基本書(教科書)の思い出
- 2015年 2月 12日
- 評論・紹介・意見
- 熊王信之
ちきゅう座で藤澤豊氏が「教科書」について書かれていましたので、その関連で、自分が数十年前に学んだ法律学の「基本書」(「教科書」よりも学の基本をなす理論書)を思い出しました。
今では、書籍が売れずに、例え売れても新書や軽い小説の類で、専門書は売れない、と云う世情ですが、その昔には、知識は読書から得るのが一般的であり書店は何時も満員でした。
中でも、今でも懐かしく、処分せず(出来ず)に大切に保存している憲法学の基本書の数々。
師事した教授の著書は勿論のことですが、その他の基本書の方が読み込んだ形跡が著しく、関連する論文、判例、それに他説の批判等々が書き込まれています。
まずは、当時の基本書として定評のあった清宮四郎「憲法Ⅰ」と宮沢俊儀「憲法Ⅱ」。 両著とも大部で詳細に渡る理論書でした。 それに加えて、小林直樹「憲法講義Ⅰ」と「憲法講義Ⅱ」を始めに、二、三の基本書を読み、注釈書は、「註解日本国憲法上・下巻」から、宮沢俊儀の注釈書を読み込みました。 判例は、判例評釈として編集された大部の著書を数点参考にしたものです。 加えて、逐条で編集された憲法制定議会の審議録がありました。 「逐条日本国憲法審議録上・下巻」です。 必須箇所は、暗記する程に読んだものでした。
他には、常識として旧憲法について、美濃部達吉と佐々木惣吉、それに、比較のためとして上杉慎吉の著書と論文集を数点読みました。 神田の古書店から蜜柑箱で送っていただいたものです。 当時は、未だ旧憲法の著書が相当数古書店に残っていました。
英米と独逸の憲法についても専門書は読んだものの、一法学徒としては、外国法までは詳細に読む必要もありませんでした。 それよりも「公法研究」や「法律時報」等の専門雑誌を良く読みました。
これでも専門課程でのゼミには、とても間に合わずに他の論文集や雑誌の判例評釈を参考にしないと担当の教授の下問には応えることが出来ませんでした。 週一のゼミのためには相当な準備が必要でしたが、このゼミのみで進学した意義があった、と思っています。
憲法の一学科でこのとおりの様子ですので、他に、民法の諸部門、商法の諸部門、刑法、それに刑事と民事の各訴訟法、加えて、行政法の諸部門、と夫々に基本書を中心として必須の参考書、論文集等が山積していました。 それも単なる読書ではなくて、理論を確かめながらの批判的読書に徹するのですから、神経を使う読書法でした。
中でも、理解するのに苦心したのは、我妻栄「民法講義」の各部でした。 理論が深く、精緻であり、しかも鍛えられた論理で一貫していましたので、例えば、債権分野では、一頁を読むのに数時間かかったことがありました。 一行の理解に数百頁の論文を読まねば完全に理解が出来なかったこともありました。 そして読むにつけ、頭が冴えわたる感覚があったことを思い出します。 恐るべき論理の世界でした。 でも没入に値する世界でした。
そして、この作業が法令の読解法として身につけることが出来た手法でした。 お蔭で、或る官庁で新規採用時から実務につける能力を養うことが出来たのです。 教わる手法ではなくて、自ら身に着けるものであり、そうしなければ養成出来得ない能力です。
基本書を読む過程では、何度も何度も法令を参照しますので、記憶の意思が無くても、何時しか重要な条文が頭に入ってしまいます。 同じく重要な判例も記憶の意思が無いのに頭にこびり付くことが普通になってしまいます。 暗記の意思が無いのに覚えてしまうのです。 今でも、記憶に残っているのですから、相当な反復をしたのでしょう。
職場でも該当条文を暗唱して周囲の人が不思議な顔を見せることがありましたが、業務上の必要がある場合には、何度も何度も該当条文を参照するので自然と記憶に残ってしまうのでした。 該当条文を参照する能力と関連条文を参照する能力、それらを関係付ける能力、そして、それら条文の目的的(誤字ではなく「目的」的です)解釈を出来る能力は、
官庁勤務では、とても重宝なものでした。 特に、土木・建設部門では、主要な職員は、技術屋さんですので、こうした技能を持つ者が、特に「補佐役」として職場にいれば安心なのです。
それにしても、世の中、皮肉に出来ているものです。 知識欲から、良く言って、理論的興味があって法学を志したものの、その実践的側面である実学としての法律学的能力が養われて、その故に職にありつけ、己の食い扶持を得る糧になったのですから。
尤も、個人と法人とを問わずに法律を武器にして私的利益のために闘争を請け負う職業にはつかずに公の職業につくことが出来たのは上出来でした。 その為に得る利益(報酬)が過小であるのは仕方が無いことです。 何でもかでも優る職はありませんから。
退職後は、本来の願であった法の理論、特に公法学の理論を極める目的が残っています。 しかし、数十年も俗世間臭い専門を漁ったのですから、本当に学びたいものをこれからは学ぶことにしたいもの、と思っています。 そのために、未練たらしく残している法律学の関連書籍の処分をする予定でいます。 でも、英米の憲法学については少し読みたいものがあり、処分には踏み込めません。 何より高価な英文書籍ですから。
因みに、数年前に書店で法律学、中でも民法の基本書らしきものを見つけて、懐かしさで手に取ると、何やら箇条書きで記されたものの間に図形がありました。 良く観ると、当該条文の内容を図形で表示したものでした。 驚いて、著者や出版社を観ますと、さる大学出版社のものでしたので、二度驚きました。 こんなもので、法律学的能力が養える、と思われての出版なのでしょうか。 論理的理解力を基に推理力を養い、法的思考力を涵養し、それに何より法律学の専門領域における論理的文章作成・推敲の能力を言語で鍛えるのが目的である場合において、いくら合理的といえ、図形を使用する、とは。 一般人を相手では無くて、法律学徒を相手の基本書で。 空いた口が塞がりませんでした。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion5180 :150212〕
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