常用漢字表改定告示への感想
- 2010年 12月 2日
- 評論・紹介・意見
- 常用漢字表改定海の大人
11月30日、常用漢字表が29年ぶりに改定された。世間は、ウィキリークスの25万点に及ぶ資料による権力情報の流失に固唾をのんでいるのだろうが、如何せん量が多すぎる、今少し時間がたたないと、しかも、日本権力の情報流失、各国の進めている情報公開と連動した分析が進まないと、権力の賞味期限切れの議論にしか為らなくて、時代の変化を丁寧に読む議論にはならないので、私は、今少し発言を慎みたい。
だから、常用漢字表の改定の問題なのだが、概要は、過去の漢字表と比べると196文字を追加し、5字を外し、読み方については変更、追加、削除が32文字、付表に追加された語が7語という物である。細かい話で、「淫」の字はどう教えるのだろうかとか、「碍」の字はなぜ採用されなかったのだろうかという疑問とか、常用漢字表から外された文字5字の理由はまともな検討と謂うよりイデオロギー的判断だろうとか、謂う詮索はここではしない。
一つはこの改訂を契機として、「書け無くとも読めればよい」という教育が加速しそうだと謂うこと、二つは常用漢字=国の関与する国語政策が後退し混乱した日本語使用が増えるだろうと謂うこと、三つは国際言語統一についてのアイデアが日本からは極めて出にくくなるだろうと謂うことについて、簡単に感想を述べて起きたい。
一つ目のことは、学校や社会で使う目安として「読んだり、書けたりしようよ」という目安としての常用漢字が増えたのは、明らかに、ワープロ以降の人々が器械変換に頼って、しかも自筆の文字を書かないという風潮に阿って出された安易な使用文字拡大の権力による追認である。自筆の文字を書かない風潮を追認した以上教育現場で、「自筆作文」や「文字書き取り」が強化されることはないだろう。悪筆が増え、正式文書は印刷文字で書いて下さいなどという転倒した風潮は拡大するだろう。すると、「判子」や「サイン」が文章文字以上に重みを増すという漫画が拡大する訳だ。漢字が増えても文字を読む負担は恐らく増えないのだ。文明が進んで文化的教養が解体する訳だ。
大学の教員ぐらいになると、それを追認せざるを得ない現実がすでにあると聞く。字を読めることと字を書けることの乖離は、いつもあることだが、その拡大が良いことだという人はいないはずなのだ。
二つ目のことは、その帰結としての、「国語を基礎とした国民統合の危機の拡大」と謂って良いだろう。パソコンや携帯電話、スマートフォンに頼って文字を書き続けた帰結は、すでに悪筆の拡大、絵文字の氾濫に止まらない。人生の一大事と考えられる遺書ですら偽造され、犯罪を助長し、他面では、長文を読む習慣を解体し、相手によっては不快な絵文字によって意思疎通を困難にしている。「メディアリテラシーの格差」を現実にもたらし、価値観の分裂、所得格差の固定化をもたらし、世代間の分裂をもたらしている。漢字で書けば、たいがい意味が通じることをカタカナや外国語表記を多用することで、わざと人々の間に意思疎通の断裂をもたらしている。一見、漢字を増やすかに見えて、実は情報化時代に合わせると称した「漢字を書かないでも良い=文字を自書しなくて良い」改訂は、よほど、その精神において、「文字を書かせないと国民文化の解体」をもたらしかねないのだ。
IT教育、英語教育の低年齢化とこれは軌を一にした動きである。もっと露骨に謂えば、国民教育ではなく、「国際競争力を持った労働力教育」の一環である。万葉文字の時代から、漢字は「意味文字」と「音声文字」として使われてきた。それが仮名文字を生んだのである。漢字を増やすかに見せて、文化的伝統をまともに検討することなく壊すかの如き改訂は警戒心を持ってこそ見守るべきである。
三つ目のことは、国際統一言語のことである。言語が、部族や「民族」、「国民」にとって大きな問題として、ある時代から計画的に作られてきたことは、今日の研究で了解できることである。これを、国際統一言語として作ろうとして挫折した例としては、エスペラントが記憶に新しい。今は、「英語」による国際統一言語化策動が執拗に続けられていることは、ウィキリークで出てくるだろうなどと予想しなくても常識と謂って良いことだろう。マルクス主義者はこれを民族問題として、階級問題より難しい問題として逃げたが、実は、音声言語と文字言語の問題、文字言語の中における表意文字体系と表音文字体系の問題に踏み込んでいないだけのことに過ぎない。
国際統一言語は、ゲバルトによって形成されるだろう、と言う事は間違いないだろうが、それでも国際統一言語になりやすい物と為りにくい物はあるのだ。英語による国際統一言語の形成などと謂うのは、恐らく相当に筋の悪い構想である。「表音文字を使うと謂うことは世界大の事象にすべて口舌の違う言語を発明し、訛りを統一し、覚えなければならない」と謂うことである。本気でやろうとしたら、全世界の人に「方言札と鞭」を持ってしなければ為らないのだ。
漢字に代表される表意文字は全く違う。音声言語の統一は目指さないのだ。文字言語の統一だけを目指すのだ。表意文字は元来が呪文字、即ち、無声文字だ。訓だけが問題なのであって、読みは方言読みでよいのだ。しかも、文明の中心地、中華中原の孤立語[n1] に対して、すでに辺境の膠着語圏・日本ですら「漢文読み下し法」を確立済みなのだ。朝鮮半島を屈折語圏と言いきるのは躊躇いがあるが、「漢文読み下し法」は確立して居るではないか。全世界が、漢字による統一言語文化を形成しうる可能性が、表音文字による国際言語の形成より、ずっと穏やかに進みうる可能性を言語本来の性質として持っていると謂うことだ。
こんな事は、漢文を習字として習い、時に、音読させられなければ解らない。漢字仮名交じり文をパソコンで変換するだけでは、感覚として解らないのだ。漢字を増やすと謂うことが書き取りや習字や自筆作文や漢文音読と一体でなければ、駄目なんだよ。文科省のお兄ちゃん、一応偉いことになっている文化審議会の先生。頼むよ、東アジアの文化には色々な普遍的可能性があるんだから。(了)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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