戦後70年の新春に思う―不戦こそ憎しみの連鎖を断つ道
- 2015年 1月 3日
- 時代をみる
- 戦後70年鈴木顕介
今年は焦土の街々に立って8年に及ぶアジア太平洋戦争の敗戦を知った日から70年になる。戦争の記憶は70年の時の流れで忘却の彼方に去ってしまったのか。平和と民主主義を根幹とする戦後体制の規範、現憲法改正への動きが明確になってきた。
再び戦える国にする以外にこの国の行く末はないのか。過ぎし大戦を振り返ってみよう。
欠いた自らの戦争責任追及
日本の死者だけで、軍人、軍属230万人、沖縄地上戦、広島、長崎原爆、東京大空襲など都市爆撃による民間人が80万人。中国をはじめアジア各地で日本人に殺され、また戦場になったため死んだ人の数は、これを遥かに上回るが、正確な数は調査すら試みられていない。
日独伊3国同盟締結は米英との全面対決路線の選択であった。予想を超えた石油全面禁輸など対日経済制裁で追い込まれて開戦する。日米の国力の差を無視し、短期間の戦争を前提にしながら、終結の策を欠いた戦争であった。
戦争継続に不可欠であった南方占領地からの資源輸送、拡大した戦線を維持する補給は海上輸送路の確保ができず破産してゆく。
生産力の差からくるアメリカの物量に圧倒され、客観的に見れば絶望的な戦いが続いた。その帰結は精神力に頼るしかなかった。戦場では戦いの拠りどころは、死以外に選択がない「戦陣訓」。これが生んだアリューシャン列島アッツ島に始まる玉砕という名の集団自死、戦争末期パラオ諸島ペリリュウ島戦以降は、硫黄島、沖縄と続く全滅まで戦う持久戦に。さらには航空機、魚雷、小型舟艇を爆装した自爆攻撃、特攻作戦となる。
国内ではでは空襲による全土の戦場化と食料不足で生産体制が崩壊、都市では社会生活の維持すら困難となった。
戦争末期、戦闘継続能力を失っていたにも関わらず、国家指導者はソ連仲介の和平に一縷の望みをかけて抗戦を続けた。これが原爆投下、ソ連参戦を招き、無用の死者増加を招いた。
ここから読み取れるのは、政治指導部に戦争指導者がいない無責任体制である。これは戦後の不十分な戦争責任追及へと引き継がれた。
背景になるのは戦後世界の米ソ冷戦体制への急速な移行である。アメリカの占領政策は日本完全非武装化から、冷戦体制への戦力としての利用に変化した。朝鮮戦争勃発を契機とした実質的日本再軍備の開始、さらに講和条約とセットになった日米安保条約による米軍日本駐留という現在まで続く日本の安全保障環境の大枠が成立する。
一方、アメリカは日本の戦争責任追及を極東国際軍事裁判による開戦時の東条首相ら7人の処刑で終わりとした。日本も講和条約による裁判結果の受け入れで良しとして、自らの手による戦争責任追及をしなかった。この間の状況は、開戦時の東条内閣の閣僚であった岸元首相の戦争犯罪の免責釈放、その後の政界復帰と首相就任による1960年の安保条約改定に象徴される。
8年の戦いの主要な対戦国であった中国は対日講和条約に不参加であった。1978年に日中平和友好条約が結ばれたが、そこには日本の戦争責任について言及は一切なかった。深刻化した中ソ対立の状況下で経済建設を急ぐ中国側の事情もあり、対日賠償の放棄と引き換えにした巨額の対中経済援助の獲得が優先された。戦争責任の明示はないがしろにされたのである。
この結果、日本が戦場とした中国をはじめとするアジア諸国、植民地とした韓国に対する国の意志として責任を明示し、加害を謝罪する機会は、戦後50周年の1995年に出された村山首相談話まで待たねばならなかった。
殺すか殺されるかの不条理
敗戦から70年を経た今、戦場を語れる人のほとんどは世を去った。空襲、学童疎開に戦争を実感し、記憶する世代として、敗戦時の小学校高学年まで入れても、生存者は総人口の7%に過ぎない。
街に横行するヘイトスピーチを耳にし、少なからぬ若者がこれに賛同してデモに加わる。
戦争を知らない世代はいたずらにこぶしを振り上げる。戦争とは何かを、残り少ない戦争を実感した生き残りの一人として語ろう。
戦争とは憎しみの連鎖で成り立つ。これが戦争を実感した者の結論である。戦場で今まで全く見ず知らず、お互い何の憎しみもなく、恨みもない。ましてや殺し合う理由などさらさらない。戦場で出会ったとき異なる国、あるいは今では異なる宗教、単に異なるグループに属するというだけで、「敵」「味方」となる。出会ったら殺さなければ、殺される。殺された恨みが憎しみを生む。復讐心が新たな殺しを誓わせる。
戦場で指揮官は部下の兵隊をいかに早くためらわずに、殺しのできる一人前の兵士にするかに腐心した。いかなる訓練よりも早いのは戦友の死である。友が殺されれば、仇を討ってやるぞと奮い立つ。戦場経験者から聞いた話である。
日中戦争で戦ったある下士官が密かに軍隊手帳に書き残していた。子供たちに戦場でしたこと、それを繰り返してはならぬと反省を語っていた。ただ、この軍隊手帳の記述は死後手帳を子供たちが見つけるまで口にしなかった。
自分の指揮する分隊が占領した集落住民の皆殺しを命ぜられた。目の前で部下の兵士が赤ん坊を銃剣で刺すが、赤ちゃんから剣がどうしても抜けない。早く抜けてくれと兵士が剣を付けた銃を振り回す。その有様を書いた後に「ああ、戦争は嫌だな」と記していた。(NHK)
オーストラリア・シドニーの東約500キロの内陸の牧羊地帯にカウラという市がある。
ここに戦争中日本兵の捕虜収容所があった。1944年8月、ここで日本兵捕虜の集団脱走事件が起きた。今まで和気あいあいと過ごしてきた日本兵の突然の手製武器を手にした脱走攻撃に警備兵はやむなく発砲、231人が死んだ。「生きて虜囚の辱めを受けるなかれ」戦陣訓の呪縛からの集団自死、「玉砕」の変型判であった。
カウラ市にはこの事件の死者を埋葬した日本人墓苑が造られ、日本式回遊庭園が併設され、日豪親善の街となっている。1960年台対日感情が厳しかったこの国で、墓苑建設の先頭に立って奔走したのがこの街のオリバー市長だった。最悪の対日感情はオーストラリア軍の太平洋戦線での死者の多くが捕虜となった後の死であったことに起因する。
日本庭園建設が始まった1970年台の末、オリバー市長にここに至る話をインタビューした時のことだ。事件直後、すでにオーストラリア軍は死者を丁重に葬り墓地をつくっていた。市長はさらに彼らが安んじて眠れるように、この墓所を日本政府に寄贈し、立派な墓苑にしたのだった。
この動機を尋ねると「私はニューギニア戦で歩兵として戦いました。あなたは歩兵がどういう戦い方をするかご存じでしょう。この戦闘から生きて帰って、故郷の街でこの悲劇があったことを知りました。この戦争の犠牲者を葬る日本の墓苑にするのは私の務めでした」。
ニューギニア東部スタンレー山脈越えの「ココダ道」の戦は、オーストラリア軍が対日戦で唯一独力の戦いで日本軍を撃退、勝利した救国の戦闘として、同国では長く記憶に止まっている。日本軍に南岸の同地域最大の街、ポートモレスビーを奪われれば、オーストラリア北部は指呼の間、本土進攻の危機にさらされるからである。
「歩兵の戦い方」以上オリバーさんは具体的な戦闘の話に立ち入らなかった。向き合って殺し合いをするのが、歩兵の戦いである。
語らなかった東京大空襲の恨み
もう一つ例を挙げよう。私自身14歳の時東京大空襲の大量虐殺を生き延び、目撃したから語れる戦争である。
1945年3月10日未明、記録によれば、B29爆撃機294機が攻撃に参加、午前0時8分の初弾投下から1時間7分の間に1500~3000mの低空から1万8千個の焼夷弾が投下された。この爆撃の死者は当時の深川、本所、城東、浅草区で約10万人とされている。東京下町には軍需工場の下請け作業場が密集している軍事目標だと攻撃目的は説明されたが、真の狙いは一般市民の大量虐殺で戦意を銃後と言われた国内から崩壊させることにあった。
攻撃を立案指揮した第21爆撃集団司令官カーチス・ルメイは戦後この爆撃について、次のように語っている。
東京を焼いたときたくさんの女子子どもを殺したことを知っていた。当時日本人を殺すことに対して悩みはしなかった。私が頭を悩ましたのは戦争を終わらせることだった。
もし戦争に敗れていたら私は戦争犯罪人として裁かれていただろう。幸運なことに我々は勝者となった。
軍人は誰でも自分の行為の道徳的側面を多少は考えるものだ。だが戦争はすべて道徳に反するものだ。
猛吹雪が火炎の烈風になった逆風を突き抜けて清澄庭園に逃げ込めたのが生につながった。朝5時過ぎすべてを焼き尽くして火は消えた。家に続く電車道の大通りに出る。通りを埋め尽くす黒の泥人形になった人の群れ。私が逃げたとき人っ子一人おらず、逃げ遅れたかと思った道である。街を覆う人の肉を焼いた臭い。この臭いは低空を飛ぶ爆撃機内にも届き、吐き気をもようさせたと記録は伝える。
この話を後日アメリカで暮らしたとき一度もアメリカ人に向かって口にしたことはなかった。50年目の同じ夜、焼死体の山が築かれた街角に立ったが、そこには何の傷痕も残っていなかった。だが私の心の奥深くにはあの夜の火が消えずに残る。鼻をつくあの臭いとともに。なぜ、この大虐殺に謝罪をしないのか。恨みと憎しみは消えていない。
中国、韓国で事あるごとに燃え上がる日本嫌悪の炎の元は、東京大空襲の恨みと同根の恨みである。南京事件での死者数が時に争点となって浮上する。だが、死者数は問題ではない。一般市民が一人も殺されなかったら問題ではない。一人でも殺されたらその人の肉親には間違いなく恨みがある。
多数派となった戦争を知らない世代に言いたい、戦争を始めたら憎しみの連鎖は留まるところを知らない。これが戦争の恐ろしさである。
日本が70年間紡いできた平和国家は、多極化で国家が競い合い、国際舞台に国家でない集団が登場する21世紀の世界で得難い価値である。混迷の世界が目標とすべき理想である。それを今なぜ捨てて戦う国への扉を開くのか。
戦争は絶対悪である。これを忘れまい。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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