日本メシ屋に日本を求める
- 2015年 1月 19日
- 交流の広場
- 藤澤豊
米国ミルウォーキーにある本社に出張していたとき、“Customer Visit”から依頼があった。日本から客が二人きている。もし都合がつくようなら今晩日本食にお連れしてもらえないかと。かなりの大きさの社屋なので目立つ日本人がいたとしても事業部が違えば気がつくこともない。
ミルウォーキー、ウィスコンシン州最大の町といっても所詮田舎町。仕事でも日本人が来ることは希だ。ここはといえる日本メシ屋はなかった。お連れするのはいいが、日本から来て日本のような日本メシを期待されるとがっかりする。気の利いた地場のレストランにお連れした方がいいのではないかとアドバイスした。アドバイスはありがたいが、すでに数日地場の店にはマネージャや担当者がお連れした。朝から晩まで英語で仕事、夕食もアメリカ人とアメリカメシ、英語の話で疲れてきているようにみえる。よければ日本メシ屋に連れってもらえないか。日本人同士であれば多少はリラックスしてもらえるかもしれないと考えての依頼だった。
“Customer Visit”という部隊は来社する方々の受け入れに関する全て-社内だけではなく、ホテルやレンタカー、夕食やスポーツ観戦。。。のアレンジを担当する部署で、さながら便利屋のようなことをしていた。受け答えもしっかりしているし、確認しなければならないことも如才なく確認してくる。付合った限りでは若くて優秀にしか思えないのがなんでこんな雑用をと思っていた。後日聞いて驚いた。そこは入社したての若い人たちのなかでも将来を嘱望される人たちの訓練も兼ねているとのこと。ホテルのベルボーイに相当するのだろう。
その日の午後遅く、“Customer Visit”の若いに連れられて、日本からの客が来ているという事業部に出向いた。そこには絵に描いたような日本企業の中間管理職然とした、そして英語で疲れきった感のある二人がいた。こっちの顔を見た途端に英語が引き起こしていた緊張がきれ一瞬にして破顔、そして体全体から力が抜け自然体に戻った。自己紹介も済まないうちに旧友にでも出くわしたような話し方をされた。英語がよほどストレスになっていたのだろう。日本語でフツーに話せる、英語でのストレスを聞いてもらえるだけでもほっとするのだろう。お会いする前と後、よくある怪しげな宣伝の“使用前”と“使用後”の違いのようだった。
出張では限られた時間内に出張の目的を達成して帰国しなければならない。滞在延長はオプションとしてすらない。日本ではみんなが帰国を待っている。もし、確認しなければならないことや、要求しなければならないことに抜けでもあれば大変なことになる。朝から晩まで英語を母国語とした人たちと英語で渡り合わなければならない。慣れれば負担に感じることも少なくなるが、それでもなにか意思の疎通に齟齬があれば、正は常に相手にあって、自分(たち)にはあるのはプレッシャーだけ。それだけでフツーのビジネスマンにはかなりの精神的な負担になる。
荷物を置きにホテルに戻って日本レストランと自称している数軒についてお話した。期待されてがっかりされるのも嫌なので、個人的な評価であることを前置きした上で、期待しないでゆくとしてもここが一番と思っていた店にお連れした。何を食べても量が多いだけで、食べられないこともない、まあこれでも日本メシという程度。ブロッコリーの天ぷらなんかが出てきようものなら、その大きさにまいる。どこからどうやって食べるか。出っ張りを天つゆに浸けてそこをかじるしかない。
まともな日本食を食べたことのない料理人が見よう見まねか、勝手に想像して作った日本食。なかにはこれを日本メシとは呼ばないでくれといいたくなる代物さえでてくる。頼んだものが出てきて、誰がこんなものを頼んだんだと、頼んだ方が驚くこともある。
口に合えばという条件がつくが、食事だけなら地場の料理の方がコストパーフォマンスはいい。口に合うもののないところもあるだろうが、一週間やそこらの滞在なら食えるものを選んで食べればそで済む。問題は不自由な言語と慣れない習慣-分かってしまえばなんでもないことでも-からくる精神的な負担にある。
仕事の場ではどうしようもないが、せめて仕事を離れたときに自分たちが正であるという日本環境があれば、料理の質や量、価格は問わないという気持ちになる。多くの人たちが海外で日本メシ屋に求めているのは、日本メシでもなければ日本酒や日本のビールでもない。日本語の不自由というか、料理の名前すらうろ覚えのアルバイトのような店員のサービス、流行りの“おもてなし”などありようがない。味も何もどうでもいい、まがいものであってもかまわない、サービスの良し悪し、なんでもいい、だた、そこに日本を用意してくれればいい。
もし注文を受けたウェイトレスやウェイターが聞きとれなかったり、聞き間違えたら、正しいのは日本語で注文をした客で、間違ったのは店側の問題であるという環境。変な料理がでてくれば、これはなんだ、日本メシじゃないじゃないかと見下せる。それは常に自分が正しく、相手が間違っている、相手の能力が足りないのだと言い切れる、思いきれる場だ。ちょうど仕事の場と立場が逆になる、それも客として。客の立場でも英語でうつむき加減だったのが、日本語で胸をはれる。
あちこちで似たような経験をしてさんざん嫌な思いにもあってきた。それでも、それはときには必要という程度にしたい。格好をつける気もないし見栄をはるつもりもないがその程度でまいっているようでは仕事にならない。
Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集
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