「情報公開=知る権利」目指して (資料:澤地久枝・奥平康弘、意見陳述書)
- 2010年 12月 1日
- 時代をみる
- 池田龍夫沖縄密約知る権利
「沖縄密約・文書開示」控訴審の攻防
「原告らは2009年3月16日、情報公開という船に乗り、錨をあげて帆を張って難航海に出た。目指す最終寄港地は、原告らそして私たち国民が理想とする民主主義社会である。そこでは、政府が国政について説明責任を果たすために、政府の保有する情報の公開が適時になされ、情報の自由な流れが保障され、国民の知る権利が過不足なく満たされている。外交の冷徹なリアリズム、過去の政権の意思決定、政府の政策の立案・実施における過ちが引き起こした歴史のゆがみ。情報公開開示請求=知る権利は、これらに光を当て、国民自身が政府の政策を検証・評価し、歴史のゆがみの原因を発見することによって、過去の誤った政策を正道に戻す政治の民主的復元力を担保する。民主政の過程に極めて重要なこの権利が徹底的に傷つけられている本件(沖縄密約)において、その救済の道を開き、情報公開の羅針盤を正しくあわせるのは裁判所をおいてほかにない。民主主義社会の道標を指し示す裁判所の判断を心から期待している」。――沖縄密約・文書開示訴訟一審第5回口頭弁論(東京地裁2010年2月16日=杉原則彦裁判長)に提出された「原告最終弁論」締め括りの文章は、格調高く情報公開制度の意義を強調した。ここで結審となり、杉原裁判長は4月9日「原告が求めた一連の行政文書を開示せよ」と〝原告全面勝訴〟の歴史的判決を下した。
国側は「無いものは無い」と強弁
ところが、民主党政権になっても、被告・国側は「文書不存在」の主張に固執して控訴。10月26日、東京高裁(青柳馨裁判長)で第1回口頭弁論が開かれた。西山太吉・元毎日新聞記者らが開示請求したのは、沖縄返還に伴って米国が支払うべき軍用地復元補償費(400万㌦)などを日本側が肩代わりする〝密約〟を示す公文書。一審で敗訴した国側は「08年10月時点で文書は発見できず、民主党政権下でも、文書を保有していないことを確認した。文書が残っていると判断した一審の判決は誤りだ」と強弁し、原告請求を退けるよう求めた。これに対して、原告側は「日本の外交政策にかかわる、極めて重要な文書なのに、国は『無いものは無い』という形式論を繰り返すばかりで、合理的な説明を全くしていない。国は控訴を取り下げて密約の存在を認めるべきだ」と反論。審理は45分で閉廷、次の口頭弁論(1月27日)に持ち越された。
「4月の原告全面勝訴の一審判決後に出た外務省の有識者委員会報告書を提出し、国は改めて文書は存在しないと主張した。『無いものは出せない』という開き直りである。控訴審では報告書への評価と関連し、外務省が文書を十二分に探したのか、廃棄当時は誰が意思決定をし、最重要文書がどう消えたのかが究明されるべきだ。外務省は歴代事務次官など、文書廃棄の実態を知る可能性がある幹部の聞き取り調査も尽くしていない。報告書の信頼性には疑問符が付く。審理では、密約の存在を覆い隠すいびつな文書管理の系譜とその責任に光を当て、沖縄の基地過重負担の源流が国民不在の密約外交にあることをただしてもらいたい。原告が開示を求めている三文書は、すべて米国の公文書館で開示され、存在は明らかにされている。
密約の存在を否定し続けた揚げ句、外務省は、有識者委の調査で原状回復費の裏負担を『広義の密約』と渋々認定せざるを得なかった。その不誠実さが問われている。岡田克也外相(当時)が6月に公表した報告書は『東京地裁は、(外務省の)徹底調査の結果に触れず、文書を保有していると推認した』と一審判決を批判した。筋違いも甚だしい。1月に結審した後、国は弁論再開を申し立て、報告書を提出すれば事足りたはずだ。
それを怠った経過を無視して、一審判決が調査を軽視したような印象を与え、その価値をおとしめようとしている。姑息極まりないやり方だ。第1回弁論で、原告の澤地久枝さん(作家)は国の控訴を批判し、『戦後65年、今なお解決できない沖縄の米軍基地問題の実情がどこから始まったのか』『沖縄返還の真の記録がないのは恐るべきことだ。関係官庁幹部の無責任さが露呈している』と核心を突いた。国の情報は主権者のものだ。訴訟は沖縄返還の史実を通し、民主主義の成熟度をも問い掛けている」と、琉球新報10・29社説が指摘している通り、「国の情報管理のズサンさ」を露呈した感が深い。
北海道新聞や沖縄県紙の確かな視点
全国紙(10・27朝刊)の控訴審報道は、第3社会面に20~30行程度の雑報扱いで、〝重要な行政訴訟〟との認識が欠落していた。裁判員裁判、検察審査会報道などと比較して、その落差が甚だしかったと思う。一方、吉野文六・元外務省アメリカ局長から「沖縄密約証言」をスクープした北海道新聞(第3社会面)は、本文40行に74行のコメントを付記して、「密約訴訟」の意義を詳報した。
「争点は、密約文書の有無。『調べたが無かった』という国と、『いつ誰がなぜなくしたか説明もせず〝なくした〟では済まない』という原告の対立は明快だ。原告が、米国立公文書館で見つけた密約文書を示すと『それは交渉途中のもの。最終合意ではない』とかわし、だが最終合意が何かは言わない。原告の小町谷育子弁護士は『密約を否定してきた自民党政権と同じ言い方だ』と批判した。民主党の岡田克也外相(当時)は昨年の政権交代直後、有識者委員会に四つの密約の解明を依頼。委員会は沖縄密約を含む三つを密約、一つを密約でないとする報告をまとめた。だが、岡田外相は『歴史には多様な意見があり外務省として密約の有無の公式見解は出さない』と表明。同省は、今も公式見解はないという。…10月26日、原告側には密約解明が後退することへの危惧が広がった。『政権交代でチャンスだったのに、米国との関係で清算できないのだろう』(桂敬一氏)。西山太吉氏は「密約をはっきりさせず、一体どんな外交ができるのか」と喝破した」と、問題の本質を衝いた同紙の一部を紹介させてもらった。このほか、琉球新報(社会面3段)沖縄タイムス(同)をはじめ主要県紙の扱い方に〝軍配〟を挙げたい。
山形新聞・河北新報などは「『沖縄密約』と国民の知る権利」をテーマに、山形市で開いた西山氏講演会を報じていた(11・4朝刊)。西山氏が「沖縄密約こそが、米軍駐留経費『思いやり予算』を日本が負担する原点となったと指摘し『日本ほど米軍にとって条件のいい国はない。経費負担の増額すら要求されている』と説明。『知る権利が日本では十分行使されてこなかったことが密約を結ぶ秘密外交を許した。主権者である国民が外交問題にもっと興味を持たなくてはいけない』と強調した」との記事もまた核心を衝くもので、中央から離れた県紙のニュース感覚を称賛したい。
国民主権の理念に基づく「情報公開法」
「情報公開法」は1999年5月14日公布、2001年4月から施行された。第1条に「この法律は、国民主権の理念にのっとり、行政文書の開示を請求する権利につき定めること等により、行政機関の保有する情報の一層の公開を図り、もって政府の有するその諸活動を国民に説明する責務が全うされようにするとともに、国民の的確な理解と批判の下にある公正で民主的な行政の推進に資することを目的とする」と規定されている。
ところが、01年前後に外交文書が(例年に比べ)大量に廃棄されていたことが発覚、「沖縄密約文書」の多くも処分されたと思われる。東郷和彦・元外務省条約局長が、国会・参考人として「局長時代に作成した『赤ファイル(密約文書)』を後任局長に引き継いだが、喪失していた」と述べたが、「疑惑文書の廃棄」を組織ぐるみで行っていたことを裏づける証言と感じた。2000年の米公文書公開で「密約文書」が発掘されたあと、「吉野証言」(06年)などが続き、「日本政府の『密約は無かった』」との弁明が破綻したと思えるのに、今回の控訴審で国側は「文書不存在」を盾に、なお逃げ切ろうとしている。控訴審の青柳裁判長が今後、一審の「杉原判決」を受けてどのような覚悟で訴訟指揮に当たるか注目される。刑事事件などと違って難しいテーマだが、民主主義政治の要諦である「情報公開=知る権利」を確保するため極めて重大な裁判との認識を国民が共有して、「開かれた政治」を目指したい。
(初出:財団法人新聞通信調査会「新聞通信調査会報」2010 年12月号「プレスウォッチング」より許可を得て転載――編集部)
参考資料
10月26日の控訴審で原告・澤地久枝、奥平康弘両氏の意見陳述は次の通り。
沖縄密約裁判のための意見陳述書
2010年10月26日
澤 地 久 枝
「沖縄密約文書開示請求訴訟」の原告の一人、澤地久枝です。被告国の控訴によって、被控訴人としてこの裁判に参加いたします。
私は、いわゆる「密約」裁判の第14回法廷(1973年8月4日)から傍聴に通い、『密約―外務省機密漏洩事件』を書きました。私の2冊目の著書です。国家公務員法違反で裁かれた西山太吉氏の相被告人である元外務事務官夫妻から、単行本とテレビドラマが名誉棄損で二度訴えられ、二度とも検察審査会は起訴が必要とは認めませんでした。
私は政府の沖縄返還対米交渉時の密約が、単に基地復原補償費400万ドルにとどまらぬ深刻な政治問題をはらむと考え、その本質をまんまとすりかえられたことへの不信と怒りからこの本を書いたと思います。
1998年4月からの2学年間、私は沖縄の琉球大学大学院のゼミを聴講しました。指導教官は我部政明教授です。先生の研究の主要テーマが「沖縄返還」であるとは知らず、当初、我部教授も私をよくご存じではなかったと思います。
ちょうど我部教授のアメリカでの調査が成果を得つつある時期で、私は早い時期に教授から秘密解除資料のコピーをいただくことになった次第です。偶然の出会いでした。
本年4月9日、東京地方裁判所(杉原則彦裁判長)の判決は、「密約」問題発生から三十余年、公けの答を得られず、責任者のあいつぐ死去に悶々としていた私に、はじめて納得のいく解明と回答をもたらすものでした。被告国の控訴は、事態の認識の浅さ、甘さ、そして関係官庁幹部の無責任さを露呈するものです。
不存在不開示で押しきろうという国の控訴の支えは、「沖縄密約」が過去のものではなく、現在につながっていることへの配慮以外には考えられません。
在日米軍駐留経費の日本側負担(思いやり予算)交渉で、米側は米軍住宅エコ化のための新設の「環境対策費の支払い」を確かなものにすべく、日米の特別協定への明記を求めているといいます(10月22日「朝日新聞」夕刊)。「どこまでつづくぬかるみぞ」になっています。
アメリカは沖縄を施政権下におき、第2次大戦後の戦争遂行基地としての沖縄に対する支出のほとんどを沖縄密約によって日本から回収したのです(詳細は我部教授の著書及び法廷陳述に譲ります)。
米軍は1945年3月下旬、沖縄の慶良間諸島など離島へ、4月1日、本島へ上陸、6月下旬に日本軍の組織的抵抗が終わるのを待たず、米軍は沖縄を基地として本州爆撃を行いました。沖縄の住民は、前年10月の本格的空襲で家を失い、艦砲射撃と地上戦闘の沖縄戦のなかで命を失い、傷つき、生きのこった人は、焦土を逃げまどったのち、米軍の収容所にまとめられ、以降、米軍は沖縄を自由に支配し利用し得たのです。
その日以来の沖縄の米軍基地であり、アメリカの一部軍人や保守派の人たちにとって沖縄は第二次世界大戦の「戦利品」でした。
沖縄返還が日米交渉の課題となったとき、返還の必要を認めぬアメリカ国内の世論があり、日米の経済摩擦をからめて、既得権の不変更、1ドルでも多く日本に支出させることがアメリカの基本姿勢であったことは、多くの資料によってあきらかです。
1972年に沖縄返還を(核抜き本土並みで)と佐藤栄作首相がタイムリミットを設けたことは、米国政府にとってきわめて好都合でした。重大な外交交渉にこちらから期限を設けることなど、ふつう考えられません。最長不倒といわれた佐藤内閣には5選というつぎの内閣組閣の道はなく、1972年末は、「沖縄返還をわが手で実現」という総理大臣佐藤栄作氏のタイムリミットだったわけです。
被控訴人訴訟代理人による「答弁書」に委曲がつくされています。国が認めようとしない「密約」の内容は、米公文書館の秘密解除公文書、キーパーソンである元アメリカ局長吉野文六氏の証言その他によって、はっきりしています。
アメリカがどんなに強引に主張を通したか、彼らの主な言い分、口実は、“米国で議会で認められない”といういかにも「民主国家」らしいものでした。日本側はこの不合理な要求を拒もうとし、結局、押しきられてゆきます。
自主性のある民主主義の国であるならば、国は返還交渉の実態を具体的かつ詳細に記録する義務がありました。しかし、私たちの請求に対し、肝腎の文書はないというのです。沖縄返還の真の記録がないとはおそるべきことです。
戦後65年たって、いまなお解決できない沖縄の米軍基地、基地存続費用の75パーセントをわれわれの税金で支払っている実状がどこからはじまったのか。日本の現代史、特に戦後史を知るために欠くことのできない戦後最大の事案が「沖縄返還条約」であったと考えます。
佐藤内閣以来現在の菅内閣まで、政府は「密約」を認めていません。外務省も財務省も、文書の捜索をおこなったがなかったといいます。しかし、口頭のやりとりで終始、メモもなしといわれた沖縄返還交渉の経緯を示す多数の行政文書はあり、「密約」を裏付ける文書は不自然に欠落している。私たちはアメリカの公開公文書によって、ないといわれる文書の内容をすでに知っています。外交交渉の一方にある公文書がなぜ相手方である日本側に「不存在」なのか。
「不存在」はイコール「不開示」、つまり、「密約」を封印し続ける理由として「存続しない」と国は主張し、控訴しました。控訴して、この大きな政治課題をどこに着地させようとしているのか、今後の日米関係の行方を左右する「密約封印」の責任はどこへゆくのでしょうか。
1998年から1年間、外務省条約局長をつとめた東郷和彦氏の発言(衆議院外務委員会会議録)に、5つの赤い色の箱型ファイルのことがあります。前任者からひきついだ資料に条約局長室で探し出した若干の資料を加え、年代順に「日米安保関連資料」58点を納めたもの。最重要資料16点に二重丸をつけ、リスト4頁を作り、政策的評価意見3頁をつけて二部作成。一部を後任の谷内(やち)条約局長にひきつぎ、もう一部は封筒に封をして藤崎北米米局長に送付。
今回の訴訟をめぐって外務省の調査によって公表された文書には、最重要資料のうち8点がふくまれず、その行方がわかっていないといいます。
谷内氏への聴きとりによれば、赤ファイル等についての記憶は全くなく、引きつぎメモを見たこともない。
藤崎氏は「はっきりした記憶はない」「ただなかった」と言うつもりはないと語っているそうです。
官庁の公文書の扱いがいかに杜撰であるかを語っていますが、一方、この杜撰さの実績によりかかって不存在を押し通し、責任をまぬかれようとする今回の控訴ではないかと疑いたくなります。
沖縄返還文書の欠落について、もっと真剣なとりくみをしてほしいし、西山太吉氏が新著『機密を開示せよ』に書いておられるように「不存在」なら「かつて取得した文書を正式に追認すべき」なのです。なにもないと言うのなら、アメリカ公文書を援用する道があります。
なんのための控訴であるのか。
日米安保条約は永久不変ではなく、一年の時間の猶予をへて改変できることが明記されています。在日米軍基地の永久化など、日米双方にとって時代錯誤であり、私は自国の利益を守るためにその改変を求める者です。
歴史は事実の検証の上に立つときはじめて歴史となります。1941年12月8日の対英米開戦以来、とぎれることのない日米関係、やがて70年になろうとする「日米戦争」を終わらせ、新しい日米関係へ向かって話し合いをするべきときです。
「密約」文書開示請求につらなった私の執着、「密約」解明の意義の深さはここにあります。4月9日、東京地裁で判決を聞いたとき、ここから日本の民主主義は第一歩を踏み出すのだと痛感しました。
佐藤栄作氏の密使であった若泉敬氏が、生前非常な不安を感じ、佐藤氏に確認、始末したとこともなげにいわれたニクソン大統領との秘密文書は、所在不明のままでした。しかし、佐藤氏の次男の私邸でみつかり、若泉氏の心覚えのメモと文面も一致しました。
沖縄返還条約の内実に苦しみ、若泉氏は自殺したと伝えられます。若泉氏が命をかけた極秘文書が、個人宅に保存されていたのです。政治家及び外務省の立入り不能の聖域があったといえるのではないですか。聖域は、過去の亡霊以下のものです。この国が民主主義国であることを主権者に納得させ、将来に向かっていかに生きてゆくかを考える鍵が「密約文書開示」の請求でした。完全敗訴の国が、控訴審にもちこんだことに心から異議の申し立てをし、私の陳述を終わります。
以上
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沖縄密約裁判のための意見陳述書
2010年10月26日
奥 平 康 弘
70年代前半、私はそのころ日本ではまだ未知の法分野である行政機関保有情報法に興味を持ちはじめ、主としてアメリカ合衆国の法制を対象にして勉強していた。丁度そのころ国家秘密漏洩そそのかし罪容疑で西山太吉氏が刑事訴訟の場にさらされていた。この事件は刑事制裁という消極的・抑圧的な情報統制が問題であったが、私はこれをきっかけに国家情報のあり方を、積極的・給付請求的な方向から考究してみようと思ったのである。
いろんな意味で日本よりも格別と進んでいると思われる合衆国のこの法領域は、制度だけではなく、それを動かす民主主義的理念の点でも、私にはたいへん魅力的であった。けれども70年代の終りからその合衆国でも、この分野にある種の翳りがうかがえることになった。「情報の自由に関する法律」(FOIA・情報公開の根拠法)を、諸企業がライバルの保有する企業秘密を取得するための手段として活用するという、資本主義的な変容を蒙ったなど、その一例である。
他方、日本での情報公開立法化の普及という課題では――さすが地方公共団体レベルでの進展は無視できないが――中央政府での取り組みの遅れはひどいものであった。<公開法など作っても、官僚は自分たちに不都合な情報はすぐ廃棄してしまうのだからザル法になるよ>(と、本件訴訟の問題性を予見するような穿った批評)、<日本では議会主義が完備し活発であるから、公開法のような直接民主主義的な制度は不用かつ不適切だ>、<日本人は、情報開示請求権など行使しないよ。窓口作っても開店休業になるだけだ>。その他悪評嘖嘖であった。
せっかちな私は、80年代はじめこの法分野での勉強を放棄した。二度と戻って来ることなどあるまいと思っていた情報公開法ではあるが、本件訴訟提起は私に回帰を促した。詳しくは言わないが、エドワード・サイード『晩年のスタイル』(大橋洋一訳、岩波書店)の影響のもと、私の晩年の生き方の究明に関連する。
最近公刊された西山太吉氏の書物は『機密を開示せよ』と題されているが、私たちの訴訟は「機密(に関わる)行政文書を開示せよ」という請求を内容とする、公開法にもとづいて提起したものである。「機密」と「機密に関わる文書」とは同じではない。そして両者の違いが本件訴訟では重要な意味を持つ。それが本件をむずかしくさせる。
外務省・財務省とその親分たる日本政府は、沖縄返還着手時から現在に至るまで首尾一貫して日米間にきわめて問題の大きい各種の「密約」が介在しているという事実を否認しつづけている。政府は「国の最高機関」(憲法41条)たる国会の討議においてさえも、「密約」は無いと断言して、いまなおゆずるところがない。その政府機関たる外務省・財務省に私たちは、「密約」関係の「文書」開示を請求しているのである。両行政庁がたやすく応ずるはずがない――これが本件の基本的な構図であり、この点でわれわれはある種独特なハンディキャップを負わされている。
両行政庁はもっぱら文書の「不存在」を理由にして不開示処分を行い、本訴を維持してきている。しかし「不存在」は自然的事実としてそもそもはじめから在るわけではない。「密約」とは言え、両当事国を拘束する約束事はそれを定着させる「文書」の交換が無いわけにゆかないからである(読売新聞2009年12月22日夕刊で公表された核持ち込みに関する日米首脳『合意議事録』は、「不存在」という事実のフィクション性をわれわれに教えた。)
私たちが問題にする密約は、まさにそれが「秘密の契約(条約)」(広辞苑)であるがゆえにその内容に相応しく特殊な取り結ばれ方をして締結され、特別な仕方で文書化されたにちがいない。そしてなかんずく、特別な管理下に置かれたはずである。
そうした特別な文書管理下に置かれる状況がつづいた結果、その周辺は恰もサンクチュアリであるかのような様相が生じ、時を経るにしたがい何人も、いかなる責任も負わない無責任の体系が支配するようになっただろう。こうした傾向に一役買ったのは、日本官僚に顕著で普遍的な「公私混交」・奇妙な私事無干渉主義などマックス・ウェーバー流「官僚合理主義」の欠如があるだろう。(2010年3月19日、東郷和彦元条約局長は、局長時代密約関係重要文書を赤、青、黒の色分けした箱形ファイルに分類したむね衆議院外務委員会で発言し注目された。しかしこの整理ファイルは、今では跡形も無いそうである。「外交文書の欠落問題に関する調査委員会調査報告書」2010年6月4日。文書管理体系の驚くべきルーズを示して余りあるではなかろうか。)
しかるに両行政庁は、私たちの請求に係る文書は、不開示処分時において「不存在」であるという理由で素気無く処理し去り、訴訟でもその姿勢をくずそうとしていない。「不存在」ということは既述のように本件においては自然現象ではない。かつて「存在」したものが、控訴人の悪意で消去されたのか、合理的には説明できない不始末ゆえに行方不明になったのかなどなど、いずれにせよ行政庁側が責任を負うべき人為(・・)のなせる業である。行政責任の問題である。
このことに関連して私が想起するのは、いわゆる「横浜事件」再審裁判の初期のころ、裁判所は判決文をふくめ裁判に着手するための「文書」が「不存在」であるという理由をもってにべも無く再審請求を棄却したという歴史的事実である。敗戦とともに裁判所も含め、国家責任を問われる可能性のある「文書」をせっせと焼却したのは公知の事実である。日本国という国家にあっては、それにもかかわらずその機関はかくあるものとしての「文書不存在」を理由に、国家責任追及の手を封ずることができたのであった。
私が本件訴訟に加わったのは、ただ単に「文書」の存否に関心があったからではない。「密約」という国家の悪事を裁き、国家にその責任をとって欲しいからである。「不存在」とうそぶくだけでは、「不存在」の自己責任に応えたことにならないのである。
私のとらえ方は、公開法を超えたものがあると批判する向きがあるだろう。いま、こうした批判に十分に答えることができない。後日、あらためて文書をもって対応したい。
たしかに独特に「文書主義」を採る公開法の狭義の理解では、文書の存否の追求にだけとらわれ勝ちである。私はしかし、公開法に優越し、公開法を理論的・理念的に支えている憲法にもとづいて構成される「知る権利」に依拠して、公開法の文書主義的な限界を克服できると考える。狭義の「行政文書」(公開法2条2項本文)は、文書だけではなくて当該事項の周辺に期せずして出現する行政情報へと展開することを「知る権利」は認容していると私は解する。私は30有余年まえ、まだ公開法などを夢想する者がほとんど不存在であった時、日本国憲法にもとづいてしこしこと「知る権利」の構成に耽っていたことを思い出す。
以上
(文中のアンドダーラインは、原文ではルビ点。――編集部)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔eye1109:101201〕
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