1945年8月2日・八王子空襲 -小澤俊夫さんの「B29の体当たりをみた」に触発されて-
- 2014年 8月 2日
- 評論・紹介・意見
- 半澤健市戦争
小澤俊夫さんの「B29への体当たりをみた」(「リベラル21」、7月26日:http://lib21.blog96.fc2.com/)に触発されて、私も自分の戦争体験を書く気になった。極私的記述をご海容いただきたい。
《B29は偵察飛行から爆撃飛行へ》
小澤さんが、東京立川市上空で、日本軍戦闘機による米爆撃機B29への体当たりを見た頃-1945年春の頃か-、私は隣の八王子市にいた。44年8月に、東京都文京区の元町国民学校4年生であった私は、栃木県大田原のお寺に集団疎開をした。病を得て3か月後にに一旦帰京した頃、マリアナ諸島を基地とするB29は、1機で東京上空に現れた。高い秋空を飛行機雲を曳きながら、悠々と飛んでいた。銀色で半透明のその機体を見て、私は日本軍の高射砲や戦闘機は、なぜあの敵機を撃ち落とせないのかと思った。11月1日が最初の偵察飛来であり、少数機による偵察が数回続いた後、同月24日から百機規模の本格的な空襲が始まった。
私は、父親が掘った自宅の防空壕で、この空襲の爆撃音を何度か聞いている。恐怖だった。それを避けるために、八王子の父の知人宅へ一人で縁故疎開した。そこでその頃-というのは45年春で私は4月から5年生-、私も陸軍戦闘機「飛燕」がB29に体当たりして撃墜するのを見た。B29は、十数機から数十機の編隊で1万メートルの高度で飛来したが、日本軍高射砲の射程では砲弾が届かず、日本軍戦闘機は少数機で迎撃したが、すれ違えば追撃する速度が足りず、しばしば重装備のB29によって撃墜された。
「飛燕」の体当たりを確かに見たと私はずっと思ってきたが、小澤さんのように具体的な描写ができない。それは本当の記憶なのか、それとも自分が見たかったものを、のちに見たことにしてきたのか。確信がなくなった。
《照明弾で真昼のようになった八王子》
私の大きな経験である八王子の空襲は、45年8月1日夜8時55分の空襲警報発令に始まる。3時間ほどは静かであった。8月2日へと日付が変わったころ、照明弾が投下され八王子上空は真昼のように明るくなった。それからの記憶は断片的である。3月10日の東京大空襲によって、文京区湯島で焼け出された両親は、このとき八王子に来ていた。
知っていた八王子市民
当時、米軍は「伝単」(でんたん、上空からの宣伝ビラ)や対日放送で空襲する都市を-ときに月日まで-予告していた。防空当局と八王子市民は、当日の空襲を予期していた。現に私の母親は、当日昼に家族の安全を祈って市中心部の「八幡様」に「お参り」に行ったのであった。私はそれをよく記憶している。その八幡神社は、市立第一小学校の前に、もちろん現存している。
竜巻状の強風と低空のB29
焼夷弾攻撃による火災発生に伴い、竜巻状の強風が発生し地上から物体を巻き上げた。トタン屋根、屋根瓦、家財、衣服などの物体が、炎と火の粉と一緒に空中高く舞い上がった。焼夷弾の「シュルシュルシュル」という落下音の恐怖感は言葉で表現できない。親子3人は、市中北部を貫流する浅川(多摩川支流)の、堤防下の側溝にたどり着き防空頭巾を被り頭を伏せていた。時に顔をあげて周囲を見た。胴体や翼の星印の米軍マークが、明視できるほどB29は低空で爆撃した。国民学校の級友には、搭乗米兵の顔が見えたという者がいる。地元の地形に詳しい友人は、ガソリン散布から始まった米機の焼夷弾投下が、如何に計画的に市内を包囲したかをクラス会で証言している。
《一夜明けて何があったか、何が分かったか》
側溝に夜明けまでうずくまっていた記憶がある。しかし公的記録を見ると、爆撃は2時間程度で終わっている。約170機が、地方都市攻撃では最大規模の焼夷弾を投下した。八王子市街の8割は焼失した。被災所帯1万5千戸、死者450人、負傷者2000名とある。事前予期は死者を比較的少なくした一方、消火活動が不十分となり焼失地域が拡大した、と記録は書いている。当日は、八王子のほかに立川、福生も爆撃された。小澤さんはどうしておられたのであろうか。
八王子市は焼け野原になった。その中に白壁が焦げた「蔵」がいくつか焼け残っていた。何日か後に私は焼け跡を歩いたが、防火用水の中に胸から上を出して死んでいる人間を見た。その場所は今もハッキリ覚えている。記憶に残る死者はその一回である。わが親子3人は、焼け跡の防空壕に何日か何十日か暮らしていたらしい。自分の体験を「らしい」と書くのも変だが、実際記憶がないのである。
しばらくして一家3人は、浅川と甲州街道が交差する大和田橋の近くで戦災を免れた家の一部屋を、借りることができた。陸軍飛行将校の愛人が住む家であった。もう一家族が居候をしていた。芸者だったらしい色白の女性は、長唄「秋の色種」をよく弾いていた。この人たちと両親がどう出会ったのか、そしてどう別れたのか。このパイロットのカップルがその後、どうなったのか。私はそれを親に聞かなかった。
以上が空襲体験の記憶である。頼りない記憶である。
これを書いていて気づいたのは、両親の戦争観をしっかりと聞いておかなかったことである。父親は叩き上げの商人であった。小林秀雄風にいえば、両親は「黙って時局に処した」のである。隣組の副組長をやったときに、「リーダーシップ」を知らない職人気質の父親は、随分苦労したようだった。しかし、彼らは戦争責任者への恨みつらみを大声で口にしたことはなかった。これも「時勢」であると考えていたのであろう。愚直な庶民として「〈商い〉は〈飽きない〉だ」といって、亡くなるまでささやかに商売を続けた。晩年は町内会の旅行や朝顔を咲かせるのを楽しんだ。戦争犠牲の「受忍」という言葉は知らなかった。
《自存自衛に失敗した国家は「集団的自衛権」を行使できない》
私はこれまで、関東軍の敵前逃亡や、サイパン玉砕や沖縄戦の惨劇を念頭において、「軍隊は国民を守らない」と考えてきた。しかし、自分の両親についても「軍隊は国民を守らない」ケースに当たることに気がつかなかった。2回の空襲から、国家は私の一家を守らなかったのである。他人事ではなかった。
開戦の詔書は、「大東亜戦争」の大義として「自存自衛」を謳っている。しかし、国家(軍隊)は国民を守れなかったどころか、国民を塗炭の苦しみに陥れた。しかも誰も自国民による審判によっては責任をとっていない。「個別的自衛権」の行使に失敗した無責任体制の国家が、ヨリ危険な「集団的自衛権」で国民を守れるわけがない。
小澤俊夫さんの「B29体当たり」エッセイが、私の思考をここまで運んできてくれた。それは、私に大事なことに気づかせ、そのことを書くことができた。
小澤さんの執筆意図はどうあれ、その導きに感謝したい。
(2014年7月30日・ガザ攻撃を続けるイスラエルの暴挙を聞きつつ記す)
初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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