協調性
- 2015年 2月 2日
- 交流の広場
- 藤澤豊
ある有名私立大学の入ゼミ面接が興味深い。聞くところによると、どのゼミでも程度の差はあれ似たような状況らしい。どこにでも本音と建前はつきものだが、面接する側とされる側の本音と建前の関係がいつも変わらぬ人情を臆面もなく露呈している。社会人ならもうちょっと体裁を整えて本音を隠すのだが、まだ本音を隠しおおすだけの建前と経験がない。もっとも、学閥やらコネでその名もとどろく有名大学、学内や仲間内では隠す必要もないのかもしれない。あきれるやら情けないやら、若くしてそこまで老成(成というのも変だが)はないだろうと一言言いたくなる。
昔からあったろうが、今日の就職難のせいもあって、学生に人気のあるゼミには三つの特徴がある。まず、第一に教授がいい就職先にコネを持っていて、教授の推薦があれば面倒な就活なしで就職が決まるという評判があること。この評判が輝いてみえれば他の条件には目をつむる。第二に、飲み会などのお遊び以外での負担が少ないこと。バイトや部活、私生活に支障がでるのは困る。第三は、ゼミの小集団の人間関係で疲れないこと。そこでは、ゼミでの勉強は志望理由の最下段におまけのように付いているに過ぎない。
出身校や部活などのコネを持たない学生は志望するゼミの正門を叩くことになる。学生に人気のあるゼミでは募集人数の数倍もの志望者が殺到する。ゼミによって違いはあるが、入ゼミ面接にフツー教授は同席するが面接は三年生が取り仕切る。教授はオブザーバーのように後ろに引いている。教授が面接しなくて、なんの入ゼミ面接だなどと昔ながらの堅いことを言う人は時代錯誤の困った人になる。この教授の下でこれこれを勉強したいなどという勘違いした?学生は滅多にいない。就職への足がかりか学生生活をエンジョイしたいという学生しか入ゼミ面接に来ないのだから、教授の方もその場にいてもしょうがないというのが本音だろう。学生同士、先輩-後輩の関係でうまくやってくれればそれでいい。教授にしてみれば手がかからない、学生としては教授から勉強をしなければならないというプレッシャーも少ない。お互いの利害というか視点が一致しての入ゼミ面接になる。
入ゼミ面接では、ゼミに応募してきた二年生を先輩の三年生が評価する。ゼミに入れるかどうかは面接官である三年生の受けがよいかどうかで決まる。三年生の評価基準は単純明快で自分たちの小世界を乱すことなく、先輩に従順で、先輩を先輩として立てることに尽きる。その評価基準、世間一般のきれいごとの言い方では、“協調性”や“社交性”になる。小学校の通信簿のころからついて回った評価項目だが、曖昧さにおいては世界にも類をみない奥ゆかしい日本文化の賜物で、誰に対してなのか、何に対しての協調性なのか、社交性なのかはっきりしない。はっきり“大勢に迎合する性格と言動”とで言ってもらえれば、ああ、なるほどと思えるし、それはしないようにしてますと返答もできるのだが。
三年生が“誰に”と“何に”という肝心なこと-要は自分たちに対して-をうやむやのままで、というよりそこまで考える知能がないのだろうが、あたかも常識として、正当な評価基準-“協調性”と“社交性”で後輩を選別する。本来の目的であるxxx教授の下で勉強するというのははなからない。そればかりか、三年生の先輩より勉強ができそう、してきたようにみえる後輩は敬遠される。ましてや英語のように出来る、出来ないがはっきりしてしまう能力においては、自分たちより出来るのを受け入れてしまったら、先輩としての立場がなくなるという情けない心情が先になる。そこには自分たちにないものを持ってきてくれるのであれば、そこから学べるのではないかという真摯な姿勢はない。その情けない心情と真摯な姿勢の欠如による評価が“協調性”とか“社交性”という都合のいい言葉で正当化される。日本語もここまで曲解?して使われると何たる言語かと恥ずかしくなる。
ある有名私立大学の入ゼミ面接における学生の、ある意味、実に人間的な情けないありさまなのだが、ちょっと周りをみれば、これがその私立大学の入ゼミ面接に限定された特有な現象ではないことに気づく。程度の差やありようの違いはあるものの、どこにでもあまりに日常的にありすぎて、情けないとか恥ずべきとかという感覚すら失われ、既にある種の常識にまでなっている。
故意に、組織的に生産性を上げずに職員の雇用を守ってきたところでは、妙な頑張り屋や改善屋、優秀な人材が来ては困る。もし、来てしまったら、できるだけ早く、「朱に交われば赤くなる」を実践してもらう。さもなければ体裁はどうであれ疎外して追い出す算段をする。多くの人が、多分誇りに思っている“気遣い”や“思いやり”などという日本人らしさというのか日本文化、一歩間違えば、“大勢に迎合する”ことを“協調性”や“社交性”という美名で強制して培ってきた卑近なものに成り下がりかねない。
内部に抱えた問題は外からはなかなか見えない。外から見て、問題だらけじゃないかと思える企業や組織があったら、もう内部は手のつけようのない状態に陥っていると想像して間違いないだろう。そこでは一歩間違うどころか間違いっぱなし、その間違いっぱなしが常識になっている。
そんな常識を誇りの文化と勘違いしているところから新しい価値あるものが生まれてくるとは到底思えない。「明日の主流は今日の異端」という言い草もあるくらいで、歴史は大勢に収まりきらない外れた出来る奴が次の社会や歴史を作ってきたことを証明している。
Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集
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