東アジアと普遍主義の可能性*ソウル講演(2014.11.07.)/東アジアと普遍主義の可能性
- 2014年 11月 21日
- スタディルーム
- 子安宣邦
1 〈東アジア〉は自明か 本連続講座が掲げる「東アジア文明と普遍主義の可能性」という課題をあえて私の講演の主題として、自分なりの答えを出すことを試みた。この答えることの困難な問題を考えるにあたって、〈東アジア〉あるいは漢語でいう〈東亜〉とははたして自明な概念としてあるのかという問いをまず提起しておきたい。〈東亜〉とはわれわれがもともともっている自明な地域的概念であるかのように人は思っている。だが果たしてそうか。試みに手近にあるやや古い辞書を見てみよう。少なくとも1930年以前の辞書であれば、そこに「東亜」の語を見出すことはない。たとえば『字源』(簡野道明著、1923)を見れば、そこには「東夷」の語はあっても「東亜」の語はない。ただ「東洋」の語はあり、そこには「亜細亜大陸の東の方の称、即ち我邦及び支那の汎称=大東」という説明がある。これは漢学者にしては実にいい加減な説明である。「東洋」とは漢語で「東方の海洋」をいうのであり、簡野がいう「東洋」とは20世紀近代に「東亜」とともに成立するような概念であろう。戦後の諸橋の『大漢和辞典』(1957)は、「東亜」をごく簡単に「亜細亜の東部、極東」としている。また岩波の『広辞苑』(第1版、1955)は、「アジア州の東部、すなわち中国・日本・朝鮮などの諸国の汎称」と説明している。これらは『字源』の「東洋」概念をそのまま「東亜」概念にしているようである。しかしそれにしてもこれら戦後の辞書における「東亜」概念の説明は、あたかもこの語にまとわりついている〈日本帝国〉の記憶を振り棄てるかのようである。
私は「東亜」も「東洋」も、20世紀日本のこの地域、すなわちアジアの東部における〈帝国〉的成立と分かちがたい概念であると考えている。この〈東亜〉概念の成立の時期は、恐らく1920年代のことであろうと私は思っている。私が「東亜」概念の近代的成立について最初に語ったのは、2000年11月に成均館大学で開催された「東アジア学国際学術会議」の講演においてである[1]。私は「東亜」の概念は、もともと中華帝国の〈帝国〉的支配に遠近・強弱の違いをもちながらも包摂されている地域、すなわち実質的に「中国文化圏」とみなされる地域をその〈周縁〉から「東亜文化圏」ととらえ直すことから成立してくる概念ではないかといった。近代史における中国から日本へのこの地域における〈中心〉の移動が、日本に〈東亜〉概念を成立させたのだと私は見ている。「中国文化圏」は「東亜文化圏」となるのである。〈中心〉の移動とはその地域を包摂する〈帝国〉の移動である。やがて〈帝国〉日本が〈東亜共同体〉を提唱することになるのである。
〈東亜〉概念には〈帝国〉の記憶がつきまとっている。わわれがいま〈東アジア〉をいうとき、〈帝国〉の記憶から切れた、新しい〈東アジア〉がはたして見出されているのだろうか。
2 方法的概念としての〈東アジア〉
この世紀に入って間もない時期、2002年6月に台北の台湾大学で「東亜文化圏の形成と展開」という国際学術シンポジウムが開催された。中国はもとより東アジアの各国・各地域から多くの学者・研究者がこの会議に参加した。「東亜文化圏」というタイトル通りに、参加者はたしかに東アジアの各地から参集した人びとであった。だがそのタイトルにおける「東亜文化圏」とは「中国文化圏」にほかならないことをシンポの開催趣意書はいっていたのである。すなわち中国本土を中心として、韓国・日本・ベトナムなどを包括する東亜世界とは、中国文化を主要成分としていること、したがって「東亜文化圏」とは「中国文化圏」にほかならないと趣意書はいっているのである。「隋唐の中国統一は歴史を劃する意義をもっている。ここにはじめて中国文化圏が形成され、一元化された東亜世界が出現するのである」と趣意書は中国文化圏としての東亜世界の形成過程をいっている[2]。とするならば、もともと「中国文化圏」にほかならないものをなぜ「東亜文化圏」として、その「形成と展開」をめぐるシンポジウムを東アジアの各地から学者たちを台湾に集めて開こうとするのか。これは台湾を代理人とした「中国文化圏」再形成のための国際会議であるのではないか。
「東亜世界は中国文化をその実質的な主成分とする」とあの開催趣意書がいうように、〈東アジア〉をある実体をともなった概念とみるかぎり、「東亜文化圏」とは「中国文化圏」であり、それをせいぜい広域化していうにすぎないことになる。しかもこの広域的文化圏が〈中心ー周縁〉という関係構造をもつてとらえられるかぎり、この広域圏は中国の〈帝国〉的世界に重なってくる。そこから「中国文化圏」を実質とする「東亜文化圏」をいうことは、中国による東アジアの〈帝国〉的な文化的再統合の言説ではないのかという疑いが当然生じることになる。
私はこの「東亜文化圏の形成と展開」のシンポで〈東アジア〉を実体概念とするのではなく、方法的概念とすることを提案した。〈東アジア〉を実体的にとらえるかぎり、たとえ中国的中心の周縁に文化の多様体を見出しても、それらは文化的中心に対する周縁的多様体として、文化一元的〈帝国〉に包摂されざるをえない。この〈帝国〉における政治的、文化的支配の構造を〈一元的多様体〉と私は呼んでいる。〈東アジア〉を実体的な概念とするかぎり、この東方の世界に〈一元的多様体〉としての〈帝国〉的支配の構造は免れがたく存続し、あるいは再生してくると思われる。私はそれゆえ〈東アジア〉を実体的な概念とせずに方法的概念とすることを提起したのである。
〈東アジア〉を方法的概念にするということは、〈東アジア〉の脱〈帝国〉化の遂行を意味している。長い歴史を通じて〈中華帝国的世界〉としてその実質も、その範囲をも規定されてきた〈東亜〉から、そして近代の〈日本帝国〉によって帝国主義的に再構成された〈東亜〉から、その脱〈帝国〉的解体によって、新たな〈東アジア〉概念を導くことである。その〈東アジア〉概念とは、〈一元多様体〉的構造としての〈帝国〉的世界を超えた新たな〈東アジア〉的世界を指し示すものでなければならない。
3 「方法としてのアジア」再考
私が方法的概念として〈東アジア〉をいおうとするとき、私のこのとらえ方は当然、竹内好のいう「方法としてのアジア」を前提にしている。竹内と彼のいう「方法としてのアジア」については、すでに私は何度か論じている[3]。だがくりかえしだという譏りを承知の上で、あえてもう一度、竹内のいう「方法としてのアジア」を考えてみたい。日本のわれわれが〈アジア問題〉を考える際に、現在でもなお依拠しうる発言は竹内のそれだけだということは、戦後日本における〈アジア問題〉をめぐる思考の貧困をいうものでしかないだろう。私はなお竹内の発言の再考としてこの論を進めるしかない。
竹内がいう〈方法〉とは〈実体〉に対するものである。彼は1960年の講演でこういっている[4]。「東洋の力が西洋の生み出した普遍的な価値をより高めるために西洋を変革する、これが今の東対西という問題点になっている。・・・その巻き返す時に、自分の中に独自なものがなければならない。それは何かというと、おそらくそういうものが実体としてあるとは思わない。しかし方法としてはありうるのではないか。」(「方法としてのアジア」[5])。彼はここで「方法として」ということ以上に何もいっていない。しかも竹内は「方法として」をはっきりと「実体として」に対していっているのである。後に竹内はこの講演を彼の評論集[6]に収録するに当たってこの箇所に補筆している。すなわち「方法としては」の後に「つまり主体形成の過程としては」という言葉を補っている。
だがこの補正によって「方法として」の意味はより鮮明にされたというよりは、むしろ誤読を読み手に生じさせることになったように私には思われる。竹内の言説の積極的な読み手たちは、この補正によって竹内の発言を、アジア的変革を担う民族的主体の形成を通じてのヨーロッパ近代とその〈普遍的価値〉の練り直し的再生をいうものと解するならば、それは竹内が「方法としてのアジア」といったことと微妙に違う、新たな価値的な〈実体としてのアジア〉の形成をいうことになってしまうだろう。すなわちアジア的主体による近代ヨーロッパの超克の方式になってしまうだろう。そうなると竹内の「方法としてのアジア」とは、欧米的〈普遍的価値〉に対して「社会主義的核心的価値」[7]をいう現代中国の党=国家的戦略と同じものになってしまう。これはまさしく日本の中国学者溝口雄三がいう「方法としての中国」である。
溝口もまた竹内の「方法としてアジア」にならって「方法としての中国」をいった。だが溝口の「方法としての中国」とは、世界認識、歴史認識の基準としてのヨーロッパ的世界史を読み直す方法としての中国的近代の独自性の認識を意味している。したがって溝口の〈(認識)方法としての中国〉は〈実体〉としての独自的近代化(現代化)を遂げる〈中国〉、すなわち〈社会主義中国〉を読み出すことになってしまうのである。それゆえ私は竹内のテーゼへの民族的主体の読み入れと、溝口のいう「方法としての中国」とはは同じだというのである。
竹内がいう「方法としてのアジア」とは、ヨーロッパ近代が生み出しながら、その輝きを失わせてしまっている〈普遍的価値〉をアジアによって包みかえし、その輝きを再びとりもどすことはアジアにできるのではないか、そのアジアとは〈方法として〉のアジアだということである。ここで確認しておかねばならないのは、竹内の「方法としてのアジア」論に前提されている歴史認識である。すなわち、アジアは近代の〈普遍的価値〉を共有する世界史的過程に、1840年以降、軍事力による強制という仕方によったにせよ、参入したという歴史認識である。だがアジアのこの世界史への参入の過程はアジアにとっては従属化、あるいは植民地化という〈負〉の歴史過程であった。アジアにとって〈負〉の歴史過程である世界史の過程は、ヨーロッパの生み出した自由・人権・平等といった〈普遍的価値〉を泥まみれにさせていった過程だと竹内はいうのである。その失われた輝きをもう一度輝かせることができるとすれば、それは〈負〉の過程を余儀なくされた〈アジア〉によってだと彼はいうのである。だがそのアジアとは〈実体〉としてではない、〈方法〉としてだと竹内はいうのである。すなわち、アジアがヨーロッパへの対抗的な〈価値的実体〉として独自的な〈アジア〉を再構成することによってではないというのである。〈負〉の歴史過程をたどることを余儀なくされたアジアが、そのアジアであることによって、輝きを失った〈人類的価値〉をもう一度輝かせること、そのことによって世界史の上に普遍的アジアの刻印をおすことができるアジアになることである。私はここで具体的に〈日本〉について語ろう。
19世紀後半に同じく西洋の軍事的強制によって近代化過程に入った日本は、20世紀に入ると先進帝国主義国家と同列の位置を獲得していった。しかし竹内が「ドレイ的日本」と侮蔑の言葉でいったこの近代日本は、アジアにおける加害者になることで近代化の〈負〉の帰結を見出さざるをえなかったのである。戦後日本はこの歴史的な〈負〉の遺産を自ら負うことで再出発したはずである。非軍事的な平和主義的国家日本であることは、歴史的な〈負〉の遺産を負いながら日本が、世界史にプラスの価値印しを捺しうる日本になる唯一の道であった。だがこの世紀に入って新自由主義的な構造改革を唱える歴史修正主義者小泉による政権が成立し、さらにその後継者である正真正銘の歴史修正主義者安倍による政権が成立して、この戦後日本の戦争責任を自覚したものの道のあからさまな変更が告げられ、その変更が遂げられようとしている。彼らが歴史修正主義者であるのは、近代日本がアジアの加害者となることで歴史に残した〈負〉の遺産を負うことを拒否することにある。だがこのことをいいながら私がここで強調したいのは、この歴史修正主義的政権をもちながらも、現代日本の市民は実に粘り強く戦後日本の平和主義的な国家原則を抵抗的に持ち続けているということである。日本の市民たちにおけるこの原則の抵抗的な保持が、自民党政権によるあからさまな軍事的国家への改憲的変更の企図を挫折させているのである。これこそが歴史における〈負〉の遺産を自己責任的に負いながら日本がそのような日本であることを通じて〈人類的価値〉につながっていく唯一の道、すなわち〈方法として〉の〈日本〉であることであろう。
〈方法としてのアジア〉についてもう一ついうべきことは、その〈アジア〉とは〈実体的アジア〉を対抗的に構想し、構成することを否定していることである。既成の〈東アジア〉あるいは〈東亜〉という語には、すでにいうように新旧の〈帝国〉の記憶が刻みつけられている。〈実体としてのアジア〉は、この〈帝国〉の記憶と離れがたいものとしてある。だからこそ竹内は〈実体〉としてのアジアをいうことを斥けて、〈方法〉としてのアジアをいおうとするのである。私はそこに竹内における〈帝国〉の脱構築的志向を読むのである。〈帝国〉とは〈中心ー周縁〉的関係をもって構成される政治的、文化的な広域支配の体系である。この〈帝国〉は広大ではあるが一元的に包括された多様体的な体系としてある。これを〈一元的多様体〉と私は呼んだ。脱〈帝国〉的志向をもつ〈方法としてのアジア〉が、それゆえ〈アジア〉として見出すのは開放系としての〈多元的世界=アジア〉である。竹内がいう〈方法としてのアジア〉とは、〈アジア〉が〈アジア〉であることによって〈普遍的価値〉を高めていく道であった。そして竹内の〈方法としてのアジア〉が指示するのは〈多元的なアジア〉であるならば、〈方法としてのアジア〉とは、アジアの多元的な世界が、その多元性を通じて人類の普遍的価値を充実させ、輝かしていく道であるということができるだろう。
私たちが〈東アジア〉をいうことは一元的〈帝国〉の仮装であってはならない。したがって〈東アジア儒教〉をいうことは、一元的な〈帝国的儒教〉の仮装であってはならないのである。〈東アジア儒教〉をいうことは東アジアの〈多元的儒教世界〉を開いていくことでなければならない。私は徳川儒教がコピーでも、まがい物でもないことを知っている。私は徳川儒教の豊穣な成果の認識を通じて、これを成立せしめた朱子学の普遍的意味を再発見している。と同時にこの朱子学の脱構築を通じて仁斎古学が再発見する『論語』の孔子の世界に、彼の原初的な人間への問いがもつ人類的な意味を私は再発見している。
「東アジアと普遍主義の可能性」という課題へのいまできる私の回答は以上の通りである。
[1] ソウルにおけるこの会議とそこでの私の講演については、「昭和日本と「東亜」の概念」(『「アジア」はどう語られてきたか』所収、藤原書店、2003)に詳しく書いている。
[2] 国際学術シンポ「東亜文化圏の形成と展開」の開催趣意書を含めて、この会議がもつ問題やその会議における私の発言については、私の「「東亜」概念と儒学」(前掲『「アジア」はどう語られてきたか』所収)を参照されたい。
[3] 子安『「近代の超克」とは何か』(青土社、2008)、『日本人は中国をどう語ってきたか』(青土社、2012)など。
[4] 「方法としてのアジア」は1960年1月に国際基督教大学アジア文化研究委員会でなされた講演である。
[5] 『思想史の対象と方法』所収、武田清子編、創元社、1961、引用文中の傍点は子安。
[6] 『日本とアジア』竹内好評論集・第3巻、筑摩書房、1966。
[本講は韓国学術研究院(KARC)の招聘による「東アジア問題」をめぐる講演の原稿である。講演は14年11月7日になされた。]
[7] 現代中国では「富強・民主・文明・和諧・自由・平等・公正・法治・愛国・敬業・誠信・友善」の12の語が「社会主義核心的価値」としていたるところに宣伝的に掲示されているという。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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