青山森人の東チモールだより 第286号(2014年12月10日)
- 2014年 12月 11日
- 評論・紹介・意見
- チモール青山森人
服従せざる者たち――マヌファヒ戦争
ポルトガルへの反乱
11月28日は、1975年フレテリン(FRETILIN、東チモール独立革命戦線)が独立を宣言した日で、その9日後の12月7日は、インドネシア軍は東チモールにたいして全面侵略を開始した日です。「11月28日」は「独立宣言の日」、「12月7日」は「国民英雄の日」として東チモールでは祝日・休日となっています。
したがってこの季節は東チモールの歴史に想いを馳せる時期といえますが、1975年の出来事だけではなく、ポルトガル支配に反旗を翻した有名な「マヌファヒ戦争」(1911~1912年)の始まりとなる事件が起こったのもこの季節であることも付け加えて憶えておきたいものです。
東チモールを占領したのはインドネシア軍だけではありません。ポルトガルも日本も支配・占領しました。したがってポルトガルと日本も東チモール人の抵抗や反乱の対象になったはずです。インドネシア軍にたいする抵抗運動しか知らない自戒をこめて、ここでポルトガルに反乱した「マヌファヒ戦争」を簡単にみることにします。東チモールの本屋さんでよく見かける『マヌファヒ戦争(1911~1912)』という全36ページの小冊子ともいえる小さな本を参考にしたいと思います。著者は、ジョゼ=ラモス=オルタと「ノーベル平和賞」を共同受賞したカルロス=フェリペ=シメネス=ベロ師です。2012年、「マヌファヒ戦争」から100周年を迎えるにあたって簡単にわかりやすくまとめられた本です。
1 写真
『マヌファヒ戦争(1911~1912)』(カルロス=フェリペ=シメネス=ベロ師・著)の表紙になっているドン=ボアベントゥーラの雄姿。
この本はポルトガル語で書かれている。5ドル。最近、東チモールの本屋さんにテトゥン語で書かれた良い本が並べられるようになったが、一般庶民にとってとても手が出ない高い値段なので、残念ながら書物は一般庶民にとって縁遠い存在だ。
「マヌファヒ戦争」の「マヌファヒ」とは地方の名前です。マヌファヒ地方の王または領主であるドン=ボアベントゥーラ=ダ=コスタがポルトガル植民地政府に反乱を起こしたことから勃発した戦争です。東チモールに多数存在した小国の領主または王を東チモールでは「リウライ」(liurai)と呼びます。
なお、ドン=ボアベントゥーラの「ドン」Domとはポルトガル語ですが、ドン=カルロス=フェリペ=シメネス=ベロと「ドン」の冠がついています。Domを「師」と訳せますが、王や領主の場合、なんと邦訳したらよいのか、ボアベントゥーラ師?それともボアベントゥーラ王?……わたしはまだわかりませんので、ここでは東チモールでの一般呼称をそのままカタカナ表記して、ドン=ボアベントゥーラとしておきます。他の領主も同様とします。
2. 東チモールの地図
クリスマス・イブとクリスマスの流血
「マヌファヒ戦争」の直接の原因となった事件はクリスマス・イブとクリスマスの日に起こりました。
マヌファヒ地方の主都サメに赴任していたポルトガルの司令官ルイス=アルバレス=ダ=シルバ中尉は、ドン=ボアベントゥーラの弟(あるいは兄か)を平手で頬を殴り、あるいはオランダ(西チモールはオランダ領)筋によれば王の妻に暴行をはたらいたともいわれるような乱暴者でした。
シルバ司令官がドン=ボアベントゥーラの家にポルトガル人兵士とドン=ボアベントゥーラの名づけ親を送ったところ、そのポルトガル人が殺されました。シルバ司令官はドン=ボアベントゥーラを召喚しましたが、ドン=ボアベントゥーラは応じませんでした。1911年12月24日クリスマス・イブの朝、ドン=ボアベントゥーラが送った部下たちがシルバ司令官の家に現われました。シルバ司令官は水浴びを終えたところでした。ドン=ボアベントゥーラの部下はシルバ司令官を殺し、首を刈りました(1970年代まで東チモールには他集団の首を狩るのは武勇の誇示という風習が遺っていたようだ)。その家には妻とまだ赤ちゃんである息子がいました。結局このときシルバ司令官の他に3人のポルトガル人が殺されました。
一方ドン=ボアベントゥ-ラの弟は、ファトゥベルリウという所の司令官をクリスマスの客としてサメに招待し、1911年12月25日、招待されたその司令官はサメへと出発しましたが、川のほとりで殺されました。
この流血事件のニュースはサメの町中に広がり、近隣の町マウビシに伝わり、そして首都デリ(Dili、ディリ)に届きました。当時のポルトガル植民地政府のフィロメノ=ダ=カマラ=メロ=カブラル総督はこの“反乱”を鎮めるために兵を動員し部隊を組織しました。鎮圧部隊は地元住民・モザンビーク人兵士そしてポルトガル人兵士で構成されていました。
“反乱軍”とそれを鎮圧するポルトガル軍との戦いは、1912年10月、ドン=ボアベントゥーラが投降するまで続き、これが「マヌファヒ戦争」(1911年12月~1912年10月)と呼ばれているのです(*)。
(*)拙著『東チモール 未完の肖像』の年表のなかで、わたしはマヌファヒ戦争の年号を「1908年~1012年」と書いたがこれは誤り。
「マヌファヒ戦争」の背景
ベロ師が『マヌファヒ戦争(1911~1912)』のなかで「遠因」あるいは「動機」と表現するところの、12月24日と25日のドン=ボアベントゥーラの行動の背景として、以下の3点が指摘されています。
まず「民族主義的な動機」。マヌファヒの民は、ドン=ボアベントゥーラの父親であるドン=ドゥアルテの代から、「チモール人のためのチモール」と、ポルトガルに反乱を起こしてきた民でした。東チモールの領主たちのなかには白人支配を受けいれない者たちがいたのです。
次に「政治的な動機」。これは政治的な背景といってよいでしょう。ポルトガル支配を受けいれない領主たちがいる一方で、ポルトガルに忠誠を誓う領主たちもいました。ところが、1910年10月5日、ポルトガルに共和制(*)が成立すると、それまで王制のポルトガルに忠誠を誓っていた領主たちは、共和制のポルトガルにたいしては自分たちの王権が剥奪されるのではないかと疑心暗鬼になり、ポルトガルにたいし反乱を企てたといわれており、これを率先したのは混血(インドのゴア人と中国人)や教育をうけた東チモール人だといわれ、またデリに支部をおくフリーメーソンとつながりのある、ポルトガル政府に不満を抱くヨーロッパ人であったといわれています。ポルトガル側からしてみれば、ポルトガルへの反乱とはチモール島からポルトガルを追い出し島全体を支配したい君主制のオランダの企みであると考えられたわけです。
(*)ヨーロッパで3番目の共和国となったポルトガルは、1926~1932年の軍事政権を経て、1932年に首相となったサラザールによって独裁体制が敷かれた。1968年からカエタノに引き継がれたサラザール体制は、1974年4月25日、軍事クーデターいわゆる「カーネーション革命」によって終焉を迎えた。サラザールはコインブラ大学の教授でカエタノはリスボン大学法学部部長と、独裁者が大学関係者だったのは興味深い。ポルトガル現代史については『ポルトガル 革命のコントラスト カーネーションとサラザール』(市之瀬敦著、上智大学出版、2009年)が参考になる。
そして三つ目が「経済的動機」。1911年、ポルトガルは東チモール人にたいしてさらなる重税を課したことが東チモール人の不満を高めました。
これらの「遠因」「動機」が反乱という爆薬へつながる導火線となり、1911年のクリスマスにおけるドン=ボアベントゥーラの行動がこれに点火したのです、
「マヌファヒ戦争」の結果
1912年10月、ドン=ボアベントゥーラは降参し戦争は終わりました。マヌファヒ側の敗北、ポルトガルの勝利です。ドン=ボアベントゥーラが最終的に何処に拘留されて何処で亡くなったかは諸説あり定かではありません。
この戦争で死んだ東チモール人は1万5000~2万5000人といわれています。当時の人口はおよそ38万人ですから、死者2万とすれば、約5%の東チモール人が亡くなったことになります。死因として戦死だけでなく飢饉と病気も大きな比重を占めています。
3. グラフ:東チモールの人口推移
”Timor Lorosa’e, Pays au carrefour de l’Asie et du Pacifique, Un altas géo-historique”, Frédéric DURAND, 2002より。
戦争終結後、サメの住民は反乱の民として軍事監視の対象となり、私的所有物を没収されました。一つの家族につきココナッツの木を50本とカカオの木を100本あるいはコーヒーの木200本を植えることが納税義務として強制され、男たちは無償労働を余儀なくされました。戦死者を出した家族の他の者は他の地方へ奴隷として送られ、家族離散が生じました。
ドン=ボアベントゥーラの反乱を鎮めたフィロメノ=ダ=カマラ総督は、他の領主にたいしてもその地位を取り上げ、1913年以来、東チモールの領主・王たちは大昔から浴していた王権を二度と享受できなくなってしまったのです。ポルトガル行政の都合の良い番兵のような存在が新しい領主にすげかえられました。
共和制の成立したポルトガルとして初の東チモール総督となったこのフィロメノ=ダ=カマラは、伝統的な領主・国つまりリウライを没落させた人物ということになり、さらにカマラ総督は1913年以降、納税制度としての強制労働を確立させました。もはや反抗するリウライはいなかったのです。
「マヌファヒ戦争」の意味
「マヌファヒ戦争」の歴史的な位置づけは明瞭です。東チモール史上初の大規模戦闘だったことです。
ドン=ボアベントゥーラを支援した他の領主もいましたが、基本的にはマヌファヒ側は自分たちだけで戦いました。オランダ領チモール(西チモール)からの支援ももちろんありません。戦力は約5000~6000人だったろうといわれています。これにたいしポルトガル政府軍は、地元住民を大勢徴兵して、モザンンビーク人の兵士を動員し、ポルトガルの正規軍と海軍までも投入し、マヌファヒの“反乱軍”と戦わなくてはならなかったのです。本『マヌファヒ戦争(1911~1912)』によれば、ポルトガル軍の99%は東チモール人で、ポルトガルが東チモール各地から徴兵した人数は10万8000人以上とありますが、当時の人口からすればちょっと信じがたい大きな数字です。
以上の事柄からしても、「マヌファヒ戦争」といえばマヌファヒという一つの地方で起こった地方個別的な戦争と理解するのは誤りであることがわかります。さらに、ドン=ボアベントゥーラと同盟関係にある/なしにかかわらず、先述した「遠因」「動機」を背景として、他の領主たちも1912年にポルトガルに反旗を翻し、バウカウ地方・ラウテン地方そして飛び地オイクシにまで反乱が起こり、バウカウでは2000人以上、ラウテン地方では300人の死者が出たといわれています。したがって「マヌファヒ戦争」とはポルトガル支配に服従せざる東チモールのリウライたちによる蜂起の総称として理解したほうがよいでしょう。
今日、インドネシア軍に抵抗し東チモールを独立に導いた解放闘争の指導者たちは、「マヌファヒ戦争」は外国支配にたいする抵抗の原点であり、英雄ドン=ボアベントゥーラはその象徴的存在とみているのです。
~次号へ続く~
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion5070:141211〕
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