人を貶める文化
- 2015年 3月 13日
- 交流の広場
- 藤澤豊
会社でただ一人のベテラン営業が厳しい口調で驚く言葉を口にした。「私を陥れようとしてるんですか」驚くというより耳を疑った。小説や映画のなかでもこの言葉がでてくる状況はなかなかない。固い業界で堅い仕事をしているところで聞けるような言葉ではない。還暦過ぎまでいろいろな会社を渡り歩いてきたがこの言葉は初めて聞いた。機械屋には職人気質の荒っぽいのもいて、怒鳴りあいだけでは収まらないことも多い。スパナは投げるは、机に飛び上がって相手に飛びかかって、まるで西部劇の殴り合い喧嘩のようなのまで見てきた。それでもこの言葉、今までお世話になった職場では聞けなかった。頼まれ仕事を始めて数ヶ月、予想はしていたがとんでもない会社に来てしまった。
多少なりとも込み入ったことや何か技術的な知識が必要なのではと感じれば出てこないというより逃げる。それが
ちょっとしたどうでもいいことで自分が理解し処理できる領域のことだと思うと、社長としての存在をアピールできる機会とでも思うのか、煩わしいことが起きる。
基本的な知識というより全てにおいて知識という知識がない。そのため何を聞くにも要を得ない。傍で聞いていて、それを聞いてどうするということを、ああでもないこうでもないと理屈を捏ね回して問いただし始める。日常業務で忙しい営業担当にしてみれば、最初からうっとうしい、煩いという気持ちもあったのだろう。それでも最初は聞かれるままに返事していたのだが、知りっこないことまで聞いてくるのにイライラが募って、つい口をついて出てしまったのが「私を陥れようとしてるんですか」。
人に聞く前に資料なり何なりを自分なりに整理して、トラブルなり課題なりの全容の鳥瞰図でも描いてから、抜けなり追加情報をという仕事の仕方すらできないというのか分からない。何を知りたいのか、知らなければならないのかもはっきりしないまま、思いつくままに聞くものだから、聞いたことを全体の流れの中のどこに位置するものかの判断もできない。
当然話があちこちに飛ぶ。聞かれて答えて、答えようのないことまで答えられるはずとでも思っているのか、そこまで考える知恵もないのか、個人の興味で聞いているのか、それとも部下いじめのために聞いているかもしれないと思われても不思議ではないところまでいってしまう。
要を得ないだらだらした質問。答えようのないことまで聞かれて、いったい何をしようとしているのか不審に思ってもおかしくない。何を知ったところで何をする能力も意思もないのは分かっている。そこに答えようによっては、答えの取りようによっては答えた人が問題を作ってしまって、その処置を怠っているとされかねないと思ったら、どうなるか。それでもフツーの事務所で「私を陥れようとしているんですか」という言葉はでてこない。
その言葉がでてくる背景を素直に想像すれば、その会社では歴史的に人を陥れるようなことがされてきたとしか思えない。その言葉を発した人はそれを見てきた、あるいはその人自身が人を陥れて、あるいは人に陥れられたことがあるからこそ、無意識にその言葉がでてきたのではないのか。
日本支社に最低限の技術の“ぎ”の字も分かる人がいない。知り合いの業界紙のエライさんに技術屋を一人紹介してもらえないかと頼んだ。工作機械業界からその関連業界に広い人脈をもった業界通の人、誰か一人くらい紹介してくれるだろうと思った。日本に支社を開いた二十数年前からの歴史を逸話を交えながら聞かされた。日本支社の従業員のなかでは在職六年が一番長い。歴代の経営陣や従業員にも設立当初から今日に至るまでを語れる人はいない。話は聞かされたが、誰かを紹介するという話にはならなかった。口調から言外にそこには人を紹介できないと言われた。
懇意にして頂いている工作機械メーカにお伺いしたとき、穏やかだが何かひっかかる響きのある言い方で、以前は結構技術の分かる男性社員もいたんだけどね。。。と言われて、そのときは何かひっかかるまでだった。
ラックの真直度で一騒ぎになったとき、その社長が言外に言ったことに気が付いた。たわんだ、捩れたラックを真っ直ぐな面に押し付けて真直度を測るという測定方法、技術屋として多少なりとも良心が残っている者には受け入れがたい。何も知らなければスイスでもドイツでも本社が言ってくることそのまま真に受けて、あたかも自動翻訳機のように英語から日本語に翻訳して日本の客に主張するだろう。そんなことが平然とまかり通るところにまともな技術屋が居つくとは思えない。
技術的知識なしではまともな仕事のしようがない技術を基盤とした固い業界で、多少なりとも技術知識を持っていれば会社に馴染みきれない。何も知らずに英語で言われたことを-技術的な理解なしで、文字通り適当に日本語にして、客に言われたことを英語にして日常が進むしかない会社で、人はどのような視点で評価され得るのか。
仕事上の能力以上に人と人との付き合い-立場上の上下関係で人に阿る、人に命令するという環境にどれだけ適合できるかでしなくなる。業務上の能力とその結果より、人間関係と言えば聞こえはいいが政治がらみ、しばし政治闘争のような、お互いの利害関係をもとにした合従連衡や権謀術数にまで堕しかねない。
まっとうな人がまっとうなことを主張したとして、それが上の人(たち)や関係者にとって個人の立場や利益を危険にさらしかねない-時にはうっとうしいというだけでも貶められかねない。
業界紙のエライさんも工作機械メーカの社長もこれを外の目で見てきたのではないかと思う。人を貶める文化のところに身を置こうとすれば、その文化に馴染まなければならない。馴染んだ結果として出てきた言葉が「私を陥れようとしてるんですか」だろう。
馴染みたくないというより馴染んじゃいけない。馴染んで人を信頼することを忘れてしまったら人として何が残る。そこまで自らを人を堕してどうするんだろう。堕してしまった人をどうしたら救えるか。余計なお節介でしかないだろう。そんなところでそんなお節介を親切ととる人はいない。人としてのありようの問題になる。
Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集
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