理工じゃない人文だ-「おもてなし」の真意…?
- 2015年 2月 4日
- 評論・紹介・意見
- 藤澤豊
日本が一般大衆消費財の大量生産を基盤とした経済構造で世界市場を席巻していたとき、米国は大量生産を基盤とした経済構造からイノベーションを基盤とした経済構造に脱皮すべく必死の努力を続けていた。この米国の、まだ実らない努力を尻目に、見えるものしか見えない人たちが『ジャパン・アズ・ナンバーワン』という心地よい響きに酔っていた。フツーの人だったら酔わないわけがない、酔ってあたりまえの状況だった。そんななかで日本の経済的繁栄はそのときの世界の経済構造が日本の大量生産による経済構造に合っていただけの一過性のものに過ぎないものと分かっていた人がどれほどいたのか。誰かがその可能性を指摘したところでフツーの人たちが耳を傾けたとは思えない。それほど、そのときの景色が誰の目にも当たり前で、そのまま続くものにしか見えなかった。
中国をはじめとする発展途上国-一般大衆消費財の輸出先だった国々-が輸出国に成長するにおよんで大量生産を基盤とした経済構造のもとで日本が特別なものではないこと、それ以上に新興輸出国に取って代わられる存在でしかないことがはっきりして、そのまま今日に至っている。そこには大量生産を基盤とした経済構造では日本に太刀打ちできなかった米国がイノベーションと先進のサイエンスを基盤とした経済体制で復活していた。
巷の一私人、教育行政がどうのという前に高等教育なるものがどのようなものだったのか、どうなってきたのか、これからどうしてゆこうとしているのかよく分からない。よくは分からないのだが、巷から聞こえてくる話を聞く度に何か基本的なところでずれているのではないかと心配になる。誰のどの社会層のための高等教育なのかという視点を多少なりとも気にしてみれば、特定の社会層が今までの経緯に引きずられて歴史の歯車を逆転でもしようとしているとしか思えない。
ニュースキャスターだったと過去形?今はタレント?のハーフの女性が司会したテレビ番組を偶然見た。タレントさんたちとでも呼ぶのか、かなりの人数の人たちが雛人形のように並んだ最近よく見るかたちの番組だった。あまりにだらしない企画とそれに乗らなければならないタレントさんたちの物言いの馬鹿馬鹿しさについチャンネルを回すのを躊躇って見てしまった。
番組は“(日本の)おもてなし”についてなのだが“おもてなし“の定義がないというより、言葉の定義ということを考えることもなかった人(たち)が、あるいは無視して企画、製作したとしか思えないものだった。老舗の旅館の客に対する対応から始まるのはいいが、表立ってだせるのは旅館かホテル、料亭やレストランのようなものまでで、そこから大きく離れたところで、”おもてなし“といわれても見つからないのだろう。回転寿司もウォシュレットのような便器までが日本の”おもてなし“だという。どっちも日常生活に直結した画期的な発明品であることに異論はないが、それをして”おもてなし“はないだろう。
ただ、この馬鹿げた番組ちょっと考えると今の日本が求めようとしている(求めざるを得ない?)産業構造の変化の一端を示していることに気づく。大量生産-製造立国から文化立国への転換を図りたい人たちと社会層がいる。一般大衆消費財の大量生産では中国などの新興国(もうそう呼ぶときは過ぎたか)に太刀打ちできない。そこで製造業からサービス産業に転換したい。サービス産業はハイテク産業(定義がいいかげんだが)より多くの雇用を期待できる。一理も二理もある選択肢に見えるが、製造業は物つくり、製造設備を介してそれを作る人と使う人との間の関係だったものがサービス産業では人と人との直接の関係になる。
製造設備は作るも使うもエンジニアリング(工学)が基礎となるが、サービス産業の基盤は人文科学にある。エンジニアリングも人文科学もその基礎を輸入できないことはない。輸入したエンジニアリングで製造したモノは国内でも海外でも売れるだろうが、輸入した人文科学でなにかしたとして日本人にはうけても、海外(外国人)からの需要は期待できない。可処分所得の低迷で日本人相手に留まらず海外からの客に喜んでもらえる-”日本のおもてなし“-サービス産業にとの目論見があっての産業構造の変化-文化立国ではないのか。
輸入品でも模造品でもない自前の文化を支える人文科学-教育の充実なしに海外からの客に満足して頂ける日本のサービス産業、その一つの例が“日本のおもてなし”が存在しえるとは思えない。
ところが文科省を含め日本の経済主体である大手企業(いまだ製造業が主流?)が高等教育に要求しているのをみれば、都合のいい人たちの都合に合わせるのはいつものこと、驚きゃしないと思いながらも、いったい何を考えての要求なのか理解に苦しむ。
大量生産を基盤としてでは世界市場において日本経済がなりたたないことが誰の目にもはっきりしているはずにもかかわらず、その大量生産を実現したエンジニアリング(工)を高等教育で充実するという。即戦力として期待できる人材の育成が課題だと。大量生産はエンジニアリングが主体だったがイノベーションを基盤とした経済構造はエンジニアリングではなくサイエンス(理-科学)にその基盤がある。
エンジニアリングとサイエンス、領域の重なるところはあるがで似て非なるもの、エンジニアリングは日々の課題を即の利益を求める実業の学問で、サイエンスは本質的に利益とは無関係の、ましてや即戦力にはなり難い学問。多くの数学の領域はその典型といえるだろう。極端な場合、数学者は自分たちでどう解くのか分からない問題を作っては自分たちで四苦八苦して解こうとしている。それがなんの役に-実業に、利益になるかなどという視点はない。
サイエンスなくしてもエンジニアリングは経験をベースとして成り立つが、高度化し複雑になればその基盤にはサイエンスが必須となる。ただエンジニアリングによって実利につながるのはサイエンスの成果のほんの一部でしかないし、時には数十年後になってやっと日の目を見るのが特別なケースでもない。即の利に聡いところにサイエンスは成り立たない。即戦力を求めるであればエンジニアリングになる。
製造業ではなくサービス産業で雇用をとでも思ってのことだろう。“世界文化遺産”に登録。。。フツーにこの日本語を読んで欲しい。中央の二つ漢字-“文化”、この二文字はサイエンスでもなければエンジニアリングでもない。人文科学の領域であることくらい初等教育をしっかり受けていれば分かるはず。
にもかかわらず、高等教育-大学における人文科学を削減し、即戦力-エンジニアリングの学士、修士という体のいい職工の育成に力を入れる。これを矛盾と気がつかないか、気がついても気にしない人たちが、なんでもかんでも“おもてなし”といってはばからない社会を生み出して、それが日本の常識になってゆく。そんなところに海外の旅行者に感動していただける“おもてなし”があるのか。いつものように上っ面の言葉遊びのようなというのか騙しあいといってもいい文化-“おもてなし“が続く一方で慣れ親しんだ成り立たないモノつくりに執着する。
世界のなかで自分たちが、自分たちの社会がどうあるべきなのか、あらざるを得ないのかを考えることから始めなければ製造立国も文化立国も言葉遊びもどきから一歩もでずに真似事で終わる。そのためにはエンジニアリングでもサイエンスでもない、まず人文科学教育をしっかりしなければならない。
当たり前のことでしかないと思うのだが。そうは思わない人たちが人様の税金を使って自分たちの利権を求めてことが進められる。誰がそのツケを払うのかと思うと、もういい加減にしてくれと言いたくなる。
Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion5161:150204〕
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