帝国への隷属と国内官僚支配の並立
- 2010年 12月 14日
- 評論・紹介・意見
- 官僚支配帝国への隷属浅川修史
アメリカ合衆国はしばしば現代のローマ帝国と呼ばれる。これに対する異論は少ない。それでは現代のローマ帝国の属州ともいうべき日本に類似した国は歴史上存在したのか。筆者がちきゅう座の同人と喫茶店で四方山話をしたことがある。その後、筆者はない知恵を絞ってこのテーマについて考えた。以下はその続きと思って気楽に読んでください。なお学問的精密さが足りないことは筆者も自覚しているので、訂正や叱声をお願いします。
さて、ベンチマーク(比較のための基準)を4つ設定した。
1 日本は象徴天皇制の国家で形式的には君主制とも、君主に実権のない国家(ステート)とも考えられ、学説が分かれているが、一応「王国」とする。2 大帝国の属州であること。3 属州の中では官僚が支配する国家であること。4 経済大国である時期があること。
ローマ帝国との比較からまず筆者の頭に浮かんだのはローマ帝国の属州であるヘロデ王国(BC37年からAD93年ころ)である。この時代は短いが、後世に甚大な影響を与える事件が次々に起きている。①キリスト教が生まれ(AD30年ころか)、②ユダヤ戦争(AD66年)でユダヤ人の対ローマ帝国独立戦争が敗北し、③その結果、ユダヤ人の離散(ディアスポラ)が始まり、④キリスト教がユダヤ教から分離を始めて、かつユダヤ教諸派の中で、パリサイ派のユダヤ教(ラビのユダヤ教ともタルムードユダヤ教とも呼ぶ)だけが生き延びて今日に至る大事件が起きた。
ただ、当時のヘロデ王国は 1と2の条件は満たしているが、3と4の条件は満たしていない。
次に頭に浮かんだのは朝鮮王朝(1392年から1910年)である。朝鮮王朝は4を除いて条件をほぼ全部満たしているようかに見える。とくに朱子学に基づく科挙合格者=知識人による官僚支配と文治主義(文民が軍人より上位)いう点では、現在の日本と共通する点が多い。明や清という当時の大国の属国という点でも条件を満たしているように見える。ただ、明や清は筆者の知る範囲では朝鮮王国を監視するために諜報機関の支部(たとえば明の東廠、現在のCIAに相当?)を朝鮮王国内に置いたが、朝鮮王朝に常設の軍事基地や兵力は置いていない(16世紀の壬辰倭乱、19世紀の日清戦争の時期を除く)。ちなみにヘロデ王国にはローマ軍が駐留していた。
探しあぐねていたときに思い浮かんだのが、エジプト、シリア、ヒジャースに君臨していたマムールク朝(1250年から1517年)である。ただし、オスマン帝国に征服(1517年)されてからのエジプト・シリアを比較の対象とする。
オスマン帝国のセリム2世はマムルーク朝を破り、シリア、エジプトを征服して、アラビア世界の中心を傘下におさめた。動機はシーア派を国教とする強敵・サファヴィー朝イランの勢力がアラビア世界に伸びることを阻止するためである。
以後、第1世界大戦後まで約400年間もアラビア世界はイラン世界(注1)に属するオスマン帝国に支配される。セリム2世のカイロ入城は、米国の日本占領にたとえられると筆者は考える。
マムルーク朝は優秀な王国だった。アッバス朝の子孫をカリフ(イスラム教の信徒の長)として形式的に立てながら(象徴天皇制?)、実権はマムルークとアラビア語で呼ばれる奴隷身分の官僚や軍人が握る制度を採用していた。今のウクライナ、北コーカサス、トルコなどから奴隷として購入されることの多いマムルークは血統ではなく、その能力で統率者が決められた。
マムルーク朝は1250年にフランスのルイ9世が指揮する第7回十字軍を撃退し、さらに1260年には破竹の勢いのモンゴル軍をシリアで破った。その後もモンゴル軍を寄せ付けず、ヴェネチアと同盟して、地中海の中継貿易で繁栄した。
ほぼ同時期、モンゴル帝国を破ったことでも日本とマムルーク朝は似ているが、陸戦では当時無敵のモンゴル軍を破ったマムルーク朝は賞賛に値する。その理由の一つが当時キプチャークと呼ばれた地域(現在のウクライナあたり)から、モンゴル軍に追われて亡命していたマムルークたちがたくさんエジプト・シリアに存在しており、敵の手の内や編成を知っていたからだ、という解説がある。
全盛期にはエジプト、シリア(現在のシリア、ヨルダン、イスラエル、トルコ南部)のほか、アラビア半島のヒジャース地方(イスラム教の2大聖地がある)まで支配する。
ところが、この優秀なマムルーク朝もさらにより広範囲に組織的にマムルークを駆使したオスマン帝国に征服される。オスマン帝国の宰相、高級官僚や最精鋭軍団・イェニチェリはマムルークで構成される。ところが、オスマン帝国の支配下にあっても、エジプトのマムルークは全滅したわけではなく、一部がしっかりと生き残り、オスマン帝国下、エジプト・シリアの民衆に「官僚支配」を敷く。エジプト・シリアの民衆はオスマン帝国と自国のマムルークの二重支配にあえぐことになる。このあたりも戦後、陸軍省、海軍省、内務省は消えたが、そのほかの官僚機構の骨格が残った日本と似ている。
さて、このマムルークたちが全滅するのは、1798年のナポレオン・ボナパルトのエジプト遠征を待たなければならない。フランス革命で国民国家という義務教育、徴兵制、愛国心を基礎にする新しい民衆統合の形態が生まれ、高度な戦争遂行体制によって、かつては先進的だった奴隷身分から広く優秀な官僚や軍人を登用するイスラム世界の人材登用制度=マムルーク制を打破するまで、続くのである。
ただ、現在の日本とマムルーク朝以後のエジプトは、前述した4つのベンチマークの3つを満たしているが、最初の1の部分=王国を満たしていない。というのは、マムルークの傀儡とはいえ、マムルーク朝のカリフとして君臨していたアッバス家のカリフがセリム2世によって、イスタンブールに拉致され、その後消息不明になったからである。
オスマン帝国の皇帝は、セリム2世以後スルタンとカリフを同時に名乗ったとされることから、マムルーク朝のカリフは断絶したと見るべきだろう。
とはいえ、筆者の知る範囲では歴史上、日本に類似した存在を探すとなると、オスマン帝国支配下のエジプト・シリアがいちばんふさわしいと考える。
注1 イラン世界について。外部からは一つに見えるイスラム世界はアラビア世界とイラン世界に二分できる。市場(いちば)をスークとアラビア語で呼ぶのがアラビア世界で、北アフリカから中南部アフリカ、アラビア半島に広がる。マレーシア、インドネシアは双方の影響が浸透しているが、あえて二分すれば、アラビア世界に属すると思う。
一方、市場をバザールとペルシャ語で呼ぶのがイラン世界で、オスマン帝国はイラン世界に属する。イラン世界はヨーロッパのボスニアから、トルコ、イラン、アフガニスタン、パキスタン、インドのイスラム世界に広がる。イランとイラク国民の多数派は同じ12イマーム派のシーア派を信仰するが、イラン世界とアラビア世界の鋭い断絶がある。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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