民主主義未満問題とマルクス再生について
- 2014年 7月 18日
- 交流の広場
- 武田明
4.今考えられる共産主義のヴィジョン」(第一章として)
副題:二段階革命の一段階革命にも到達していない知性疎外=格差社会としての日本の現状について
1-1.民主主義未満について
ちきゅう座はとても賑やかですね。
本日、目についた文章は、
日本のひとつの敗北
http://chikyuza.net/archives/45970
「アメリカ国営放送では安倍晋三をファシストとして認定した」
そして、前々日、
書評 ベンヤミンとマルクス
http://chikyuza.net/archives/45946
これがあります。前者は、時事を取り扱ったもの。
そして、後者は、哲理や根本的問題を取り扱ったものです。
ちきゅう座の文章は、
有志がちきゅう座読者の為に寄稿したもの、学習会やデモの告知そして、
「本間宗究のコラムhttp://www.tender-am.com/column.html より許可を得て転載。」と言う形式などがあるようです。
「許可を得て転載」とは、読んで面白かった故に、ちきゅう座管理者が転載したと言う形式なのでしょうか?
上記の「書評 ベンヤミンとマルクス」はちきゅう座にとって時事的な展開であるのか、まったくの個人的な研究段階の発表であり、独立したものとして抜粋として読むのか迷われるものがあるのですが、引き続いて問題導入とさせていただく面白味がありましたので、引用しながら今回も展開したいと考えています。
ちきゅう座籠城は良くないと誰もが考えているからこそ、諸所学習会やデモ運動の参加の呼びかけもあるのだと思います。
それであるならせめて、現代史研究会など学習会も関東一極集中ではなく、せめて、五大都市連携としたり、地方自治に働きかけられるように各県組織へと本来は、これだけインターネットが普及していながら使いこなせていない状況がもどかしくも感じています。
(前回の技能論参照)
しかし、これもあれも、日本の民主主義未満としての権力の独占を許しているが故の問題であるということを何故、誰も主題的に指摘して来なかったのか不思議でなりません。
敵は、(用語への修正は求められているものの)帝国主義であり、独占資本であり、民主主義の要である政党政治さえ独占的である。そのような敵との戦いである事は、昭和年間から平成年間に至っても変わっていない事を突き止めなくてはならないはずです。
どこまで独占されているのか?の問題があるが故に、
常に、「圧力団体」止まりの政党政治未満デモ、「民主主義未満」の戦い、蚊帳の外に出されている故の自民党の長期独裁状況が続いているのは、日本も北朝鮮も同じ世襲と格差支配が続いている意味では同じであると分析しなくてはなりません。
民主党も自民党から分割された第二自民党でしかなかった。
だからと言って日本共産党では政権が今のままでは担えない。
それ故のアソシエーション党派でありながらも「知性は本当の意味で今だ協働未満」である事の問題が、まさに、「前近代的」「民主主義未満」状況としての日本的現在分析にもなっている事を全力で問い続けていなくてはならなかったはずであるにも関わらず、バカな中流意識=ブルジョワ性に支配されて来た事を集団的自衛権抗議デモに参加した4万人は、それぞれ猛省し固まらずそれぞれが独自の展開を持って、インターネット広報、一人が千人に伝えて行ける展開と技能性を磨いていたなら即座に政治を変えて行けるのかもしれません。
しかし、問題は、「どこまで独占されているのか?」の問題です。
教育も知性も技能も独占されているのです。
政治運動を展開するにもかつての大学運動も未熟だったかも知れませんが、現在ではそこにまでも到達していない状況となっているのでしょう。
上記に語られているベンヤミンの名もちきゅう座的には知りすぎた聴き過ぎた名前かも知れません。
しかし、大衆的には知れ渡っている名前ではないでしょう。
池上彰氏などが一般的素養として、テレビで語る名前の中には遠い存在となっているのであり、その意味でも「歴史」も「知性」も独占されており、大衆から遠ざけられていると言わざるをえません。
今村仁司氏が、世間的な広報の為に、かつて、講談社より『現代思想の冒険者たち』(全30巻別1巻)を編集された仕事などによりベンヤミンも平明に紹介された土壌があって専業的な学術から大衆へと開かれたのであるけれども、その様な労作でもまだまだ日本においてマルクスを語る段階には来ていないし、大衆や労働者にとっては、彼岸のものとして自身のものとはなっていなかったのは、池上彰氏などの平明な解説には語られようもない名前であろうからです。
ではどうしたら良いのか?
労働者が労働者の歴史を知り、そして、歴史を自分のものと感じられるものとすると良いのだけれども、相変わらず歴史は、天皇の歴史であり、神の歴史、貴族の歴史でしかない段階で留まっており、教育の段階から「疎外=格差」そして、その学ばれている内容、「知識、素養」のスタンダードさえ独占されているのだと言うことに気が付かず、誰も指摘せずに通り過ぎてきた実態が事の本質なのではないだろうか?
では、ベンヤミンの名前が大衆や労働者の中でスタンダードとして、問題構制を語り合える土壌を作りだすにはどうしたら良いのだろうか?
大学までを義務教育として、全ての人に大学教育を受けさせて、「近代的知性」への到達を促す事でしょうか?
気持ちの入らない暗記は奴隷の道でしかないと大部分の大衆、労働者は、そのやり方にこそ叛旗を翻している様にも思えます。
昨今では、教育費の高額なこと、ベネッセ個人情報漏えい問題やら塾や予備校のCMに席巻されたテレビ=「メディア独占」状況にうんざりしながらも仕方がないものと諦めて、騒ぎもしなくなっているようですが、それこそが、大衆や労働者階級を下敷きにした大学のアカデミズムの実態であり、真性の左翼は大学=アカデミズムには存在しなくなった謂れではないかと考えないわけにはいきません。
「どこまで独占されているのか」
全ての人に、ベンヤミンやマルクスを扱える位の知性=近代化知性の地平を築くのには、全ての大衆、労働者に大学課程の履行を求めるのではなく、むしろ「大学の解体」、それ以上に、中学、高校の過程さえ無意味なものとしていく方が、早いのではないだろうか?
世間に出て、誰もが思うことは、一生、勉強であり、資格試験の中で学ぶことが強要されてもいるし、いずれ、自身の欲求ともなりえているのではないかと言うこと、しかし、無駄な独占資本的教育過程により子供たちは疲労させられ、真の知性にも教育にも、師にも出会えない状況に分断されている。
むしろ、ベンヤミンが破壊したかったのは、「概念」の裏側にある、その様な「プロセス化、順位化、格差化」であり、「教育言語」ではなかったのだろうか?
その方が、一般的にわかりやすく具体的な「概念の破壊」としての理解に届くのではないだろうか?
民主主義未満のまとめ
1.政党政治が崩壊しており、無党派層が増大している。一党の独裁=自民党官僚政治が支配しているにも関わらず、労働者は、自らの歴史を学ぶ教育の場からさえ疎外=格差にさらされている。
2.集団的自衛権抗議、反原発運動も相変わらず圧力団体的デモに留まり、国会内部にも勢力を確保できず蚊帳の外に置かれ続けている。
3.現行の労働組合、日本共産党も上記の「知的独占物である教育課程からのアウトサイダーとしての位置づけであり、真の意味の大衆労働者の党ではなく、資本主義官僚政党の亜流に留まっていると言わざるをえない。
本来、憲法の精神を順守する国家を実現するのであるなら社会主義、共産主義国家は、必然の道であり、政治論は、理想や理念を国家、社会、家族、個人に至るまで追及する「やりがい」「生き甲斐」としての対話の場である人間の場であるなら必要と希求によって学び学ばれるのでなくてはならない。
日本がまだまだ近代国家でもなく民主主義国家でもない理由は、都議会ヤジ問題、政務活動費号泣県議や青森の金まみれ議会問題などなどを待つまでもなく今更の感があるのではないでしょうか?
1-2.「メディア独占」の現状について
現在、池上彰氏は、テレビ朝日、TBS、そして、フジテレビでも分りやすいニュース解説をしていて、メディアの顔として広く認知されつつあるようです。
先日、フジテレビ系列において「北朝鮮」を扱った3時間スペシャルを展開していました。
対話不能な国家とも思える北朝鮮でありながらその中にまだ少しでも共産主義国家の片鱗が見つけ出せるのか?
世襲は、現在、日本の政治も自民党議員を中心に世襲的に構成されているのだから同じである。
北朝鮮は、国体としての社会主義を守っているのか?それとも世襲と言う特権を守っているのか?
この視点は、資本主義社会でも同じであるのは、「民主主義未満」の「独占状況」を更に分析していくなら明らかになっていくのではないでしょうか?
しかし、それ以上に、四面楚歌なる弱小国である北朝鮮が世襲である事を「守り」としているのは、時間をかけずに代表を決めなくてはならず、また、無政府主義、戦国時代の様な内戦とならない為には当たり前の事情の様にも思えるものがあります。
立憲君主国家であっても議会により選出されようとも結局は、総理大臣やら大統領と言う独裁者を選出して任せ切っている無責任な大部分の大衆、労働者と言う図式が採用されているのと同じであり誰もが等しく性善説的であったとしたなら独裁権力の座を一人選出せずとも、それこそソビエト評議会集団統治の方がよいだろうとも言えます。
各人の能力差問題は、またの機会に語るとしても何ら、社会主義国家を妨げているものは、今日存在していないのであり、ただただ、民主主義未満であり、近代化が特に、人文科学的分野、対話術的にも未熟であり、未満のまま、知性から疎外=格差支配されている大衆、労働者が放置され続けてきている故と言わざるをえない結論に幾度も辿り着くはずではないでしょうか?
1-3歴史の悲劇、近親憎悪としての人間性悪説と社会主義について
「一人殺せば殺人者だが、100万人殺せば英雄だ」 by チャップリン
歴史的にさんざん殺戮や戦争を繰り返してきた人類史に対して、何によって社会主義近代社会は機構として確立されるのか?
資本主義との関係について語りださなくてはならないのですが、
池上彰氏も、日本こそが、唯一成功した社会主義国家である。なぜなら、いやいや働くのではなく喜んで働いているからだ。
その様に皮肉として語っているのか実質的なものがあると言えるのか、そこから論を起こしたいのだけれどもいささか長くもなったので、また、時間のある時にこの分析をしたいと宿題を残して今回はおえようと思います。
『なぜ私たちは、喜んで“資本主義の奴隷”になるのか? 』(作品社)
こんな本もあるようです。
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