませんでした。
しかし、事実はどうやらそうした余裕を人々に与えてくれそうもありません。これから、さらに金の高騰、暴落を挟みながら通貨が翻弄される事態がやってくる気配です。実業は難しい、生活は厳しい、政府は人民のためには何もする余裕がない、そんな数年が来そうです。近代という時代、近代国家というシステム、近代社会という幻想が全面的に崩壊する時が来ているようです。喜ぶべきなのでしょうが、未知の時代への突入はやはり恐ろしい、身震いするような毎日です。(了)
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〔opinion0209:101112〕
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