戦争の遺物を観て
- 2014年 8月 3日
- 評論・紹介・意見
- 熊王信之
今年も八月十五日が近付いて来ました。 毎年のように、この時期になるとマスコミは、敗戦時の記憶を喚起するべく、彼是と特集を組み、読者・視聴者の関心を惹こうとされているようですが、聊かマンネリ感が拭えず、戦後生まれの私のような者には自身の体験として受け止められる筈も無く風化して行きつつある記憶のように思われます。
しかし、こう云えば、戦前生まれの人々にお叱りを受けるかも知れませんが、身の程知らずの戦争の後遺症を受けた我々戦後生まれの人間も一言言わせて頂く権利は保有していると思うのです。 間接的にではありますが、我々も戦争の被害者であるのですから。
ところで、私自身の記憶で云えば、戦後の暮らしの中で、本当に何も無い生活を思い出すしかありません。 尤も、そう云えば正確ではありません。 私の生まれた地域の特性で、戦争遺跡のみは、たっぷりと残っていました。
大阪府の大阪市東部と接する現在の八尾市にある空港の近辺が、私の出生地ですが、この地域は、戦後の昭和30年代後半までは、水平線まで田圃・畑の農耕地で、工業・商業用地は殆ど無く、殺風景な光景が広がっていました。 ただ、空港の周辺部のみに点々と鉄筋コンクリートの構造物が配置されたまま放置され、昭和40年代に至るまで残ったままでした。
その空港、現八尾空港は、戦中には陸軍の戦闘機が配置され、空港周囲には、幾重にも高射砲陣地が構築されて、戦闘機を収納する半円型の掩体壕も点々と構築され、生駒山にまで高射砲陣地の構造物が配置されていました。 その上に要所には、陸軍の防空壕なり、巨大な掩体壕が建設されていました。 何かを収納すると言うよりも、司令部か兵舎かとも思われる巨大な掩体壕は、現在では近鉄バスの駐車場になっている程の広さの用地に埋設されていました。 幼児の頃に、友人と恐る恐る入ったことがありますが、迷路のような入口を抜けると、学校の講堂のような巨大な空間が出現しました。 一体、何のためにこのような驚く程の巨大な防空壕を建設したのか、と驚愕したことがあります。 付近に住む住民の防護では無いことは明らかでした。 付近の住民の方に訊いても何も知らなかったのですから。
或る意味では、戦時中には貴重な筈の鉄筋とコンクリートを潤沢に使った、それは、それは立派な構造物でした。 校舎の腐りきった根太に沸いたシロアリのせいで授業に支障が出た小学校の運動場近くにも、立派なコンクリートで出来た高射砲陣地がありましたし、
割れた窓ガラスだらけの中学校の運動場にも不釣り合いな立派なコンクリートで出来た高射砲陣地がありました。 勿論、飛行場には、半地下式の建造物があり、今でも残っています。
ただ、それとは不釣り合いに空港周辺の村々の中の道路や家屋周辺部の小道は、全て地道で、一度雨となると泥濘に化しました。 何しろコンクリート舗装の道路は、国道25号線のみで、後は、昭和30年代から徐々に舗装がされるまで、梅雨時期や台風時には、田圃との境界が分からないほどの泥道になったのですから。 子供心には、あるところにはあるコンクリートが、一番必要な道路に使われないのが不思議でした。 ですから、昭和30年代になり自宅の前の市道が舗装されると亡母から聞かされた時のことを今でも記憶しているほどです。 コンクリートになれば、もう雨の泥道を歩かずに済むのだ、と本当に嬉しかったのです。 水道の工事とガスの工事も嬉しいことでした。 これ等のライフ・ラインが整備されていない生活を現代の日本人は知らないでしょうが、ついこの間まで、それが普通の暮らしが大阪市近郊の都市でもあったのです。
この時代の我が家の集合写真は、涙無くして観ることが出来ません。 写真に写った我が身も両親も妹も痩せ細っているからです。 もっとも、小学校の生徒には、肥満体の子供は居ず、大人でも太った人は見ませんでした。 食事は、米に味噌汁と野菜の煮たもの程度で、魚肉は通常は無かったものです。 肉等は、何か月に一度程度、亡父が大阪市からの帰社時に買って帰るのみで、第一、肉を買おうにも、我が家のあった村には肉屋はありませんでした。
亡父は、戦時中は、歩兵第八連隊に所属していて中国中央部(中支)からフィリピンと転戦しましたが、幸いにも左脚貫通銃創を受けたのみで帰還しました。 でも、戦後に結核になりました。 一家の暮らしを支えるために会社を休むことが出来ず、業務についていましたが、そのために命を短くすることにもなりました。 亡父は戦前も戦後も戦争の犠牲になったと言えるかも知れません。
こんな日常を送っていた子供は、栄養状態が悪かったのでしょう。 私もよく病気で休みました。 また、小学校二年次には、友人をジフテリアで亡くしたこともあります。 学校からは、栄養補助に肝油ドロップの購入斡旋がありました。 給食は、小学校の高学年時から始まりましたが、満足なものでは無く、とても飲めない脱脂粉乳とヘドロ状のパン等は、食べられるものではありませんでした。 学校には内緒で、周辺のパン屋に走り菓子パンを買って食べたりしたものです。 小学校の教諭からも、酷い給食内容の日には、捨てても良い、と許可が出たりしたものです。 今日では、とても想像が出来ない豚の餌並みのものでした。 いくら予算が無かったと云え、よくもあんなものを子供に出したもの、と今でも恨みに思っているほどです。
今では、その時代の惨めな暮らしが嘘のようですが、戦後数十年が経過し戦争の後遺症が癒えたように思える時期が危険なのかも知れません。 戦争が過去になり戦後の時代を過ぎ高度経済成長を終えて、日本経済の衰退期にある現在では、今度は、戦争の代わりに過去の無尽蔵な国費の無駄使いを、悔いる時が来るのではないかと心配なのです。 国民が貧窮に陥り、過去の無駄使いで出来た用無しの巨大建造物を国内各所で観ながら、こんなものに使う国費があれば、近い将来の日本に残しておくことが何故出来なかったのかと、私が幼児期に巨大なコンクリート建造物を身近に観て思ったことと同じように不思議に思う人が出て来る時代が来るかも知れないな、と思う昨今です。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion4940 :140803〕
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