分かってもらって初めて
- 2015年 2月 8日
- 評論・紹介・意見
- 藤澤豊
著名なジャーナリストの講演を拝聴した。ジャーナリストとしてより社会派ルポライターとして、また社会活動家としてもよく知られた方で、確固たる視点からの社会の強者に対する鋭い批判が高く評価されている。先生と呼ばれるに相応しく畏敬の念さえある。現場を重視するルポルタージュ作家として多作に入るのだろうが視点にぶれはない。常に社会の弱者-差別される、(底辺)労働者。。。負荷を押し付けられて呻吟している人たちの視点で地に足のついた、現場からの事実に基づいた強さを武器としたルポルタージュ。感服以外の言葉がない。
演題は、時節柄というと叱られそうだが、原発問題だった。流石に一流のジャーナリスト、ただ原発の安全性がどうのという新聞記事のような話ではなかった。原発を安全だという神話を捏造してまで、かつての、今の、ちょっと先の目先の経済的利益に右往左往してきた関係者の歴史的および現在のありようをいくつかの数字を上げてお話された。ただ、話が経済的利益に入った途端収集がつかなくなる。そこでは直接利権に関係する人たちから間接的利権に、そのまた間接と広がってしまい、どこまで含めるかが難しい。適当なところで止めるしかない。それほどまでに原発が経済的規模とその影響の大きな代物だということで、直接間接に利権に群がりようがあるということにほかならない。
原発だけでも一時間半程度の講演時間には収まりきらないのに、原発が僻地(失礼)に建設されてきた経緯。建設する側とそれを誘致する過疎地側の利害の、その時点でのたとえ表面的であったとしても多くの点での一致。時の経過とともに誘致した側の期待の外れ。過疎地が受けてきた経済的なプラスと、抱え込んだマイナス。そのマイナスを隠蔽してきた政財官の力とその力に抑えこまれ苦境を公知にし得ないできた、抑圧されてきた過疎地の人々。原発を抱えた過疎地が新潟県を中心とした北陸地方と青森県。。。
青森県が典型的な過疎地で、過疎地であるが故に原発を抱え込んだ。そこから過疎地に対する差別に話が飛んで、コロコロコロっと話が弾んで、過疎地故に米軍基地が居座っているとの話になって、米軍基地となれば沖縄抜きには語れない。沖縄の米軍基地の歴史的、社会的経緯、本土とは比べようのない沖縄の基地密度。それを放置してきた歴代の権力者とその利害関係者。。。沖縄の基地問題に触れればベトナム戦争に話が飛ぶ。そこまで行ってしまえば現在の中東戦争の問題に話が飛ぶのにたいした時間はかからない。
先生の視点にブレはない。差別される人たち、経済的、社会的、道徳的視点からみて言われのない負担を押し付けられ、差別されてきた人たちの視点で問題を公知のものとしてきた。さらに押し付けた状態を常態化するとともに、その状態を国民の目から逸らし、隠蔽し続けてきた社会権力に対する批判。それが公害であろうが、人権を無視した労働環境や労働者管理であろうが、原発問題や米軍基地問題であろうが、さらに日本だけでなく、ベトナムのフツーの人々でもアフガニスタンの人たちでも、先生の視点からはまったく同じ。社会のありよう、人のありようから生まれた社会問題でしかない。
差別され、虐げられてきた人たちの視点から社会を見続け、個々の社会問題の認識からもう一歩入り込んだ根本原因にまで踏み込んだ視点からの貴重なお話。話がいくら飛んでも、似たような視点から社会を見てきた者には、腕を伸ばせば届く範囲の飛びでしかない。飛んだところで迷子になるようなことはない。おお、そのデータ、始めて聞いた。その視点は分かってはいたが、そういう背景とそんな利害関係が後ろで動いていたのか。ちょっと想像を巡らせば分かることでも、データを持ってして明言されると感動に近いものがある。
ただ、聴講者は数人を除いて今風のフツーの大学生。話が飛ばなくてもついてゆけない。致命的に基礎知識が不足している上に社会問題そのものに興味がない。彼らの興味は、今日の生活とちょっと頭を上げればそこに迫っている就職問題だろう。手を伸ばすまでもなく目の前に転がっている問題までしか考えられない、考えようとしない、考えることに価値を見いだせない若い人たち。彼らの問題というより今の社会が彼らをして彼らなりの環境への最適化を図った結果として彼らのありようがある。その彼らのありよう、かつて原発を作っていった人たちのかつてのありようと、見えるものも経済的規模もその影響も全く違うが、それをつくった原因のところではほとんど同じに見える。見ようとする努力など何もしなくて見えるのは単純な損得勘定。
先生は分かっていることを、できるだけ若い人たちに分かってもらいたいと思って、思いつくまま(失礼?)にお話されたのだろう。ただ、残念なことに聞く側に聞く準備ができていない。全ての人は、相手も同じような価値観、似たような社会観をもっていると暗黙のうちに想定して話をする。知識にしても新聞やテレビ、インターネットでも見ていれば同じニュースを共有していると思って話をしてしまう。自分では分かっている、相手も話せば分かるはず。分からない、ついてこれないなどとは想像もできない。
日常的にどこでも起きていることにもかかわらず、ついてゆけなかったことから学習することは希で、人が話についてきていないことに気が付いて、話の進め方を修正できることも希。なかなか学習できない。知識が日常の当たり前のことに限られている人であれば話題(視点)も限られ、話があちこちに飛ぶことも少ない。もし飛んだとしても距離は知れている。知識の豊富な人に限って話は飛びやすく、飛ぶ距離も大きくなる。
話は相手に理解して頂いて、賛成、反対にかかわらず、はじめて話したことの意味がある。話をさせて頂くのは聞かせて頂くより難しい。理解して頂くのはさらに難しく、納得頂くのは至難のこと。このあたり前のことをつい忘れてしまう。ただ、話したとして何が残る。ご理解頂く、納得して頂いてはじめて話しをさせて頂いたことに意味がある。
当たり前の話でしかないと思うのだが、大学の授業ではこの当たり前が当たり前ではないのがフツーだろう。先生方、ほんの一握りの学生しか聞いていない授業を続けられる精神力はどこからくるのか。精神力と呼んでいいのか分からないが、巷の素人、できればそのような能力を身につけるようなことにはなりたくないのだが、気になる。
Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion5169:150208〕
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