連載・やさしい仏教経済学-(26)持続的発展を平和憲法に盛り込む/(25)人間は「カネの奴隷」ではない
- 2010年 12月 25日
- スタディルーム
- 安原和雄
21世紀は、地球環境保全を優先する地球環境時代であり、八つのキーワードの一つ、持続性、つまり持続的発展(=持続可能な発展)を基調とする社会を創ること、同時に非暴力の世界を構築していくことも緊急の課題となっている。この持続性と非暴力を具体化させるためには何が求められるか。その有力な方策として「持続的発展」という文言を日本国平和憲法に新たに盛り込むことを提案したい。憲法の平和(=非暴力)理念は世界に冠たる素晴らしいものだが、9条(戦争放棄、非武装、交戦権の否認)をはじめ多くの理念が空洞化している。その理念の再生と活性化のためには「持続的発展」を憲法の追加条項として導入することが不可欠といえよう。(2010年12月25日掲載)
▽ 「持続的発展」の新規導入(1)― 憲法9条と25条に
変革構想に生かす平和憲法の理念と条文は、以下を指している。
*憲法前文の平和的生存権
*9条「戦争放棄、軍備及び交戦権の否認」
*13条「個人の尊重、生命・自由・幸福追求の権利の尊重」
*18条「奴隷的拘束及び苦役からの自由」
*25条「生存権、国の生存権保障義務」
*27条「労働の権利・義務、労働条件の基準、児童酷使の禁止」
前文には「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」とある。恐怖とは戦争という暴力であり、欠乏とは貧困、飢餓などの暴力である。
前文でうたわれている平和的生存権と9条の理念を生かすためには世界の核兵器廃絶はいうまでもなく、日本の非武装、さらに日米安保体制(=軍事・経済同盟)解体を視野に入れておく必要がある。
もう一つ、平和憲法に新たに「持続的発展」(=持続可能な発展)条項を導入する必要がある。『新・世界環境保全戦略』(世界自然保護基金などが1991年、国連主催の第一回地球サミットに先立って発表した提言)は「政府は憲法その他、国政の基本となる文書において持続可能な社会の規範を明記すべきである」と各国政府に対し、憲法への条項追加論を提起している。
それにヒントを得たのが日本国憲法への追加条項で、具体案(私案)は次の通り。
*9条に「日本国及び日本国民は、世界の平和と持続的発展のために、世界の核を含む大量破壊兵器の廃絶と通常軍事力の顕著な削減または撤廃に向けて努力する」という趣旨を追加する。
*25条に「日本国、企業、各種団体及び日本国民は生産、流通、消費及び廃棄のすべての経済及び生活の分野において、地球の自然環境と共生できる範囲内で持続的発展に努める」という趣旨を新たに盛り込む。
▽ 「持続的発展」の新規導入(2)― 憲法理念の活性化をめざして
周知のように9条は次のように定めている。
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
②前項の目的を達するため、陸海空その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
しかしこれまた周知のように日米安保体制下で日本は自衛隊という名の強大な軍事力を保有し、9条は骨抜きになっている。追加条項は、この骨抜きの現状を変革するために、日本国と国民は「世界の平和と持続的発展」のために「世界の核を含む軍事力の削減、撤廃に努力する」という趣旨である。この条項の新規導入によって、空洞化がすすんでいる9条の平和理念の再生と活性化をめざそうというものである。
一方、25条(生存権、国の生存権保障義務)は次のように定めてある。
すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
②国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
この生存権の規定は、いわゆる社会権的基本権の保障を意味しており、しかも「環境権」も、この25条を根拠の一つとして主張されている。だから25条に「地球の自然環境と共生できる範囲内で持続的発展に努める」という趣旨を新たに加えることは場違いとはいえないだろう。
しかも現実にはこの国の生存権保障義務が蔑(ないがし)ろにされている。貧困、格差の拡大、病気の増大、医療の質量の低下、社会保障費の事実上の削減 、税・保険料負担の増大― などによって生活の根幹が脅かされているからである。この現実をどう変革するかは緊急の大きな課題である。ここでも9条と同じように「持続的発展」の新規導入によって生存権保障の活性化にも寄与できることを期待している。
▽ 憲法理念の空洞化に歯止めを(1)― 奴隷たちよ、共に決起しよう!
以上、憲法9条と25条の理念が事実上、空洞化していることを指摘したが、憲法理念の空洞化はこれにとどまらない。以下、変革構想に生かす憲法理念のうち、13条、18条、27条について概観し、その空洞化の歯止めはどうあるべきか考えたい。
13条(個人の尊重、生命・自由・幸福追求の権利の尊重)は次のように定めてある。
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
上記の規定にもかかわらず、現実には「個人の尊重、生命・自由・幸福追求の権利の尊重」は空文化している。ここでの「個人の尊重、自由」とは、やりたい放題のことにエネルギーを浪費することを意味しない。若者たちの間にみられる「私の勝手でしょ」という姿勢は間違っている。人間としての誇りと謙虚さをもって正面を向いて生きることである。そうでなければ「生命・自由・幸福追求の権利」を生かすことはむずかしい。
18条(奴隷的拘束及び苦役からの自由)は以下の規定になっている。
何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。また犯罪による処罰を除いては、その意に反する苦役に服させられない。
本条は「奴隷制または自由意思によらない苦役」を禁止するアメリカ合衆国憲法修正条項をモデルとして制定されたとされる。ここでの「奴隷的拘束」とは、「自由な人格を否定する程度に人間の身体的自由を束縛すること」を、「苦役」とは、「強制労働のように苦痛を伴う労役」を意味している。
特に「奴隷的拘束」という文言を憲法に明記したこの条項をどれだけの人が自覚して認識しているだろうか。 サラリーマンの場合、企業内で自由な批判的意見を表明することは歓迎されない現実がある。しかも年次休暇消化率が半分程度というお粗末さで、これでは精神的、身体的自由が抑圧、束縛されているといえよう。
この18条を熟読玩味して、「奴隷的拘束からの自由」を実践しなければ、何よりもわが身を守ることができないだろう。このような不自由な現状では21世紀版「奴隷解放宣言」が必要ともいえるのではないか。「我らが友、奴隷たちよ、共に決起しよう!」というスローガンが街のあちこちに張り出される日が近いことを期待したい。
27条(勤労の権利・義務、労働条件の基準、児童酷使の禁止)はつぎの通り。
すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負う。
②賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める。
③児童は、これを酷使してはならない。
1980年代から続いてきた新自由主義(=市場原理主義)路線の下では長時間労働、サービス残業で酷使され、一方新自由主義の破綻に伴う不況、経済低迷とともに、大量の解雇者、非正規労働者らがあふれている。にもかかわらず適正な労働の機会を国や企業が保障しないのは、「労働は権利、義務」という憲法の理念に違反している。
▽ 憲法理念の空洞化に歯止めを(2) ― 前文にも「持続的発展」の導入へ
さて以上のような憲法理念の空洞化に歯止めをかけ、再生を図るために具体策として憲法前文にも「持続的発展」の文言を導入することを提案したい。一案として前文の「日本国民は(中略)われらの安全と生存を保持しようと決意した」に続いて「持続的発展が世界に広く定着していくことを願う」という趣旨を書き加えてはどうか。
憲法擁護派の存在は大変貴重だが、憲法改悪を懸念する余り、憲法に前向きの新たな条項を書き加えること自体にも抵抗感があるらしい。ただ単に「憲法を守れ」を繰り返すだけの固定観念からぼつぼつ卒業したらいかがだろうか。
日本における「変革」とは、以上のような憲法理念を実現するために未来を見据えて自ら努力することである。遅疑逡巡(ちぎしゅんじゅん)の迷いはこの際返上して、堂々と「いのち、人間としての叫び」を響かせよう!
<参考資料>
・持続的発展と仏教思想との関連については<持続性と発展と地球環境時代 連載・やさしい仏教経済学(22)>を参照
・安原和雄「持続可能な発展と仏教思想 ― 日本型モデルをどう創るか」(駒澤大学仏教経済研究所編『仏教経済研究』第三十一号、平成十四年)
・同「持続可能な発展と憲法改正 ― 地球環境時代のキーワード」(足利工業大学研究誌『東洋文化』第19号、平成十二年)
初出:安原和雄のブログ「仏教経済塾」(10年12月25日掲載)より許可を得て転載
http://kyasuhara.blog14.fc2.com/
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study366:101225〕
1980年代後半のわが国における本格的なバブルが90年代初めに崩壊して、「カネ、カネ」の世の中の虚(むな)しさを多くの人が実感したはずだが、現実はカネに執着する現象が目立ちすぎる。「カネの奴隷」になっていることに気づかない拝金教信者の群といえば、いささか誇張に過ぎるだろうか。この地獄から脱出するには「人間はカネの奴隷ではない」ことをどう自覚するかである。そのためにはカネと経済成長第一のGDP信仰から脱却する必要がある。(2010年12月6日掲載)
▽ 世界を徘徊する妖怪マネー ― 資本主義のカジノ化
ここで問題に取り組んでみたい。
<問い>お金とは一体何なのか?
<答え>私たちは、こういう疑問を抱きながら暮らしているわけではない。当然お金はあるべきものであって、なければ生活ができなくなり、困るというくらいの感覚ではないだろうか。「いのちの次に大事なモノ」といった答えも浮かぶ。
まず指摘したいのは、昔のまた昔には貨幣はこの世に存在していなかったという事実である。だからモアの『ユートピア』(前回の「お金では買えない価値の大切さ ― 連載・やさしい仏教経済学(24)」参照)に描かれているように、将来のその将来には貨幣が再びこの世から消えてなくなる日が来るかもしれない。
お金、マネーの歴史を追ってみて、分かることは、その機能・役割が大きく変化したということである。次のように表すことができる。
*本来の機能=手段としての交換機能(商品売買の仲介機能)
G → M → G (G=Goods・商品、M=Money・お金)
*資本主義下の機能=目的としての貨幣価値増殖
M → G → M’
*マネーゲームの機能=目的としての資本価値増殖
M → M’
初期の交換市場経済では本来、Mすなわち貨幣は脇役で、Gすなわち商品が主役であった。ところが資本主義的市場経済になってくると、Mが主役の座にのし上がり、それまでのG→M→Gという商品経済循環がM→G→M’という貨幣経済循環に変化し、商品生産も利益(Mの右肩のダッシュの部分)の追求を目的にして行われる。しかしまだGすなわち商品生産が存在していることに注目したい。
ところが今日のマネーゲームではM→M’で表せるようにMすなわち貨幣だけが自己増殖を目的にして動き回り、Gは全く姿を消している。これがモノづくりとは無縁なマネーゲームの特徴である。いわば「カネ、カネ」の世の中になり、カネは利殖のための資本と化した。
こうしていまや資本主義それ自体がギャンブル場と化してしまったともいえよう。1980年代以降の金融の世界を知る上で次の描写は決して過大ではない。
西側世界の金融システムは急速に巨大なカジノ(賭博場)以外のなにものでもなくなりつつある。(中略)このことは深刻な結果をもたらさざるをえない。将来何が起きるかは全くの運によって左右されるようになり、熟練や努力、創意、決断、勤勉がだんだん評価されなくなる。(中略)いまや運が怠惰や無能と同じように仕事を奪うかもしれない。こうしたわけで、不確実性の増大が我々を賭博常習者にしてしまっている。(スーザン・ストレンジ著『カジノ資本主義』岩波書店)
本来、カネは人間の作品であったはずだが、逆に人間がカネの奴隷となる。もちろん本人に奴隷という自覚はないにしても、カネ自体の自己増殖運動に否応なく振り回される。人間が主人公としての主体性、自主性はほとんど喪失する。
こうしてマネーが妖怪(ようかい)となる。その妖怪がいまや世界狭しとばかりに徘徊(はいかい)している。しかもそのほとんどは投機性の高い短期資金である。
カネをめぐる犯罪がいかに多いことか。モノ作りで身を滅ぼす者はいないが、カネ儲け、つまりマネーゲームに駆り立てられ、M→M’という投機の世界で身を滅ぼす者は数かぎりない。
▽ バブル崩壊の歴史(1) ― チューリップ狂から
資本主義のマネーゲーム化は世界的な現象である。その頂点に位置するバブル経済(注)も日本だけに特有の現象ではない。しかもバブルとその崩壊の歴史は古く、手を替え品を替えて繰り返し登場してきた。
(注)バブル経済=株式、土地など資産価格が適正な価格から著しく離れて高騰し、投機的な経済になること。バブル(英語のBubble)は「泡」という意味で、必ずはじける。
ここでバブルの歴史を駆け足で辿ってみよう。
歴史上最初の大がかりな投機として有名なチューリップ狂は、1630年代のオランダのアムステルダムが舞台であった。投機の対象になったのは、株式ではなく、チューリップの球根だったのだから驚かざるをえない。貴族はもちろん女中さんたちまでが手を出し、最盛期には一つの球根が今日の2万5000ドルから5万ドル(約400万円)にも高騰したというから、正気の沙汰ではない。やがて暴落し、オランダは長い不況期に見舞われるが、チューリップの栽培だけはいまなお続いて、オランダの観光資源としても有名である。
1929年大恐慌前のアメリカのニューヨーク市場での株価の急騰もバブルであった。大恐慌の直前に当時のフーバー大統領は「永遠の繁栄」を豪語していた。ところが大恐慌によって株価は約3年間でピーク時の7分の1に下落、それが暴落前のピーク時の水準を回復したのはなんと25年後の1954年(昭和29年)のことである。バブル破綻の後遺症は長い。
最近では2008年9月、米証券4位のリーマン・ブラザーズ破綻とともに一挙に具体化した世界金融危機を挙げることができる。「100年に1度の危機」、「超バブルの崩壊」などと呼称は多様だが、それをもたらした元凶は「規制のない自由な市場こそ万能」というスローガンを掲げる新自由主義(=市場原理主義)である。
日本では1980年代後半の株式・土地ブームが第2次大戦後に体験した本格的なバブル経済で、そのときはバブルは永遠に続くと思っていた人が多かったのだから、不思議といえば、不思議な話である。思い込みが強かっただけに、右肩上がりの急上昇が一転して右肩下がりの急落となったバブル崩壊の後遺症は、金融機関に巨額の不良債権を抱えさせ、巨大銀行の倒産など深刻な事態にまで発展した。
▽ バブル崩壊の歴史(2)― 馬鹿者集団のマネーゲーム
バブルは最初は極度の楽観主義が支配し、それがやがて極度の狼狽(ろうばい)と混乱に取って代わった点で共通している。ここではバブルにかかわる苦言を紹介しよう。
フリードリッヒ・シラー(ゲーテと並ぶドイツの詩人、1759~1805年)が喝破したように「個人としては結構まともで気のきいた人であっても、群衆の一員となると、途端に馬鹿者になってしまう」のである(ジョン・K・ガルブレイス著『バブルの物語』、ダイヤモンド社)。シラーの筆法をもってすれば、バブルは馬鹿者集団のマネーゲームにほかならない。
イギリスの物理学者 アイザック・ニュートン(1642~1727年)も、投機に巻き込まれて巨額の資金をを失い、「私は物体の運動を測定することはできるが、人間の愚行を測定することはできない」という名言(?)を残している。
バブルの崩壊から学ぶべきことは何だろうか。ガルブレイスは『バブルの物語』の中で次のように指摘している。
「繰り返し狂気の沙汰に陥るのは資本主義の特徴である」
「愚者は、早かれ遅かれ、自分のカネを失う。また悲しいかな、一般的な楽観ムードに呼応し、自分が金融的洞察力を持っているという感じにとらわれる人、つまり金融の天才も、これと同じ運命を辿る」
愚者も自称「金融の天才」もともにバブルでは重度の火傷が避けられないとすれば、学ぶべきことは「バブルには手を出すな」以外にはありえない。
▽ GDP信仰(経済成長主義)からの脱却を
専門家集団である金融業者にかぎらず、一般民衆までが拝金教信者になっている傾向は、日本で顕著である。その根本的な背景は何か。経済優先主義とGDP(国内総生産)信仰をあげたい。
経済優先主義とはGDP第一主義にほかならない。GDPという概念ではカネで表示できるモノ・サービスなど貨幣価値のみが重視される。カネで表示できないものは、GDPとは無関係なのである。このことはカネに換算できない非貨幣価値の軽視につながっていかざるをえない。
しかも「欧米に追いつき、追い越せ」をスローガンにGDP増大、いいかえれば右肩上がりの経済成長に日本は国を挙げて取り組んできた。1960年代の池田内閣時代の所得倍増計画がその一つの典型である。所得倍増とはカネを2倍に増やすことを意味している。「カネ、カネ」という意識が日本列島の隅々にまでいつの間にか広がっていったとしても不思議ではない。
どうすればいいのか。仏教の開祖、釈尊は、カネを捨てなさいと言った。釈尊自身はお金も地位もさらに妻子までも捨てて出家した。生老病死という「人生の四つの苦」は富や財産では解決できないことを悟って、お金を捨てたのである。(ひろさちや著『お釈迦さまが説いた、「おかね」って何だ?!』毎日新聞社)
当時は貨幣経済が未発達であった。だからお金を捨てやすかったともいえるが、今日の我々はカネを捨てるわけにはいかない。どうしたらよいのか。私は拝金教信者から「もうこれで十分」と感謝する心を尊ぶ知足教信者への宗旨替えこそが近道だと考える。
まずカネへの異常なこだわりを捨てることである。「何のためのお金か」とつねに問い直してみる必要がある。これが「カネの奴隷」から「カネの主人公」になるための最低必要条件ではないか。
そのためにはGDP信仰からの脱却が不可欠である。GDP信仰がほかならぬ拝金教の背景にあるのだから拝金教を克服するためには、GDP信仰から抜け出すほかない。世の経済学者やエコノミストたちの多くは、いまだに経済成長率が高いの、低いのと分析・予測に明け暮れているが、私は「お疲れ様、GDP」といいたい。GDPを担ぎ回る時代はもう終わっている。
さらにカネの役割・機能を本来の姿に引き戻す努力が求められる。これは経済の基本をマネーゲームからモノづくり、サービスの提供へと転換させ、腐乱した市場経済を本来の健全な市場経済に構造改革していくことにほかならない。
もう一つ、お金では買えない非貨幣価値の大切さに心を配りたい。カネさえ沢山あれば、何でも手に入れることができると思うのは、貪欲に左右された錯覚にすぎない。
<参考資料>
「新自由主義はついに破綻した ― 世界金融危機の歴史的な意味」(ブログ「安原和雄の仏教経済塾」08年10月4日掲載)
初出:安原和雄のブログ「仏教経済塾」(10年12月06日掲載)より許可を得て転載
http://kyasuhara.blog14.fc2.com/
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study361:101206〕
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