いつか来た道を歩まぬために─真珠湾攻撃の日、全国の紙面報道から
- 2010年 12月 13日
- 時代をみる
- 12月8日「真珠湾攻撃」の日不戦の誓い新聞報道の責任鈴木顕介
「『12月8日の空の青さかな』読者文芸欄にあった端正な一句。1941年12月8日、日本軍はハワイ・真珠湾において米艦隊を奇襲。その日は朝から対米英開戦を告げるラジオの軍艦マーチで日本中がわきかえったという。それから60余年、今、人々は何事もなかったようにこの“悔恨の日”を忘れてゆく」(佐賀新聞「有明抄」)。
12月8日、東京の空は強い北風が吹き渡り、抜けるような青空だった。「帝國陸海軍は本八日未明西太平洋において米英軍と戰鬪状態に入れり」ラジオから流れる大本営発表。街は真珠湾の戦果で興奮に包まれた。当時、私は国民学校5年、10歳であった。寒さだけではない、背筋を戦慄にも似たショックが走った。ぞくっとしたその感触は、今なお鮮明によみがえる。僅か3年後、吹きぬける北風に乗って荒れ狂う焼夷弾の炎、一夜のうちにその街が、死屍累々の瓦礫の山に変わるとは夢にも思い描けなかったのだが。
過去を顧みて不戦の誓いを
敗戦の8月15日に比べ、そもそもその発端となった開戦の日は、年月の流れとともに忘却の淵に沈んで行く。今年、この日を日本の新聞メディアはどのように伝えたかを調べた。
スポーツ紙を除くと全国日刊一般紙は60紙、調査54紙のうちなんらかの形で取り上げたのは、全国紙の朝日、毎日と地方紙11紙にとどまった。その日を知る人は銃火を交えた人はもちろん、銃後で戦火に見舞われた人の記憶も、これらの人の命とともに失われてゆく。69年目という切の悪さもあろうが、メディアの反応はそれを反映しているといえるだろう。数こそ少ないが、戦争を考える紙面があった。
「真珠湾攻撃から2年。戦局は悪化し続けていたが、本紙を含め新聞は真実を伝えなかった。大見出しの戦況報道は歴史の反省としてのみ価値を残し、地方版の片隅の記事は時を経てなお新聞は何を伝えるべきかを問いかけている」(北海道新聞「卓上四季」)と動員農学校生の「援農隊」の受け入れ態勢不備を指摘する引率教員の意見を伝えた43年の記事を紹介。「時代は今、きな臭さが漂う。太平洋戦争から69年の今日。大きな声に迎合せず、愚直に非戦を訴える意義をかみしめる」と結んだ。
冒頭に上げた「有明抄」も「戦争を経験した人も、そうでない人も、不戦の誓いと、戦争への戒めとして誰もが忘れてはいけない太平洋戦争開戦の日。「開戦の日」を二度と戦争をしない“悔恨と戒めの日”に」と続けている。
「『戦うも亡国かもしれぬが、戦わずしての亡国は魂までも喪失する永久の亡国である』(永野修身軍令部総長)民のあずかり知らない「亡国の覚悟」の戦いに、新聞や知識人も加担した。内外の息苦しさが募る日本に、今また勇ましい言説が飛び交う。いつか来た道にはさせないと、改めて折り鶴の少女に誓いたい」(朝日新聞「天声人語」)─広島平和記念公園の原爆の子のモデル、12歳で命の絶えた佐々木禎子さんに託して不戦を誓った。
松山城近く「坂の上の雲ミュージアム」は、松山市出身の軍人秋山好古、真之兄弟らの足跡をたどる施設。NHKドラマ人気で訪れ人が絶えないという。「その少し南方にある蓮福寺の前に白い標柱がひっそりと立っている。『水野広徳墓所 松山市出身 海軍軍人 日露戦争に功あり 後反戦・平和運動に挺身』。水野は同郷の秋山兄弟の後を追いながら、途中で生き方を変えた元海軍大佐だ。きっかけは第1次大戦の欧州戦線。視察した水野は、近代戦による人命、都市などの損害の大きさに衝撃を受ける。「戦争を避くるには各国民の良知と勇断による軍備の撤廃あるのみ」。ドイツでのこんな演説記録が残っている。1921年46歳で退役すると文筆で平和を訴える。出版禁止などで締め付けを受けると、こんな短歌を詠んだ『世にこびず人にへつらわずわれはわれが正しと思う道を歩まん』」(高知新聞「小社会」)
事実を伝えぬ新聞
改めて当時の朝日新聞縮刷版で、国民が何を知らされていたのかをひもといてみた。太平洋戦争不可避の道を日本が歩み始めたのは、日本軍の南部仏印(ベトナム)進駐。これを対米英戦に備える軍事進出ととらえたアメリカが、対日石油禁輸に踏み切ったのが1941年8月1日。備蓄石油の枯渇で戦わずして屈服するか、戦うかの二者択一に日本は追い込まれた。
この日本人の死活にかかわる事態の進展を、日本の主要外貨獲得源、生糸の不買と合わせ「経済断交と同然」と見出しにうたったが、「我方の対策万全、自給体制確立へ邁進」と国内石油資源のほとんどない日本の実情からかけ離れた絵空事で国民を欺いている。この禁輸が資源獲得のための日米開戦、東南アジア侵略に結びつくのであればなおさらである。
開戦に追い詰められた日米交渉でのハル米国務長官の事実上の最後通告、ハルノートは11月26日に手交されている。紙面は会談の開催を伝えるだけで、その内容が明らかにされるは、開戦翌日12月9日の紙面に載った外務省公表の「日米交渉経過」まで待たねばならなかった。
開戦の時点では完全に政府が新聞を規制下に置いていた。当時の新聞に開かれた情報を求めるのは無理である。だが、それに至る過程で、新聞は自ら筆を曲げ、さらには時局に迎合して国民を煽った。
今までに挙げたコラムでの発言は、12月8日に当たって過去を振り返ったメディアの自粛自戒と、再び過ちを犯さない決意の表明と受け止めたい。このような言説がこの日を取り上げた紙面の少なさのように、今日本の言論界で少数派となっているやに、見られるだけになおさらである。
開戦時、街にあふれた興奮
記憶に残る開戦時、街にあふれた歓喜とも受け取れる興奮。ここに単にメディアの責任、政府に引きずられ国民は被害者という構図で片付けられない国民自身の責任が内在している。自らの熱狂が世論をつくり、それが為政者をさえ煽る力になったのではないかという疑念である。当時の街の雰囲気だけでそれを断定することは出来ない。子細な研究分析に待たねばなるまい。だが、尖閣問題をめぐる巷にあふれる言説を見れば、喫緊の課題でもある。
未だ公開されていないし、宮内庁自身はその存在すら不明とする昭和天皇の「聖談拝聴録」と名付けられた1946年にまとめられた記録がある。『昭和天皇二つの独白録』(NHK出版)に書かれた木下道雄御用掛が残した記録によると、昭和天皇はこの中で「わが国の国民性について思うことは付和雷同性の多いことで(中略)、多くは平和論ないし親英米論を肝に持っておっても、これを口にすると軍部から不忠呼ばわりされたり非愛国者の扱いをされるものだから、沈黙を守るか又は自分の主義を捨てて軍部の主戦論に付和雷同して戦争論をふり廻す。かように国民性に落ち着きのないことが、戦争防止の困難であった一つの原因であった」と述べたと記されている。
昭和天皇自身の戦争責任論議を脇に置いて、当時の国民の状況を見る一つの観察としてあげておきたい。
殺し合いの不条理、敵味方
西日本新聞は今夏ハワイ大学で開かれたワークショップ「歴史と記憶」に参加した鹿児島大学西村明准教授(37)の寄稿を載せた。この集まりは日米の教師が、ハワイと真珠湾をどう教えるかをめぐって2004年に発足、今年は日、韓、中、台、マーシャル諸島から40人が参加した。同氏の関心は「凄惨な記憶が社会の中でどのように伝えられていくのか」。戦争の歴史的事実が体験した人の視点や立場で異なる点に注目している。ハワイの日系人が真珠湾攻撃で祖国に裏切られたという思いで、積極的に米軍に志願した。先住民チャモロの日米とのかかわり、戦争記念に対する反応は、日本統治下のサイパンとアメリカ統治下のグアムでは全く違っていることを例に挙げた。「体験や認識の多面性を擁護することこそが、戦争を考え、互いに理解を深める上で最も大切….。戦争とはそうした多様性を「敵/味方」という単純な図式に押し込めようとする巨大な力である、ともいえるからだ」と論じた。
戦争が持つ最大の不条理は、全く互いに知らない者同士が、どちらの側にいるかだけで、「敵/味方」に区分けされ、殺し、殺される。戦った当事者にとって、単純な図式に押し込められた重みがいかに大きいが、この日の紙面からも読み取れる。
真珠湾での追悼式典を伝えた共同ホノルル電(静岡新聞、大分合同新聞掲載)は「たくさんの仲間と友人を失くした。数年前に式典で旧日本軍兵士と会った時も、私は彼らと握手できなかった。よく『恩讐を越えて』というが、私はいまだに越えられない」と語る戦艦アリゾナの生存者ダン・ストラトンさん(89)の話で原稿を結んだ。アリゾナは弾薬庫の大爆発で大破沈没、この戦闘で最大の犠牲者を出し、真珠湾攻撃の記念碑が残骸の上に作られている。
毎日新聞はこの攻撃に参加した空母飛龍の搭乗員城武夫さん(91)と空母と蒼龍の零戦パイロット原田要さん(94)の話を「強く静かに平和を祈る」の見出しで伝えた。城さんは後の戦闘で右目の視力を失い教官に。教え子の多くを特攻隊に送った。飛龍搭乗要員108人の生き残り11人の1人となった。「男子の本懐でした」と真珠湾を振り返るが、戦後郷里の教育長となって若者の教育に力を注ぐ。「二度と戦争を起こさないためには、自分を大事にすること、人の気持ちを分かる人であってほしい」と話す。原田さんは撃墜した敵兵の苦しむ顔が浮かぶ悪夢でうなされた時期もあったという。「戦争はゲームとはまったく違う。残酷ですべてを奪い、取り返しがつかない」と今も小中学校での証言活動を続ける。
戦争の狂気、皆殺し
朝日新聞は12月6日から戦争の実像を記録する6回続きの企画「65年目の『遺言』」を載せた。第1回は名古屋空襲の被害者、松野和子さん(83)。油脂焼夷弾に焼かれ、両足を切断した。17歳9ヶ月、それからの苦難の長い年月は、2つの写真、被災前の少女の笑顔と、認知症なって笑みが増えたという車椅子の顔が物語る。「戦争が終わり、民主主義の国になって差別されたことは忘れん」。政府は全国に50万人という非戦闘員、民間人被害者への援護はおろか、実態さえもつかんでいない実情が浮き彫りになる。
上毛新聞はコラム「三山春秋」でアメリカの側から東京大空襲をみる。マクナマラ元米国防長官が主演したドキュメンタリー映画「フォッグ・オブ・ウォー」で彼は「私は1945年3月、女性や子供を含む10万人の東京の住民を焼き殺す計画を進めた組織の一員だった」「一晩に10万人の市民を焼き殺してはならない」上官を含めて「犯罪行為を行ったのだ」─と語る。
マクナマラが告発したのは、総力戦と称して相手国の政治、経済、社会体制のすべてを破壊しなければ、勝利は得られない、と非戦闘員を含めた殺戮を正当化した現代の戦争の狂気であった。
時と歴史観が阻む戦争体験の伝承
もう一つのこの日の紙面から読み取れるのは、戦争体験の伝承の難しさである。
長崎新聞は「海の果て、開戦69年元兵士の記憶」と題して3回の連載を組んだ。「戦争で何があったか、を本人から直接聞く機会は遠からず失われる」と企画の狙いを書いた。
朝日新聞の「65年目の『遺言』」の2回目以降には、戦艦大和の生存者であり、広島救援での二次被爆者、横須賀海軍病院の看護婦、全滅したサイパン守備隊生存者、密林に逃げて命をつないだフィリピン・ミンダナオ移住日本人、軍人恩給を拒んだ歴戦の元下士官の5人の戦争と戦後が登場する。ミンダナオ移住者樋口友恵さん(79)を除けば、すべての人が80歳代、最終回の元下士官は取材予定の前日に急逝した。この現実が物語るように戦争の生き証人が日一日と去ってゆく。
それと並んで問題なのは、自らの記憶に刻まれた戦争体験と、伝え聞いた戦争体験の間にある越えがたい溝である。さらに自らの価値観、歴史観が加われば、何を伝承すべきかの問題に逢着する。
熊本日日新聞が伝えたハワイ日系2世ヤスノリ・デグチさん(86)は、真珠湾で人生が変転、欧州戦線でその名を知られた日系人442連隊に所属して戦った。戦争は「いくら話しても経験をした者にしか理解できない。決して映画のシーンのようなものじゃない」と語る。
近現代史博物館の建設、日米首脳の広島、真珠湾訪問を
開戦の日を取り上げた紙面の中で唯一社説でこの日を書いたのが、信濃毎日新聞である。表題は「歴史認識を鍛えよう」。「歴史のとらえ方は難しい。一人ひとりの体験や価値観、考え方により、百人百通りの歴史観があり得る。そこに摩擦が生じる。」と指摘。15年前スミソニアン航空宇宙博物館が企画した原爆展が、広島、長崎の原爆被害を入れることに対する退役軍人の反対で中止に追い込まれた例。ナチスのユダヤ人虐殺が歴史上類例を見ない犯罪か、否かをめぐる1980年代半ばのドイツの「歴史家論争」を挙げた。日本では、国立歴史民族博物館での沖縄戦の集団自決説明文をめぐる、日本軍の強制とする原案取り止めと、それに対する沖縄の異議申し立て。長野県松代大本営跡に平和主義者として、硫黄島の指揮官栗林忠道中将の顕彰碑を建設する是非をめぐる論争を例示した。太平洋戦争、大東亜戦争、日中戦争、十五年戦争─1931年の満州事変に始まる先の戦争について、名前すら定まっていないのは「国民が共有できる歴史観がいまだに確立されていない」からだと指摘する。
その上で「先の戦争の全体像をとらえて内外にメッセージを発信する国立の施設、近現代史博物館」の建設を提唱する。建設に当たっての歴史観の基盤として、「私たちには確かな足掛かりがある。憲法だ。平和主義、国民主権、基本的人権の尊重、の三大原則は国民大多数が支持している。」と憲法の理念を挙げる。具体的には「戦争の惨禍を経て平和憲法を持つに至った経過と、その後の歩み。この観点に立つ博物館なら可能なはずだ。異論が残る部分については両論併記とし、議論を重ねる中で一致できる部分を増やしていけばいい。」と提案。「旧日本軍の足跡が残る国々との確かな信頼関係を築いてきたとは言い難い。歴史館は日本がアジアで生きていくためのよりどころにもなる」と建設の意義を挙げる。その上で「来年は日米開戦70年の節目だ。8月6日に米大統領が広島を、12月8日に日本の首相が真珠湾を訪問すれば、実り多い年になる。」と提唱する。
相互訪問については、毎日新聞大貫智子記者も「記者の目」で次のように書いている。
被爆地と真珠湾の日米首脳の相互訪問という構想は、戦後の節目の年に検討されては見送られてきた。原爆投下と真珠湾攻撃という最も難しい過去に向き合うことが、日米同盟の基盤を強固にし、日米の相互信頼の醸成(に役立つ)。まずはホノルルAPEC(来年11月)に向け、首相の真珠湾訪問を早急に検討すべきだ。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔eye1120:101213〕
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