ちきゅう座(2014-2015)~民主主義多数派増殖の本質と人海戦術論(マルクス再生について2)
- 2014年 7月 25日
- 交流の広場
- 武田明
「不幸はその人の偉大さを証明するものである」(パスカル 1623~1662 仏)
「マルクスは良き経済学者、ないしは良き哲学者であったかもしれないが(実際そうであった)、政治家としてはお粗末であったという言をしばしば耳にする。」(『21世紀のマルクス主義の模索』ダニエル・ベンサイト著・湯川順夫訳 つげ書房新社P11)
民主主義未満、政治学未満の欠如性としての展開は上記の一文への異論であり対話の試みとなっています。
第2章 目次
2-4 解釈から実践の政治学
=政治学的平等と経済学的等級制の問題点
2-5 真の大衆労働者政党とは~「大学の解体」生涯学習基盤としての人間存在本質に照らし合わせた対話の基盤
=政治学は学に封じ込められるものではなく実践的理想主義を希求する対話する「場」のことであり
「憲法と共産主義社会整備」そのもののことである。(日本的アジア的一国社会主義試論内外交論前景)
2-6 ちきゅう座の実践的役割について~インターネット戦略と人海戦術論(YMO増殖の論理と問題点)
=デモか対話広報的学習の拡散か
1-4「今考えられる共産主義のヴィジョン」を問題としているわけですが、前回は、「民主主義未満問題」として、政治学的未熟さを取り扱ったつもりです。
上記、目次に描いた内容だけで、既に、主題点を言いつくしている観もありますが、補足文を増殖しながら更に、多くの読者の理解に届くものへとしていく文体を採用しようと思います。
政治学は、差別や疎外=格差を是正しようとする方向性であり、むしろ、経済学的等級制こそが、差別や疎外=格差の温床であろうこと、それ故に、経済学論=資本主義の歴史批判こそが、マルクスの主眼でもあったのは周知のものでしょう。
言葉、用語への違和はさておいたとしても、日本が池上彰氏が語っている様に一種の「社会主義」であるということは、生活実感もあるが故のゆとりであり昭和元禄ならぬ平成元禄なる文化性、哲学性も実現可能であると言うわけです。
女工哀史の前時代性や北朝鮮、中国の中にもまだまだ存在している飢餓や貧しさよりは幾分かは、日本の方が、ブラック企業や派遣労働、フリーター、無職引きこもり問題があったとしても「食」としては保てている状況と言えるかも知れません。
しかし、「人はパンのみにいきるにあらず」これはキリスト教の信仰の言葉ではなく、人倫に通じる哲理でもあり、唯物論者社会主義者共産主義者にとっても共通の人倫と考えるのですがこの考えは間違っているでしょうか?
レーニンの「貧農に訴える」と言う一文の中にも、「一日に、十時間も十五時間も馬や牛の様に働かされるのは嫌だ」の様な一文があったのではないかと思います。
それは人が人として扱われない機械主義(モダンタイムス)、疎外=格差の訴えであり、「人がよりよく生きる社会」としての最初の社会主義、共産主義の目標であり、終着点としてのテーゼとされているだろうからです。
それが、個人としても社会としても希求されていることはタブー視されてはならない、
資本主義とエゴイズムを基調とした社会は止揚されてしかるべきとする考えは、「蜘蛛の糸」「羅生門」にも通じる唯一の人倫であり、それを赤狩りするのは無知によるものでしかなく前時代的弊害以外の何物でもないわけです。
それをまず、用語論的に言語論的弊害としてまず、その無知に対してこそ「近代的知性」は啓蒙を施し、徹底しなくてはなりません。
啓蒙とは、高所低所の逆差別であると述べる向きもありますが、それでも、ヘイトスピーチに論拠を与えるべきではないと言うのと同じ理屈となります。
平たく言うなら、その人倫が、「真理」であるとしたなら、キリスト教者は、それを「神の言葉」と称し、唯物論者は、「科学」として追及したいとした故の「人文科学論」的展開となっているわけです。
形式や表現の対立は全く問題ではないのですが、ここにも更なる補足が必要でしょう。
2-5経済学的疎外=格差問題を、更に、掘り下げるなら、それは、教育格差であり、知性疎外=格差であり、ただただ、近代知未満問題としての誤解があるだけと前回の一文で既に語っています。
近代知の地平とは、教育課程としてのカリュキュラムとは無縁のところにある故に、「概念の破壊」としての「学校制度の解体」
そして、生涯教育基盤としてのインターネット活用と「ちきゅう座」の実践的活用論として、今後は、展開していこうとする筋道となります。
第2章のまとめ
a.「人はパンのみに生きるにあらず」は、人が生きる意味そのものであり、生きる目的と共産主義は、同義であり、用語的言語論的に退けられるものではない。それを理解しない弊害とはただただ近代知未満の教育的弊害であり、未開性によるもののみである。
b.ソビエトの陥穽 、北朝鮮問題としての印象と観念の連合としての問題点。
それは、ヒュームの述べている印象と観念の複合の錯視に他ならない。今後この偏見と連合観念のひも解きに全力を尽くさなくてはならないのであるがこれは、共同作業として展開していかねばならない課題である。
転向は、歴史的挫折であり、個人の限界、生涯の限界としての問題であり、それも、唯一の考えではないことを、既に、前々回の一文にて触れてある点でもある。
c.上記、まとめa-bにより、民主主義未満状況として党として今だ『共産―党』は、実現されていない政党政治未満であるものの、アソシエーション党派としての共産主義的人間としての場は、「既に」「実現」「されている」ことは、「宣言」されなくてはならないし、「それを」「阻む」ものは「何も」「ない」し、「赤狩り」される謂れは「恒久的」に「これを」「自由」の名において、「放棄させなくてはならない」
なぜなら、生きる事と共産主義は同値であり、表現は違うもののキリスト教と同じ「生きる目的」の名称であり、「ライフライン」であり、「対話的教育知」の礎をなすものとして定義づけていくべきだからだ。
(これについては再び、主題的に後日、平明に補足説明を付加していく予定。)
共産主義とは、社会の事であり、個人としての共産主義的人間とは何ら共産主義ではないとは形容上の矛盾であり、それこそが、誤解の最たるものであることも後日、時間をかけて補足していきたいと予定しています。
2-6では、実践的ちきゅう座の役割として、今後、(2014-2015)にて、具体的に何をしていくべきか?そして、現代史研究会をいかに活用していくべきかの展望へと進まなくてはならないわけです。
共産主義は、党や社会としては実現未満であるとしても、個々人としては、それぞれに既に実現されているのと同様に、既に、「ちきゅう座」の活用と実践は、開始されているのです。
しかし協働も未満であるなら、インターネット活用としても未満である事を前回までの序論にて述べています。
そして、僕の目的としては、「アソシエ21」の失敗があり、「復興」が、念頭にある事も既に述べている通りです。
アソシエ21は、会誌も発行していました。
ちきゅう座もまず、「インターネット広報」として、「年誌」を2014-2015出すべきでしょうし、可能ではないでしょうか?
「アソシエ21」会誌の失敗は、アカデミックでありただただ論文の羅列でしかなく、「テキスト」ではなかった故です。
本は、「源氏物語」の瀬戸内寂聴氏が言われている様に読まれなくては意味がありません。
しかも、反面教師的に学校のテキスト化し、繰り返し読まれるべき「近代知」啓蒙の書として協働編纂する参加者をすべての人に開いていく「努力」「学び学ばれる」「場」として宣言していく「インターネット対話術」を磨く最初の拠点が必要です。そうすることで、
共産主義的人間から協働へ、そして、共産主義的政党、そして、共産主義的社会の雛型、模型をここでそのまま展開できるということになります。それを行えないと言うなら「生きる」=「経済学」そのものも『人倫』も「教育改革」も実践しなくてよいと言っているようなものとなります。そうなれば、「ちきゅう座」は、大衆、労働者に、背を向け続け、知的エゴイズムと新自由主義を基調として、近代を超克しなくてよいと後ろ向きであると言わざるをえないのではないのではないでしょうか?
そんな「ちきゅう座」を誰が望んでいるのでしょうか?
阻んでいる弊害はまだあるのでしょうか?
「科学論として、反原発イロハ」から、「歴史学批判」などなど、から、それぞれの自由なリゾーム人海戦術の側の多数派、としての無能な大衆、労働者の有能性の喚起、結集こそが、社会主義運動の原初でありそれを取り戻す努力を「今」「ここで」「開始」「しましょう!」
人が、増えたなら、ジャンル別ちきゅう座も必要になるでしょう。
整備もどんどん進んでいくのは当然ではないでしょうか?
一日、二、三件の書き込み過疎が良い状況とは誰も言えないでしょう。
ついては、経済学や科学論は不得意でも大丈夫。
ちきゅう座的音楽部門
https://www.youtube.com/watch?v=Q5p283KZGa8
マンガ部門
「カムイ伝」や「ベルサイユのばら」「オルフェイスの窓」の様な、歴史マンガを持って、歴史啓蒙へと人海戦術的に広げていくのも全く不可能ではないと感じています。
需要は必ず魂を込めた実践であり言葉であるなら必ずついてくるはずではないでしょうか?
既に、的場昭弘先生が、『漫画資本論 俺たちの90日戦争』と言う原作本に挑戦しています。
しかし、まだまだマンガ作品としては佳作に留まっている退屈さもあります。改良の余地は多大にあると感じられます。
全ての人が、猛省して本当の意味で、学び学び合う協働を「ちきゅう座」から開始していかねばなりません。
人間存在の本質に即した差別、疎外=格差を排した真の人間としての対話の学校を開始しましょう!!
おのずとそのプラトン学校的理想の中に、共産主義社会は、実現されるのです。
何もそれを阻むものはありません。
今回、画像や動画を実験的に反映させてみました。
うまく反映されない場合は、僕のブログへどうぞ。
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