日本語-書かない書けない
- 2015年 2月 16日
- 交流の広場
- 藤澤豊
日本では識字率が問題になることはまずない。ほとんどの人が高等教育まで受けている。文字の読み書きが不自由なわけでもない。それでも、ある種(と呼んでいいのか?)の困った方々からは、どういうわけか書面での連絡や情報を頂けない。(ここで書面と言っているのは、電子ファイルか電子データ状のもので、物理的な紙の上に書かれているものではない。)なぜなのか説明がつかないまま、長い間、頭の隅に引っかかっていた。視力や利き手に問題があるわけでもなし、何が原因なのかつらつら考えていた。ふとしたことから“識字“という言葉がでてきた。そこから起きていることを説明できるかもしれない。
広辞苑では“識字”を“文字の読み書きができること”としている。ついでにWebで調べてみた。ちょっと長いが分かり易い説明なので、引用させて頂く。差別用語が使われているかもしれないが、ご容赦頂きたい。
「識字とは、文字(書記言語)を読み書きし、理解できること。英語のliteracyの訳語と言われている。文字に限らずさまざまな情報の読み書き、理解能力に言及する際には、リテラシー(literacy)という表現が利用される。」
「識字は日本では読み書きとも呼ばれた。読むとは文字に書かれた言語の一字一字を正しく発音して理解出来る(読解する)事を指し、書くとは文字を言語に合わせて正しく記す(筆記する)事を指す。この識字能力は、現代社会では最も基本的な教養のひとつで、初等教育で教えられる。生活のさまざまな場面で基本的に必要になる能力であり、また企業などで正式に働くためには必須である。」
「非識字は視覚障害や脳障害などよるものを含まず、文字の読み書きを学習する機会がなくて、読み書きできない人たち」という誤解を避ける説明まであった。
その困った人たちは大きく二通りのタイプに分けられる。一つ目のタイプは、書面での情報や連絡は希で、電話での口語の連絡がほとんどの人たち。ニつ目のタイプは、人によって多い少ないという量的な違いはあっても書面で情報も連絡も頂ける。頂けはするのだが、内容が要を得ない人たち。
一つ目のタイプの人は、ただの筆不精だけが理由の人もいれば、少なくはなったと思うがパソコンの操作に不慣れでという人もいるだろう。不慣れがゆえに、パソコンの操作が想像以上に精神的なストレスになる人もいると聞いたことがある。なかには相手に言質を取られるのを避けるためだったり、相手を見下している、見下そうとしているからというのもあるだろうが、多くは、文章を書く習慣のなくなってしまった人たちだろう。この人たちのなかには、対外的な文章を書こうとするだけで、書かなければならない状況になるだけで、フツーの人には想像できないほどのストレスになる人もいるらしい。書きつけないが故にますます書けなくなるという悪循環が積もり積もって、読めるが書けない、ある意味での半非識字状態になってしまったのだろう。
ニつ目のタイプの人たちは一つ目のタイプの人たちより非識字症状は軽い。適度な頻度で書面に書くという習慣は残っている。残ってはいるがリテラシー(上記参照)の観点からみれば、準非識字状態となっている。
使われている用語の間違いや不統一、さらに主部と述部の整合性がないという文法上の間違いから何を言っているのか判然としない。読み手が、誤解しかねない危険をおかしてかなりの想像をしないことには、理解し得る情報にすらなり得ない。社外文書であることを気にして、格好をつけなければと思っているのだろう。使い慣れないもったいぶった表現を多用して、まるでモンペしか着たことのない人がある日突然イブニングドレスドレスを着こなそうとでもしているような感じになる。
十年ほど前にお世話になった会社での話だが、ある業界紙の記者が新製品について営業部長にインタビューした。いくら話を聞いても何を言っているのか分からないので、新製品の“セールスポイント”をざっと書いてもらいたいと依頼した。(記者はそれまで営業部長の文章を見たことがなかった。) 出てきた原稿が関係者全員を驚かせた。ご本人は(格好をつけて)一所懸命書いたのだろうが、内容が凄まじかった。小学校低学年の作文の方がまだいい。稚拙な文体ではあっても、何を言いたいのかぐらいは分かる。支離滅裂で常人の理解の許容限度を遥かに超えていた。原稿、添削とか編集とかでなんとかなるような代物ではない。書いた本人がどう思おうが廃棄するしかなかった。別の部隊の人と記者が製品の特徴、注力市場などについて話しながら記事としてまっさらな状態から書き上げた。
高等教育も受けている。読めるし書ける。でも内容がない。これは非識字より程度はいいものの、準非識字とでも考えざるを得ない。非識字は、文字の読み書きを学習する機会がなかったことが原因とされている。であれば、準非識字-リテラシーが問題になる程度の能力に留まってしまう原因は一体なんなのか?
大学も卒業している、ちょっと古くさい言い方をすれば、“学士”さまだ。その学士さまが、年齢的には最も油の乗っているはずの四十代なかばにして準非識字状態にいる。まさか、全教育過程で受けた教育が“文字の読み書き”レベル-非識字を越えたところまでの能力しか身につけられないものだった訳じゃないだろう。
仕事を通してお付き合いさせて頂いてきた方々のなかに程度の差はあれ、準非識字と思わざると得ない人たちが結構いる。人の能力は一般的に持って生まれた天与の才能と努力の総合だと言われているが、準非識字、なぜそうなるのか説明がつかないままでいる。
Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集
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