消費と生産の「好循環」はなぜ機能しないのか
- 2014年 12月 16日
- 時代をみる
- アベノミクス盛田常夫
GDP速報の修正値が発表されて、「アベノミックス」が目指す「好循環」が機能していないことが明々白々になった。前代未聞の大量の貨幣供給を2年も続けながら、なぜ「好循環」が機能しないのか。「経済学者」は円安や消費税引上げによる外部環境変化に原因を求めるだろうが、そういう言い逃れは通用しない。政治家が強弁するならまだしも、「この政策しかない」と考える「学者」など、学者として信用しない方が良い。
そもそも「消費が生産を引っ張る好循環」など、幼稚かつ誤った理論的仮説であることに気づかないのは、やはり社会経済的要因を考慮せずに、教科書の公式に囚われた「馬鹿の壁」に嵌ってしまっているからだ。
単純かつ幼稚な間違い
マクロ経済学では、国内総生産は以下のような式で表現される。
国内総生産(GDP)=消費+投資+政府最終支出+純輸出(輸出-輸入)
上式の左辺は国内総生産を、右辺は国内総支出を現わしている。現実問題として、生産面からの計測と支出面からの計測が一致することはないが、事後的な会計式(恒等式)として「等価」であるという前提で、GDP統計が作成されている。
この式は会計(収支バランス)式として、右辺の項目の増減にしたがって、左辺も増減することを示しているが、事後的な恒等式であるから「国内総生産と国内総支出は事後的に等しい」ことを示しているだけである。恒等式を方程式と読み替えて、右辺が左辺の数値を決定すると考え、消費が増えればGDPが増えると考えるのは、トートロジー(同義反復)である。政治家が「消費と生産の好循環」などと唱えているのは、トートロジーの域を出ない。
ほとんどの政治家は、GDPに占める国内消費の割合が6割だから、消費を上げることがGDPを増やすなどと得意満面に言い放っているが、「消費が増えた分だけ、生産も増えているはずだから、GDPは増える」ことを言っているだけで、典型的なトートロジーなのだ。したがって、どのように消費が増えるのかを説明しない限り、説明にならない。
消費市場が拡大する条件
消費市場が拡大するとは、消費が量的質的に拡大することから達成される。多くの経済学者は社会の労働力人口変動を無視して議論しているが、消費市場の拡大は基本的に労働力市場の拡大と密接に関係している。高度成長時代を通して、日本経済には毎年百万人単位の新規の労働力が生まれ、これが年々消費市場を量的に拡大していった。そこでは、消費の量的拡大が消費財の生産を促し、それがまた消費を拡大するという循環が機能した。まさに高度成長期時代の日本経済は伸び盛りの経済で、消費が生産を促し、それがまた消費を生み出すという循環が生まれた。若いアスリートが練習を積めば積んだだけ、記録が伸びるようなものである。
高度成長時代を終えた日本経済には、もう新規の労働力の純増を期待することができない。それどころか、次第に縮小していく経済だ。にもかかわらず、日本経済が永遠に成長するかのように主張するのは、人が不死であるというのと同じである。歳を取って、次第に死滅する細胞の数が生成する細胞の数を上回る生体のようなものだ。このような経済社会では、もう量的に「行け行けどんどん」という経路は存在しない。無理矢理、プロテインを飲ませたり、ドーピングしたりして一時的に活性化させることはできても、その効果は長続きしないばかりか、後遺症の方が大きくなる。
「消費を増やしなさい」と言われて、TV、洗濯機、冷蔵庫、自家用車を買い換えようとは誰も思わない。寿命が来ないものを買い換える理由がない。狭い家に耐久消費財を何台も抱え込む必要はない。少しぐらい賃金が上がっても、耐久消費財を買い換える理由にはならないし、外食を増やすのにも限度がある。まして、巨額の国家財政赤字で年金が減らされることが分かっている時代だ。政府の口車に乗って、誰が無駄な消費をしようか。あぶく銭を掴んだ者や金満家が高額商品を買ったニュースに踊らされて、財布のひもを緩める理由などどこにもないのだ。
デスクトップPCからLAPTOP、それからタブレット端末やスマートフォンなどのような新たな商品が出てくれば、消費市場は拡大する。しかし、成熟した経済における新商品の開発には何年もの時間と巨額の投資を必要とするから、日本の首相の平均就任年数程度の時間では実現が難しい。そんなことにお構いなしに「消費高揚」を唱えられても、白けるばかりだろう。経済「学者」は単純に「消費すれば、生産は増加する」と考えるが、マクロ経済学の発想そのものが、現実離れした、抽象理論の世界の出来事であることに気づかないのだ。
いずれにしても、アベノミクスが想定するような「消費と生産の好循環」は、実年日本経済に「高度成長時代をもう一度」と若返りを期待するようなものだ。そのために、あらゆる禁じ手を使って、ドーピングしてまでも若返らせようという、無駄な、しかも非常に危険でリスクのある政策だ。実年時代の社会経済社会は、これからやってくる老年時代に備えることが肝心だ。人々はそれを直感して、自衛の貯蓄で将来の生活を守ろうとしているだけだ。そのことを無視して、当座の景気回復のために、貯蓄を取り崩してでも消費を増やしなさいなどと誰が命令できようか。国家は政権の延命の当座の手立てを考えるのではなく、それこそ国家百年の計を考えて、政策を立案すべきなのだ。
「資産価格」の高騰が消費を拡大?
アベノミクスを支えるマクロ経済仮説の一つに、「資産価格(株価や不動産価格)の上昇は消費を増加させる」という消費関数仮説がある。一般勤労者の賃金上昇だけでなく、資産の高騰もまた消費を増やすという。だから、「株価を上げれば、消費も増える」と考える。マクロ消費関数仮説などは、ローンで消費生活を送る人々が多く、かつ膨大な富が一部の富裕層に集中しているというアメリカ経済の現実にもとづいて唱えられている理論だ。日本社会と異質な社会経済をモデルにした理論仮説である。
実際、株価が上がって儲けた人々が高額商品を買っているというニュースを耳にするが、しかし日本ではその程度のことで、マクロの消費数値が上がることはない。株式や不動産を短期投資のために運用している人々の数など、多寡が知れている。実際、政府-日銀は無謀なまでの金融緩和を行い、年金基金の投資運用規制を変更してまでも、株式相場を上げるのに必死だが、その効果はほとんど見られない。日本では株も不動産も、ほとんどの人は貯蓄資産として保有している。理論も分析も、アメリカから輸入しただけでは、使い物にならないのだ。「ハロウィンの奇跡」などと政府の株高政策をべた褒めする御用学者の言うことに耳を貸す必要はない。麻生大臣はこの株高で儲けない奴は馬鹿だと考えているようだが、素人が株で儲けようなどと考えれば、財産を失うのが関の山だ。誰も失った財産を補償してくれない。
百歩譲って、資産価格高騰が消費増加に寄与したとしても、資産売買は長期的にはゼロサムゲームだから、一時的な消費増を生み出しても、新規の付加価値生産に寄与するものではない。そういうマネーゲームに、国民の資産をつぎ込むのは、無責任であるばかりか、国民資産をリスクに晒す犯罪行為だと言わざるをえない。
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