二兎追うものは一兎をも得ず
- 2014年 11月 27日
- 交流の広場
- 藤澤豊
いい歳して恥ずかしい話だが、このことわざが示唆していることに数年前にやっと気が付いた。ことわざの常として、時代背景も違うし、今風に定量化もされてないし、読み方によってはどうとでもとれることも多い。それでも、長い年月をかけて語られ取捨選択され、今日まで残っていることわざの凄さに今さならながらに敬服している。
バブル経済が崩壊するまで、多くの日本人が社会経済や日常の業務、個人生活において、このことわざを忘れはしなかったが、その示唆していることに注意しなかった。しなかったというより、このことわざが言わんとしていることと全く逆のことをやり続けていた。当時の世界経済における日本のポジション、日本の国内社会、政治状況がやり続けることを可能にしていたし、時代がそうすることが合理的な判断としていた。繊維産業から始まって、鉄鋼、造船、テレビに自動車、半導体もあれば工作機械まであった。まだまだ日本が欧米に対して絶対優位にいられる産業が多かったので、極端な言い方をすれば、誰も彼もが似たようなことを何でもかんでも手を出して、それなり以上の結果がついてきた時代だった。
得手に帆を揚げて、二兎どころか三兎も四兎も追いかけて二兎も三兎も手に入れたものが経済成長を担い、新しい社会の中核を形成していった。その過程で、しっかりとではあっても一兎しか追わないものは時代から取り残されていった。これがある特定の産業だけの数年間ブームで終われば社会全体をおおう、ある意味での常識(?)にまでなることはなかった。当時の新しい常識(?)をことわざ風に言えば、「できるだけ多く追うものが一番多く獲る」になるだろう。誰もが二兎を追いかけたのでは多くても二兎までしかとれない、もっと多くの兎をとるにはもっと多くの兎を追いかけねばならないと考えていた。当時、もし、その危険性を理解した人がいて、危険性を説いたとしても、誰も耳をかさなかっただろう。それほどまでに、誰の目にも目の前の状況が新しい常識(?)を常識としていた。
九十年に米国本社(産業用制御機器メーカ)が営業上がりで、かなりのビジネス規模を誇る西海岸のDistrictのManagerまで上り詰めた人を日本支社の副社長として送り込んできた。良きアメリカの時代に良きアメリカの地方で生まれて育った、良くも悪くも単純な(過ぎる)アメリカ人だった。この類の人たちでは、いつものことだが、日本に関する知識はほぼ皆無、日本市場に関する知識は完全に皆無。決して悪い人ではないが日本支社に何かを残してゆけるような能力のある人材ではなかった。ただ、District managerにまでなった地場の営業上がり(崩れじゃない)だけあって、たまに新鮮な視点を提供してくれた。特殊日本の、顧客の状況に嵌り込んで近視と乱視に視野狭窄が重なって整理がつかなくなってしまっているものには、ありがたかった。
八十年代は米国の製造業が日本の製造業に、俗な言い方をすれば、それこそコテンパンにやられた時代だった。そのときに西海岸のDistrict officeで営業として日本の製造業の破竹の勢い、自国の製造業の衰退を目の当たりにしてきた人が口癖のようにFocus、Focus、Focusと言っていた。どこかで拾ってきたキャッチフレーズだろうが、単純なアメリカ人の見本のような副社長には、ぴったりの軽さといった感じだった。戦後、世界で最も進んだ製造業を誇っていたのが八十年代には、企業として、資本としての生き残りをかけた事業の整理をしなければならない状況に追い込まれていた。事業を整理するためには、将来の市場を予測して、日系など海外の同業のビジネスの推移も考慮の上、どの事業体を残して、どの事業体を切り捨てるかを決断しなければならない。そこでは、日常用語で言えば、Focus(、Focus、Focus)の作業が繰り返されていただろう。このFocusがビジネススクールの先生方やコンサルではコア・コンピタンス(Core competency、competent)というに言葉につながる。これをカタカナで使っていることもあれば、誰が訳したか知らないが、言葉としては名訳として“選択と集中”になる。
昔からの悪い癖で、つい海の向こうから遠路はるばるやってきた“ハイカラ”なものに度を越したものがあると思い込んでしまう。ちょっと引いてみたら、FocusもCore competencyも何の事ない、言わんとしていることは昔からのことわざ“二兎追うものは一兎をも得ず”と何も変わらない。ただ、諺じゃあ、周知のこと過ぎて、じゃメシの種にしにくい。そこで、いかにも今までなかったような装いの舶来のキャッチフレーズをうまく使って禄を食んでいる輩も多いし、不見識にも禄を食わせる側に回っている人も多い。
食んでる側と食わせてる側をばっさり切り捨てたら何も残らないのではないかと心配するほど勢力で、いつのまにやら如何わしいのが主流になってるような気がする。この手にのって、一兎を追うのはいいが、その程度の見識だと、多分どの一兎なのか、追うべき一兎を見誤るだろう。人の意見は参考に過ぎない。間違いなくどの一兎かを決める見識があるのか、自問自答ぐらいしてみたらどうだろう。
Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集
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