「友愛」か「博愛」か―fraternitéをめぐる考察
- 2010年 12月 9日
- 評論・紹介・意見
- fraternité岩田昌征
現代史研究会(2010年12月4日)で専修大学名誉教授内田弘氏の『経済学批判要綱』に関する氏の哲学を拝聴した。私は氏の講義の内部に立ち入ってコメントする学知に欠ける。学ぶのみである。
ここでは、氏が講義の中で若干論じた自由・平等・博愛(友愛)の中の博愛(友愛)について一言したい。これら三語は、言うまでもなくフランス語のliberté,égalité,fraternitéの訳であって、自由と平等は適訳であるが、「博愛」はミスリーディングな不適訳である。現代史研究会の合澤氏によれば、かの廣松大先生も誤訳であると常々口にしていたそうである。
日本社会ではfraternitéの原義「兄弟関係」、「兄弟愛」の地平を跳び越して「博愛」まで行ってしまった。それが英語化したfraternityを三省堂の新コンサイスで見てみると、原義どおりであり、かつbrotherhoodと同義とある。「博愛」は全く姿を見せない。
周知のように、また内田氏も説いたように、1789年フランス大革命で謳われた理念は、自由・平等・所有であってfraternitéはない。1848年フランス共和国憲法に自由・平等・fraternitéの三位一体が登場する。時代は諸民族の春、諸国民の春の時代である。fraternitéを「博愛」と訳すると、仁、慈悲、人類愛一般に通じるものとなり、宗教的かつ抽象的にすぎる。fraternitéは兄弟愛から姉妹愛へと展開し、兄弟姉妹関係の自然な最大限延長として民族愛・同胞愛にまで至る。訳としては「友愛」が適切であろう。すなわち友愛とは民族主義の心、理念である。自由や平等は純粋理念としては民族に限定されないが、民族=友愛共同体の内部で現実化しやすい。要するに友愛とは異質な者たちの相互理解というよりも、同質な者同士の相互確認である。そして今代の課題は、諸友愛間の「友愛」、諸民族主義間の互敬を可能にする新理念の発見であろう。それは友愛を放棄せずにそれを越える。かかる試みの一つとして、民族主義団体一水会の木村三浩氏の掲げる「王道博愛主義」がある。
何故に1848年になってフランスで「友愛」理念が樹立されたのか。別に文献的根拠があって語る訳ではないが、大革命において国王(国父)と王妃(国母)をともにギロチンにかけてしまったフランス人は、両親殺しの兄弟(姉妹)のごとく、周囲の白い目に耐えて生き抜くには、兄弟(姉妹)の団結に頼るしかないと思い定めたからであろう。こうして自由→市民、平等→階級、友愛→民族、なる近現代社会の理念的三位一体が完成した。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion0240:101209〕
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。