ネット世代に
- 2015年 1月 15日
- 評論・紹介・意見
- 藤澤豊
八十年代頃までだったと思うが、国際電話はあっても高すぎて個人ではとても使えなかった。それが、今や料金など気にすることもなくインターネットで何時間でも話をしていられる。海外旅行も特別なものでなくなって久しい。団体旅行ではなく、個人で誰もが気楽に行けるようになった。テレビも画面が鮮明になって、インターネットで地球上のほとんどのところで何が起きているのかが分かるようになった。一昔前なら余程恵まれた立場にいる人しか知り得なかったことを、多くの人たちが家に居ながらにして知り得る時代になった。
かつてはほとんどの人にとって現地(海外)に赴くのは実質不可能に近かったし、現地の知合いから二次情報として知識を得られる立場にいる人も限られていた。フツーの人たちが知り得ない情報を得られる社会層にいればそれなりの人生を期待できた時代だった。今でも市中に公知のこととして流布されている情報から一歩入ったところの情報にアクセスし得るかどうかが個人に留まらず、企業として優位な立場に立ち得るかを左右することがある。それでも、公知の情報量が圧倒的に増えたからだろうが、その一歩入ったところの情報ですら、公知の情報を詳細に分析し得る人に言わせれば流布している情報から九割方は順当に推察できるらしい。
こうして考えると、かつてのように手間暇かけて現地(海外に限らず)に赴いて人と会って話を聞いて、その人が知り得た情報とその分析結果をお聞きすることにどれほどの意味があるのかという、若い人たちから突きつけられた疑問-若い人たちにすれば疑問ではなく結論かもしれないが-がでてくる。一人の人が知り得る、分析し得る情報は限られている。人による違いが大きいし、なかにはその人でなければということもあるだろうが、それでも一人の人の知識や能力には限界がある。この類のことに単純な生産性や効率を持ち出すべきではないが、それでも一人の人に会って話を聞くのにかけるコストに時間と家にいながらにしてインターネットなどでアクセスし得る情報の量と質を比べれば、疑問の余地もなく後者の方が優っている。
原発反対のデモをみた若い人たちのなかには次のような素朴な疑問というのか意見があるという話を聞いて、半分そう思うのも仕方ないだろうと思いながらも、そう思ったら大きな間違いをおかしかねないと心配の方が大きい。若い人たちのなかには、デモをしているのはかつて活動家だった人たちで、また集まって騒いでいるとしか思っていない人たちもいるらしい。デモなんて面倒なことをしないで、今の若者はラインやツイッターでつながっている。そのつながっている先には国会議員の先生方から閣僚までいる。デモなんてのは面倒なだけで、オヤジのフラストレーションの発散に過ぎない。ラインやツイッターでつながっているオレたちの方が大きな社会勢力だ。
伝え聞いている話では、今の若い人たちはかつての若い人たちのように物理的につるんでというのを億劫がって、学校でも職場でも議論を戦わせたり、言い合いすることもなければ、飲みにゆくことですら希らしい。物理的に会える人たちを超えてどこにいるのかに関係なくインターネットでつながっている。昔の言い方で言えば、顔を合わせて膝を突き合わせてという機会を避けている。あったとしても空気を読むというのだろう、お互いに入り込むことなく表面的な当たり障りのない話まででその場が終わるのをよしとして、それ以上の付き合いはうっとうしいとして控えるのがお行儀らしい。
ネットで知り得る知識、確かに膨大で質も注意さえすれば問題ない。下手な教師からよりよほどまともな知識が得られる。人と人の付き合いまでネットというワンクッションおいた方が面倒な、うっとうしいことになる可能性もない。確かに若い人たちの考えと選択、一理ある。その通りといいたいのだが、その通りではない重要な点がある。
テレビやインターネットのおかげで世界の殆どの都市の状況を何らかのかたちで知り得るし、世界中の観光地どころか秘境といわれるところでも紀行番組を見れば行った気になれる。多くの人たちの日常の生活から伝統文化まで、現地に赴いたところで何年かかっても知り得ない、経験し得ない知識が家から一歩もでないで得られる。確かにそうなのだが、果たしてその疑似体験でどこまで知り得るのだろう。現地で生活して、体験して得られる知識は一人の人がし得る限りの偏ったものででしかないが、それでも疑似体験で得られるものとは本質的に違う。この直接体験によって得られた知識があってはじめて疑似体験による知識の位置づけも咀嚼や理解もより意味のあるものになる。疑似体験は、本質的にどこかの誰かが見せたいことを見せたいように見せている-良くも悪くも編集された情報に過ぎない。
情報や知識へのアクセスの効率を優先してネット上の住人に居続ける限り、編集されていない生のところは知り得ない。誰かが知らせたいことを知って知った気にはなれるが、それで知った気になっていることに気がつかないことが怖い。戦争映画や戦争のドキュメンタリーをいくらみても戦地で生死の境を生き拔いてきた人の実体験による知識と似たような知識は得ようがない。そこまでではないにしても、ハワイに一度でも遊びに行った人がハワイの観光番組をテレビで観るのと一度も行ったことのない人では、おのずと得るものが違う。
実体験の裏付けのない知識は、上っ面のものに留まる。それを知識と呼ぶのは同じように上っ面の知識を知識と勘違いしている人たちの間ででしかない。実体験に基づいて消化吸収された知識とは比べようがない。ラインでツイッターで何をどう発信しようが受け取ろうが、それはたった一人のデモにすらおよばない。デモを受ける側からすればネット上で何を言ったところで何も起きなければ、あるいは何も起きる兆候でもなければ痛くも痒くもない。
実体験のないところにまっとうな考えも意見も存在しえないと言ったら失礼にあたるのであれば、存在し難いとでも言っておこうか。昔の若い人たちと似たようなことをする必要もなければ、しなければならない理由もない。時代も違えば状況も違う。ただ自分なりの考えをもって人と言い合い、ぶつかり合いながらの経験もして知見を深めた方がいい。
ネットは多くの人たちに情報を開示するインフラを提供するが、そのインフラ、情報管理したい施政者にとっては情報統制に都合のいいインフラでもあることに注意した方がいい。経済的、社会的、政治的。。。すべての面で圧倒的な情報をもっている施政者が自らの社会層に都合の悪い情報は開示しない。都合のいい情報だけが流され情報操作が進められる。無批判にネットに依存すれば情報操作に絡め取られる。
Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion5119:150115〕
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