文学渉猟:誘惑する者とされる者の間の危険なゲーム
- 2014年 8月 4日
- カルチャー
- 合澤清
『危険な関係』上、下 ラクロ作 伊吹武彦訳(岩波文庫1998)
1.イントロダクション
ごく一般的な紹介から入ってみたい。この書簡体の小説は、一人の復讐に燃える悪魔的な女性(メルトイユ侯爵夫人)とその弟子と称する遊冶郎(ヴァルモン子爵)により、実に綿密に練り上げられ、実行された、二人の貞淑な女性(ツールヴェル法院長夫人とセシル・ヴォランジュ嬢)への誘惑と彼女たちが悪徳の世界へと引きずり込まれていく過程を克明に描いた物語である。
詩人ボードレールはこの作品を「『氷のように焼く』冷たさ」と評した。
これが書かれたのは大体1782年頃、かのフランス大革命の前夜に当たる。しかもこの小説を書いたラクロは軍人(砲兵士官)で、のちにはジャコバン党に入党。また最晩年にはナポレオンによってナポリ派遣軍の司令官にも任命されたことのある人物だ。ただし、彼は革命家としても、また軍人としてもこれという功績はなかった・・・。
この小説の題材は、ラクロが士官として一時滞在していたことのある、南仏グルノーブルの社交界から採られたといわれる。グルノーブルはまたスタンダールの生まれ故郷でもある。そしてスタンダールによれば、彼が子供の頃よくジャムを食べさせてくれた夫人こそが、他ならぬメルトイユ夫人のモデルであったという。
この小説は、当時の人々によって「悪徳小説」の典型として受け止められた。にもかかわらず、というよりも、だからこそかもしれないが、初刷りの2000部がたちまち売り切れ、増刷と共に、「偽書」までが多数出現する始末となる。多分に当時の上流貴族社会のスキャンダラスな話題への興味と穿鑿(今日の週刊誌的嗜好)に負うところが多いといわれる。なんとなく紫式部の『源氏物語』への往時の評判と似ているように思うのだがどうだろう。
面白いのは、嫁に行く娘にこの本を持たせて、このような悪徳に染まぬよう、その種の誘惑から身を守る指南書として読ませる風潮が一部にあったということだ。
ところが、20世紀になった頃からこの書への評価が一変してくる。アンドレ・ジイドは彼の「世界10大小説」中のフランスものとして、スタンダールの『パルムの僧院』とこの小説の2点を推挙しているし、サルトルやアンドレ・マルローら数多くの教養人たちがこの書を激賞している。劇場でも演じられ、映画(バディム監督1959、スティーブン・フリアー監督1988、ジョゼ・ダヤン監督2003、ホ・ジノ監督2012)にもなっている。現代になって何故このように評価されるようになったのであろうか?この点を詳しく論じようとすれば、それだけで一つの論文を書かなくてはならなくなりそうである。ここでは次の簡単な紹介だけにとどめたい。
専門家の指摘によれば、ジイドやサルトルやマルローの書いた作品の中にこの書の影響が考えられるという。例えば、ジイドの『背徳者』や『贋金つくり』、サルトルの『嘔吐』、アンドレ・マルローの『王道』や『人間の条件』などである。いずれの作品も、人間のある種の欲望、しかも今日の世界では「悪徳」「不道徳」のレッテルの下に抑え込まれた欲望を扱った作品であろう。彼らの意図がどこにあるのかをひとくくりで論ずるのは無理があるだろう。しかし仮に、ミシェル・フーコーまでも含めて考えるとすれば(そして、そういう考え方も決して無茶ではないように思うのだが)、この「抑圧」の背後にその時代の権力の影が見えてくるのである。反権力、社会的抑圧からの解放、というのがとりあえずの共通項のように思える。マルキ・ド・サドの復権なども同様に考えうる。
サドもこの作者ラクロと同様にその時代にあっては異端である。サドは非妥協的にその異端ぶりを貫き通す。ラクロは、この作品の最終場面で、あたかも神の裁きが下されたかのような結末をもって大団円とする。しかし、メルトイユやヴァルモンからは、ラスコーリニコフの様な反省の弁は一切聞かれない。この点は非常に興味深い。やはり、彼らが18世紀の啓蒙思想に連なっているからであろうか。彼らは「リベルタン」の系譜に入れられているが、「リベルタン」とは懐疑主義・批判主義・合理主義・反絶対主義・反教会権威主義的な考えを取る「アウトサイダー」的な存在を指すようである。
2.この小説の面白さはどこにあるのか?
しかしここでは、こういう社会思想史的な興味とは多少違う視角でこの小説の面白みを探って行きたいと思う。
この種の背徳もの、良家の子女の淪落小説などは通俗的な三文小説をも加えると掃いて捨てるほどあるはずである。にもかかわらず、この小説に多くの賛辞が集中しているのはなぜか?どこにこの小説の魅力があるのだろうか?
まず、読んでいて感心するのは、日時を追って交わされる書簡の内容が実に完璧に計算されつくしていて、一分の隙もないほどに論理的な整合性を持っていると思える点である。
と言っても最初から人為的に計算されつくしたやり取りが読めるというのではない。そうではなくて、読み手の側から見て、実に自然な推移でのやり取りが行われているように思える点が、逆に作者の巧みさ、上手な計算を忖度させるのである。
自然な推移とは、成り行きが自然に行われるという意味ではない。どこまでも偶然性を装いながら、しかもその中で悪魔的な誘惑の魂胆に最初から爪をといでいる誘惑者がいる。その誘惑者の計算と、誘惑されるものとの心理の葛藤が実に自然なタッチで描かれているということである。
スタンダールは有名な『恋愛論』の中で、「恋は自然に行われるときが一番純粋で美しい」というような意味のことを書いている。しかし、ここではそれとはまったく異なる。最初から仕掛けられた恋であり、不純な恋である。にもかかわらず、その経緯、その進行、交わされる手紙の内容などがあたかも自然なのだ。いわば「不自然な自然体」である。
この点に、この小説が「心理小説の最高傑作」と讃えられる所以があるように思う。
ところで、この書の中の誘惑者のように、相手の心理状態を完璧に把捉したうえで誘惑の罠が仕掛けられたとき、果たして誰が抵抗しえようか?しかもしばしば逼塞状態に陥るヴァルモンに対し、適切な助言を持って局面打開を指南する諸葛孔明のごとき戦術家のメルトイユ夫人が背後に控えているのだ。
戦術は相手との一対一での駆け引きであると同時に、周囲の情況をも完全に自己の術中に引き込み、全ての情勢を自己の駆け引きの契機にしてしまうことが巧みなほど優れている。まさに孫子の兵法で言う「敵を知り、己を知れば、百戦戦うとも危うからず」である。最高の戦術家は、あたかも「神の眼」を持つかの如く、すべてを洞察した上で仕掛けてくる。相手の感覚、感情、思考回路から立ち居振る舞いに至るまでの一切を手中に収めて楽しんでいるかのようである。抗ってみても無駄だ、そのことすら見透されている。
「どうか私の心を残らず打ち明けさせてくださいまし。私の心は貴方のものです。さすれば私の心を知っていただくのは当然です。」(上p.112)このヴァルモンの甘言がそれだ。
「私の心は貴女のもの」「私はすっかり貴女のもの、貴女なしには生きていけません」という甘い恋心の吐露に必然的に伴うのは、「それゆえ私の心を知っていただくのは当然だ」「だから貴女は私のもの」という弁証法的な主客転倒である。
「私のことはほっといて頂戴」という拒絶は、関係の断絶ではなく、「拒絶という関係」に他ならないのである。
この小説を読んでいると、しばしば次のような疑念がおきる。「これは既に恋しているということではないのだろうか?」また、「恋と遊び(偽りの恋)はどこが違っているのだろうか?」と。
3.名声(偽りの恋)か恋(真実の恋)か?
実際にこの小説の中で、メルトイユ侯爵夫人がその弟子を「あなたは本当に恋をしたんじゃなくって?」となじる場面が幾度かある。ここには虚偽と真実のぎりぎりのせめぎあいがある。そして両者の一体性(関係)の中で、かろうじて虚偽性の方に踏みとどまる意識(遊冶郎としての意識、名声への渇望)への自覚が促されている。
遊びのはずの恋が真実なものになる、ということは、よく聞く話である。精神科医と患者の例などが想起される。自覚を持って接しているはずの者(精神科医)が、いつの間にか無自覚の者(患者)との同一の世界を共有するようになるといった事態が起こりうる。取り調べの公安警察官が、ついにはその当の相手側に思想的な共鳴(シンパシー)を感じてしまうといったことが過去起こりえたのも同じ事情である。
こうならないためには繰り返し自己の役割(専門性、職務、立場など)が自覚され反省されねばならない。
しかし、ヴァルモンがメルトイユ侯爵夫人の喚起によって自己の役割を呼びさまされたとすれば、それは何によるのだろうか?―おそらく「畏れ」からではなかっただろうか。何に対する「畏れ」なのか?―パリの社交界で「プレイボーイ」としてその名を馳せたその名声を失い、メルトイユ侯爵夫人によって失格者の烙印を押されて嘲笑されることへの「畏れ」ではないかと推量している。
彼らの企みや遊びは、あくまで秘密裏に、陰湿に行われる点に喜びがある。身分が高く、気高く、ちょっとやそっとではなかなか相手をしてもらえない難攻不落の人を対象に選び、
口説き、悩ませ、泣かせ、散々もてあそんだ挙句に谷底に蹴落として破滅させる。しかもそのことは表には出ず、あくまで噂話として社交界でささやかれることを持って勝利の栄冠、無上の美酒とするのである。
このような社交界での裏の「名声」がその人の対外的な価値(つまり「表」)をなしている。「名声」を失うことはその人間にとっては社交界での「破滅」を意味している。ヴァルモンが何としても守りたかったのは、このような自己の「名声」である。これを失くしては社交界への自由な出入りは適わないのである。ここには勝者になるか、敗者に終わるかの文字通りの生命がけの戦いが繰り広げられている。審判するのは社交界という名の悪徳である。
翻って考えてみるに、この時代の上流貴族社会においてはそれほどまでに社交界が「すべて」であった。大革命時にその妃マリ=アントワネットと共に断頭台の露と消えたルイ16世も、とっくに財政的な破綻を迎えていたにもかかわらず、ついにはその大量の取り巻き連中(廷臣)を抱えることと、社交界政治とをやめようとはしなかったし、いやしくも特権階級に名を連ねる者たちは、社交界に出ることでのみ、自分の将来性や希望(すでに幻想でしかなかったにもかかわらず)にしがみつくことができたからである。名状しがたい社交界の腐敗、堕落もこのような旧体制(アンシャン・レジーム)の没落という時代背景からその一斑を読み解くことができよう。
先述したマルキ・ド・サドはこの著者ラクロの一歳年長にすぎない同世代人である。周知のごとく、彼は既成の権威、道徳などを一貫して否定しつくそうとした。そのため彼はどの体制からも受け入れられることなく、長い牢獄暮らしののち、シャラントンの精神病院でその生涯を終える。
サドが何を見ようとしたのか、このことはここでの主題ではない。しかし、少なくとも彼の描く猟奇的な世界は、ある意味で社交界という倒錯した現実を生み出した社会(虚偽が実在する社会)の思想的な反映ではなかったろうかと推測しうる。
4.誘惑する者とされる者の間の危険なゲーム
話を元に戻し、虚偽の恋と真実の恋について考えてみたい。
さて、この物語の場合、確かに動機は不純である。しかし、動機の不純さを持ってその恋は不純な恋(偽りの恋)であると言いたてることはできない。不純な動機から純粋な恋への移行も、またその反対への移行も、共にありうるからである。もしもこの世に、ただ一種類の恋しかなく、それは始まりから終わりまで純情一色で塗り固められたもの(例えば、ノヴァーリスの『青い花』のハインリッヒの神秘的な恋や、あの純情なシラノ・ド・ベルジュラックの片恋や、ロミオとジュリエットの一途な恋、など)だとすれば、そもそもモリエールがドン・ジュアンに語らせるような「恋」とは何であろうか?
ドン・ジュアン:…美しい女はみんな俺たちを虜にする権利があるんだ。最初に出会ったのを嵩にきて、他の女たちが男の心を捉えようとする無理からぬ望みを断ち切るって法があるものか。おれはな、美しい女を見たら最後、ぞっこん参ってしまう。女が男を引きつけるあの心地よい暴力の前には、手もなく丸められてしまうのだ。約束したって無駄な事さ。一人の女に惚れたからといって、なにも他の女に冷たくする義理合いはないではないか。おれの眼はいつだってどの女のいいところも見分けられるよ。造化の神の意のままに、めいめいに敬意と感謝とがささげられるのだ。いずれにせよ、おれは自分で可愛いと思うものに、つれない仕打ちは出来ぬのだ。…(『ドン・ジュアン―石像の宴』モリエール作 鈴木力衛訳(岩波文庫))
ファウストとグレートヒェンの恋は恋ではないのだろうか?お宮と貫一のそれは何と呼ぶべきだろうか?若いヴェルテルのロッテに寄せる恋心は、彼にとっては純情でも、彼女にとっては最初から不純でしかないのではないのか?・・・また、ミュッセが『戯れに恋はすまじ』で描く、目指す恋人をえようとして、その恋人の友人(第三者)に恋を仕掛ける(恋をしているふりをする)ことは、一方にとっては不純であるが、他方に対しては手段を選ばぬ純情一途といえるのではないか。
無気力、怠惰なオブローモフがオリガによせる変則的な愛は、あまりにも純情な愛と呼べないだろうか。同じく、意志薄弱なフレデリックがアルヌー夫人によせる煮え切れぬ愛(フローベール『感情教育』)は、それでもやはり純愛なのか?
この種の事例を挙げていけば、それこそ枚挙にいとまがないほど(たぶん小説の数ほど)あるだろう。
しかし、真実の恋とは何なのか?それは触れれば枯れる神秘な花にも似て、虚偽の闇に包まれ、そのかなたにひっそりとあるかもしれぬものにすぎないのだろうか?
現実には、「恋の駆け引き」という言葉すらもが頻繁に使われるのが恋の妙味であろう。一切の駆け引きなしの、ひたすら純情(粋)な恋とは「理想化された恋」であり、言い換えればロマン主義的な「空虚な抽象」(一途な思い込み)でしかない。それはなるほど「美しき魂」ではあるが、しかし概ね「不幸な意識」として終わらざるを得ないようである。それが夢、幻ではなく、現実の恋であるためには、それは現実界に実在していなければならない。が、現実化することで、その甘美な中身が喪失することもありうるだろう。
何故なら、恋の内実は現実の葛藤の中にその生命を持っているからだ。そして現実の葛藤とは、いずれにせよ「恋する者(追いかける者=能動者)と恋される者(追いかけられる者=受動者)の間の甘く危険なシーソーゲーム」に他ならない。
このことをもう少しこの物語に即して見てみよう。
ツールヴェル法院長夫人を自分のもの(恋人)にすることは、ヴァルモン子爵にとっては社交界での大変な箔になる(少なくとも彼はそう信じて疑わない)。相手はそれだけの価値(魅力)を持つ存在である。恋をしかける相手として十二分だ。しかし、相手は貞淑な夫人である。かたくなに身を守って全く寄り付けない。しかし、拒否されることで、自分の心の中により強く相手が印象付けられ、結びつけられる結果となる。難攻不落の対象であればある程、彼女を恋人に出来れば、「恋の勝利者」としての栄冠は大きなものとなるはずである。
即ちここでは、「恋の仕掛け人ヴァルモン」が能動者であり、「ツールヴェル法院長夫人」は受動者(被害者)であろう。貞淑で繊細なツールヴェル法院長夫人を虎視眈々と狙う、野獣のごとき悪徳の塊ヴァルモンという図式が、われわれ読者の中に定着する。そして、物語の展開と共にわれわれもドキドキ、ハラハラしながら、何とか彼女が無事で、この局面を切り抜けてほしいと願うことになる。勿論、無事には終わらないだろうという相反する気持ちを伴いながらではあるが。そして、このハラハラ、ドキドキはこの物語の醍醐味の一つでもあり、この後、長い緊張したやり取りが続く。
しかし、こう反省してみることができる。常識的には、確かに「恋の仕掛け人ヴァルモン」が能動者であり、「ツールヴェル法院長夫人」は受動者(被害者)であると考えられるかもしれない。だがもし、「ツールヴェル法院長夫人」にそれだけの魅力(価値)がなかったならば、放蕩児ヴァルモンといえど、いやむしろ、放蕩児ならなおさら、彼女を相手にしようとは思わなかったのではないだろうか。
このように考えてみると、最初の常識がぐらついてくる。実際には、ヴァルモンこそが受動者であり、ツールヴェル法院長夫人の方が能動者だったのではないだろうか。つまり、「ヴァルモンは、ツールヴェル法院長夫人を追いかけるべく、ツールヴェル法院長夫人(の魅力)によって仕向けられた」ことになる。
ここにも「弁証法的転倒」がある。「恋のシーソーゲーム」とはこのことを指している。このように役割を相互に転換させながら、両者は関係しているのである。
その際、拒絶が関係の断絶ではなく、拒絶という関係であることを思い出す必要がある。メルトイユ夫人はそこを完璧に透見した上で、助言する。そしてついにツールヴェル法院長夫人はヴァルモンの手に落ちる、と同時にヴァルモンは自分の当初の役割を思い出す。統一が再び対立へと転換する。
実はこの「恋のシーソーゲーム」は、ヴァルモンとツールヴェル法院長夫人との間に起こった外面的な主客転倒劇を指すだけにはとどまらない。実際には、両者の内部、彼らの自己意識の内部でもそれが起きているのである。そして、こちらの方が内面の葛藤であるだけに更に深刻なのだ。それはヴァルモンにとっては、「偽善と恋」の、またツールヴェル法院長夫人にとっては、「恐れと真実の愛」の命懸けの葛藤である。彼ら自身その内面において、絶えず能動(主)と受動(客)の転倒(シーソーゲーム)を繰り返し、煩悶しているのである。まさに「危険な」シーソーゲームなのだ。
ヴァルモンがともすれば本気になりそうになる度に、繰り返されるメルトイユ侯爵夫人の叱責は、そのことを物語っている。稀代のプレイボーイ、ヴァルモンすらも、自分で仕掛けた罠に自らはまりそうなぎりぎりの瀬戸際でのせめぎ合いという訳である。
5.危険なゲームの結末は…?
この物語の結末はこうなっている。
ヴァルモン子爵は、(セシルの婚約者だった)ダンスニー騎士との決闘に倒される。ツールヴェル法院長夫人は、死の病の床で、自らの軽薄さを悔やみ神にすがりながら息絶える。(ヴァルモンの歯牙に掛った哀れな少女)セシル・ヴォランジュは、再び修道院に送り返される。そしてメルトイユ侯爵夫人は、悪性の病に罹り、生まれもった美貌は失われ、誰からも見向きもされないまま生涯を終える。
こうしてみると、やはり悪徳の世界には神の裁きが正しく下されるものだと思いたくなる。
カタストローフによって、世間の美徳が救済されるということになれば、これは「悪徳のすすめ」ではなく、「勧善懲悪」の見本ではないか?マルキ・ド・サドの逆説的で、強烈な「時代批判」には遠く及ばないのではないか。こういう疑念が生まれる。
しかし、果たしてことはそう単純に片付け得るのだろうか。
先にも触れたように、この恋愛劇を通して最も深刻な葛藤は、たがいの相手とのやりとりの中で、実際には自己が二つに引き裂かれ、「真実の愛を取るべきか、あくまで嘘偽りを貫き通すか」(ヴァルモン)、また「世間の掟に従って潔白に生きるか、あるいは愛に身を任せるか」(ツールヴェル法院長夫人)、その間を魂が揺れ動き、相互に否定を繰り返し続ける内面的な苦悩にある。この内面的な苦闘の中で、実際に愛憎は昇華され、意識は「愛憎を超えた彼岸」へと高められる、これがこの物語の真髄ではないだろうか。
「愛憎を超えた彼岸」とは、何も宗教的な救済の場面のみ(例えば、ゲーテの『ファウスト』の最後の場面の様な)を想定しているのではない。それを通して見えてくるのは、サドが告発したのと同じ、爛れた嘘偽りの愛が実在する社会(倒錯した18世紀サロン社会と、それを支えるアンシャンレジーム)の根本的な批判であり、フランス革命に通じる精神である。
しかし、悲しいかな、ヴァルモンにはそこまで洞察しうる力がなく、簡単に「遊冶郎」に還ることで、「真実の恋」を失い、せっかく到達しえた新しい精神をも無意識の内に切り捨て、旧の木阿弥に帰したのである。
これら四人、それぞれの運命は、依然として旧体制の悪弊に弄ばれ、残酷な形で取り残された結果のものとして、著者ラクロによって告発されていると見ることができるだろう。
2014.7.31記
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