現代の知の巨人の系譜・大江健三郎氏から植草一秀氏への個人的期待と「同時代言論の地平」//言葉という魚を得たる者の増殖と沈黙する大衆の生と死の関係についての第一試論
- 2015年 5月 13日
- 交流の広場
- 武田明
序 生きている事は素晴らしい事か?反抗的人間の領域を考える逆説ともう一つの「人間臨終図巻」
前口上「生の賛歌」と「死の哲学」
死の哲学の系譜は、やはり、太宰治の「人間失格」以来の出会いであり、幼少期からあったように思う。死が身近にあったのは、むしろ、それぞれの「貧困」が、それを、直に考えさせる関係性によるものであり、最重要性をやはり免れないのだ。
山田風太郎、白土三平、そして、かつて経てから魅せられたる市川雷蔵の「忍者」、生と死が、「花火」の様に取り扱われているあり方が、むしろ、幼少期には、わかり易いエンターテーメントであった事を今更に様に、省察されるのである。
「生の賛歌」である側と一線を画する陰と陽の哲学への共同文化性のわかり易い図式が、ここにあり、生きている事の美学、最初の出会いのサンプルをここに感じるのだ。
それより前には、「小さなものへの慈しみ」としての自然がかつてはあった。
白土三平少年が、「きのこ狩り」にて見つけた世界。ファーブル昆虫記、シートン動物記などの「観察眼」であり、それは、ある意味、盲目的とも言える「生の賛歌」の最初の発露として、あったのであり、その原初性を「死の哲学」と対比しながら仕上げなくてはならない。
自然の中で、見出したものが、その共通感覚に、都市の子供が、奪い去られているとしたなら、それは、残念なこととも言えるかも知れない。
「生の賛歌」だけでは物足りない。「死」と「貧困」、陰と陽は、つながっている。
それは、逆に、「豊かな」体験としての財産であったのかも知れない。分析を有する省察が、今にあるのを感じる。
陰、死、貧困が、「悪」に直結しているわけではなく、「自然」の中に既にあるものとして分析しなくてはならない。
(序‐2)
何が、どの様に連動しているのかを考えるのは面白い。
ちきゅう座「交流の広場」のNew!の枠は、10件となるようですが、僕が、既に、『ちきゅう座読本』提案関連で、二件書いていたものが、まだ、その狭い枠の中に残っていたので、『ちきゅう座読本』外伝と題字したものは、10日に書いたものであったが、掲載されたのは、12日、二日間が空いていたが、二件同じ人物の同じ様な文章で席巻してしまい逆に申し訳ないように感じてもいた。
僕の書くものは、時事的な政治問題や集会広報と言うよりは、「文学」的「思想」的普遍的なものが多いので、無駄な饒舌にもなりかねない。実存的際限のない饒舌を唯物論的に戒めていきたい欲求があるのだが、どうしてもわかり易い対話のつながりや説明性としての補完部分を外せない主題性を感じるのは、サルトル研究から開始した大江健三郎文学がいまだにあるからであり、文学への回帰こそが、現代人の忘れている豊かさであり、資本主義大量商品文化消耗コピー文化に対して、対抗する根拠でもあった事を思い出しながらやっていることでもあるからだ。
しかし、吉本隆明も大江健三郎文学も僕個人の狭い「同時代性」としてあまりあり、次から次と迫りくる大問題への「同時代言論としての地平」を優先としなくてはならない、逆に、嬉しい意味での恨めしさもあるわけなのだ。
過去の研究に没頭したい個人としての大問題、主題点もあるのだが、新しい問題点としての「同時代性」が刷新されざる負えない二重性の解決がある事、それへの対話性こそが、社会性であり、「共同主観性」でもあるからだ。
簡単に言うと僕にとっての文学哲学的大問題は、幼少期は、太宰治―白土三平から
サルトル―大江健三郎―廣松渉―マルクスであるのだけれども、(三島由紀夫―吉本隆明にも興味あっても、短い個人的な生涯にあっては、残念ながら断念せざるをえない。)『家の馬鹿息子』『永遠に失われたる時間―死の哲学』。
現在、優先される「同時代性」主題としては、「ちきゅう座」-植草一秀-ピケティ?-となっているだろうか?
打てば響くものがあり過ぎて特に、植草一秀先生には、これ以上の感謝の気持ちに絶えないものを感じているのです。
それが、何を指しているのかを明確に、具体的に、唯物普遍的な意味として、共有のものとなるのか問いたいと僕もついつい饒舌にもなってしまっているわけです。
ツイッター連携もあるので、インターネット技術論の拡大と「ちきゅう座」の動画的関連まで、総会にて、聴きたいことが山ほどあるのですが、一気に、書くことも出来ないので、「ちきゅう座読本」提案をお休みして、今回は、植草一秀ブログの刷新について僕の後追いとしての展開と民主主義的広報について主題としたい。
ようやく、本題へとたどり着けた。いつも前口上が長すぎて、すみません。
第一部
大阪市民が都構想を否決しなければならない理由
http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2015/05/post-cfec.html
陰に隠れているが、都構想問題は、ツイッターにて随時話題となっていて興味があるものの、時間もなく、語られていなかったものであり、ようやく、ここに導入部が出来たように思います。
ちきゅう座でも、日々のそれぞれの忙しさに、言及されている諸先生も少なく、それよりも、原発や辺野古だけでも、膨大な研究主題が、山積であって、まさに、一人に人間や少数派であるアソシエ派論陣にとってもアップアップしていた多重性問題であり、やはり、プロジェクトチーム拡大、ちきゅう座仲間をデモや集会から増殖していかないと資本主義の終焉期は、とっくに通り過ぎていると言うのに、改革が立ち行かない、市民派民衆派政党の結成さえ立ち行かない状況である危機感をもっと広げなくてはならない様に感じているばかりなのです。
最悪の愚策「真珠湾攻撃」から学ぶべきこと
http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2015/05/post-b268.html
孫崎享さんの著作から、新アメリカ外交論としての外交政策論を具体的に展開しなくてはならない、最前線的提言であると僕は、この一文を高く評価するのです。
この部分から、更に、アメリカの戦争史、「ベトナム戦争」から、311「イラク戦争」、「アラブの春」ガタフィ大佐、惨殺加担、「イスラム国」問題までの戦争犯罪論と辺野古アメリカ前線基地論とアジア、中国、韓国、北朝鮮、外交論は、密接な関連を持っているので、
いつも思うのは、何故、カムイ伝第三部を描くのは、白土三平氏独りであるのか(作画チームはあり、弟や家族も手伝っているようですが)、チームで、プロジェクトを組めないのかと思うのです。
孫崎享外交政策プロジェクトチーム、そして、政治経済部門、植草一秀チームとしての広がり、対抗の場として、政党化として、出来ない、個人の研究を待っているだけでしかないのかの疑問が、あるのです。
個人からチームへは、映画製作やアニメ制作においても同様であり、また、著作としても、同様であると言うのが、これまでに語っている『ちきゅう座読本』テキスト化も同じ位相にあるわけです。
パーソナルな牢獄こそが、人倫に背く、資本主義の最たる政策であり、労働者や反抗的人間を収容所に結び付けてきた最たるものです。
共生と「人間の可能性」の解放としての社会主義政策論としては、プロジェクトチームが、基本になり、
それは、大江健三郎さんの「同時代ゲーム」更に、故廣松渉氏の「共同主観性の哲学」の実践的基盤であり、何故、その様に、踏みださず、知の巨人たちを孤立させ、プライベート牢獄に隔離したままであるのかが疑問である故の『ちきゅう座読本』的進みだしを諸先生にもお願いしたいと言う簡単な提案であると僕は、考えているのです。
【オールジャパン:平和と共生】連帯運動を始動する
http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2015/05/post-417c.html
前回の外伝は、これを基本として展開していましたが、誤字が、あり過ぎて、分りづらかったことをお詫びします。
三大課題(原発・憲法・TPP)
それに対して、
三つの基本問題(消費税・基地・格差)です。
お詫びして、訂正します。
さて、最大の残されている疑問は、こちらです。「辺野古埋め立て「撤回、法的に可能」」問題は、どうなっているのでしょうか?力押しだけではない、法的戦いについてです。
埋め立て承認撤回しない理由は工事進捗の推進?
http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2015/05/post-3080.html
どれもこれも、時間との戦いなのです。
のんびりしていると「資本主義の終焉」は、最悪の財政赤字と未来の食いつぶし、富裕層の破壊行為、更に、利権的原発再稼働的人類の破滅的被曝犠牲に至る、生き残り、手塚治虫先生の「火の鳥」の様な未来、黒澤明監督の『夢』の様な世界も現実的に迫って来ていると言うわけです。
新しい政治行動としての市民民衆政党とプロジェクトチーム、更に、テキストとしての『ちきゅう座読本』の広報、学習会展開、啓蒙的対話は、急務であるだけです。
この危機感を共有するもを是非、植草一秀さんと共に、日々を改革して、2015年から2016年へと安倍内閣自民党独裁を追い詰めていきましょう。
続く。
今回の付録:もう一つの人間臨終図巻
http://revolutio.exblog.jp/21783951/
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