5/30世界資本主義フォーラム(研究会)用参考資料
- 2015年 5月 21日
- スタディルーム
- 小幡道昭矢沢国光
●日時 2015年5月30日(土) 午後2時~5時
●会場 立正大学大崎キャンパス 11号館4階 114D教室
最寄り駅からの地図は http://www.ris.ac.jp/access/shinagawa/index.html
キャンパス地図は http://www.ris.ac.jp/introduction/outline_of_university/
introduction/shinagawa_campus.html
11号館は、山手通りに面した高い建物です。山手通りから直接はいるのが便利です。
●講師 小幡道昭氏(東京大学経済学部教授)
著書:『経済原論―基礎と演習』(東京大学出版会)、『価値論批判』(弘文堂)、『マルクス経済学方法論批判: 変容論的アプローチ』(御茶ノ水書房)ほか
●テーマ 「資本主義の世界史的発展段階をどうとらえるか」(仮題)
参照文献:
(1)小幡道昭、宇野理論とマルクス(2014 年12 月)
http://gken.sakura.ne.jp/gken/wp-content/uploads/2014/12/main1.pdf
(2)小幡道昭、原理論からみた段階論(2012 年4月)
http://www.cirje.e.u-tokyo.ac.jp/research/dp/2012/2012cj239.pdf
小幡氏は、宇野原理論・段階論への批判にもとずいて、「資本主義の単一起源説から多重起源説へ」、「プレート論」を提案しています。方法論だけでなく、「グローバリズムと総称される新たな歴史的諸現象を見据えながら、原理論に遡って、資本主義とはなにか、その全体像を再構築する必要がある。」という問題意識に添って、いま考えていることも、話してもらうつもりです。
●参加費無料。どなたでも参加できます。
● 問合せ・連絡先
矢沢 yazawa@msg.biglobe.ne.jp 090-6035-4686
20150520 小幡「宇野理論とマルクス」を読んで
2015年5月20日 矢沢国光
順不同で感想書きます。
(1)グローバリズムについて
1970年代以降の世界資本主義の地殻変動(グローバル化)の根底に「非先進地域・諸国の工業化」がある、という認識に対して私は、半分賛成し、半分疑問を持ちました。
賛成する理由は、中国を中心とする新興諸国の台頭が世界資本主義の今後を決める大きな要因になっているからです。
疑問は、グローバル化のとらえ方として、資本主義の外的な拡張を見るだけでは不十分ではないか、ということです。資本主義の内的な機構――「資本蓄積様式」と従来言われてきましたが、より正確には「資本の運動法則」――の変化としてとらえる必要があるのではないか。
いいかえると、この「新興国要因」は、直接、それ以前の資本主義の内的機構――「金融資本主義」から生まれたものではなく、先進諸国の投資の飽和、冷戦体制の崩壊などの産物であり、経済理論的には「資本の運動法則」に対しては外部的条件とみるべきではないでしょうか。
※グローバル化時代の「資本の運動法則」とは何か、という問題になりますが、その核心は、すでに多くの人が認めているように、「金融の産業からの遊離・独自運動化」にあると考えます(「超金融資本主義」と呼んでおきます)。英米金融資本を中心とする国際投機資本が、国民経済の外部から諸国民経済を揺さぶる時代に入った。一連の中南米経済危機、1997アジア通貨危機、2008リーマン危機など。
(2)「マルクス・レーニン主義」について
マルクス「資本論」第一巻の 収斂説・内部崩壊論[失業の大量発生]⇒先進国革命論にたいして「資本論」第二巻は 浸透・分解説⇒周辺革命論を内包しているという見方は、なるほどと思います。小幡さんはマルクスの二つの資本主義像がその後(「帝国主義段階」)の「マルクス・レーニン主義」に統合・継承されている[二段階革命+世界革命]、とみています。
レーニンの「帝国主義戦争を内乱へ」は、マルクスの「恐慌革命論」を越える革命論として世界の革命派の支持を得ました(日本の1950年代末~1970年代の反正統派新左翼も)。ただ、この「マルクス・レーニン主義」を「革命の中心が西ヨーロッパ先進資本主義国の内部から外へ外へと出て行った」とみるのは、どうでしょうか。第一次世界大戦時に起きたロシア革命や第二次世界大戦時に起きた中国革命をどうみるかという問題でもあります。私はロシア革命も中国革命も、社会主義革命と言うより「反帝民族解放革命」だと思います。
レーニンは19世紀後半から20世紀初頭にかけての世界資本主義を「資本主義の最高の発展段階としての帝国主義」と規定しましたが、経済的独占体(資本の株式会社化=金融資本化)と帝国主義の政治的軍事的支配をあまりに直接的に安易に結びつけているように思います。「帝国主義」はイギリスに資本主義が確立する以前からあり(重商主義帝国主義)、帝国主義間の対立が20世紀の二度の総力戦的世界戦争になったについては、19世紀後半の国民国家=国民経済による軍事力形成競争や国際金本位制世界経済システムの解体といった経済要因を無視することはできないと思います。
第一次世界大戦の「世界革命」にとっての意義は、旧帝国――ドイツ帝国、ロシア帝国、オーストリア・ハンガリー帝国、オスマン帝国――が解体したことで、そのあとに生まれた「民族自決」政権の一つがロシア・ソビエトとみることができます。
「 革命はつねにこのフランス革命と同じく、民主主義・社会主義・民族主義の混交態であり、広い意味でのブルジョア革命以上でも以下でもないことがわかる。ロシア革命もフランス革命と同型であり、パリコミューンのコピーであり、それは植民地解放闘争に延長された」という小幡さんの革命観には、共感できます。
第二次世界大戦では、ドイツ帝国が最終的に解体され、ヨーロッパ以外の「植民地」も「民族自決」しました。中国共産党は「マルクス・レーニン主義」を掲げて抗日戦争を戦い抜いて共産党政権を樹立しましたが、「社会主義」をめざしたのは解放区政権時代(だけ)で、国民国家として自立したとたん、社会主義は看板だけになり、国家としてのアイデンティティは「反日本帝国主義・民族解放」(冷戦時代は「反ソ連」が加わる)になりました。
こうした国際政治――国民国家の勢力均衡の力学――の延長として、今日の冷戦崩壊・新興諸国の台頭――があります。
言いたいことは、「帝国主義段階」は、第三世界の民族自決が目立ちますが、かといって「革命の主力が第三世界に移った」と考える必要はない、ということです。ましてやその「経済的根拠」を「浸透・解体論」に求める必要もないということです。
「マルクス主義では、ブルジョア革命で権力を握った資本階級を、労働者階級が打倒するのがプロレタリア革命であり、この革命を通じて社会主義に移行するというテーゼが一般に受け容れてきた。」
この「テーゼ」はいまでも「戦後革命運動」世代のかなりの人たちに信ぜられています。
「資本主義」は廃棄されるべきだし、「資本主義を支える権力」は打倒されねばならないと私も考えますが、それを担う「労働者階級」はどこにいるのか?
経済学が「労働者階級」という「イデオロギー」を作り出してきたとすれば、それを正すのも経済学の役割です。
その前に、なぜ「資本主義は廃棄されねばならないか」「資本主義はどのようにして廃棄されるか」を、経済学はあきらかにしなければならない。宇野経済学はそのことを課題にしてきたし、いまでも課題だと思います。
(3)段階論について
宇野は「収斂説・純化論」の行き詰まりから「帝国主義段階」を設定し、そこから「段階論と原理論の分離」が始まった、と小幡さんが言うのは、その通りだと思います。
しかし「帝国主義段階」を「浸透・分解説」に結びつけて理解するのは、疑問があります。資本主義は周辺の非資本主義的経済に浸透し分解するのは事実ですが、分解しきれない。資本主義は部分的生産に留まる、という岩田弘説に賛成です。資本主義の「浸透・分解」は「帝国主義段階」を特徴付けるものではなく、資本主義の初発から今日まで一貫してある作用とみるべきだとわたしは考えます。
では、(経済に限ってみた場合)「帝国主義段階」がそれ以前の資本主義と区別される特徴はなにか。「資本の株式会社化」と「国民経済」の成立です。「株式会社」(資本の商品化)については、ヒルファディング以来みなが指摘することですが、「国民経済」については経済理論の外に置かれてきました。
「国民経済」の成立にははっきりしたメルクマールがあり、それは「中央銀行の成立」です。「中央銀行の成立」が意味するのは、「中央銀行券という国民通貨の成立」ですが国民通貨が存立するためにはその経済的裏付けとしての自立した(租税・公債でまかなえる)「財政」と国際収支の均衡(健全な国民経済)が必要です。貨幣論の行き着く「中央銀行貨幣」を説くためには、「金本位制」だけでは不十分で、国民通貨の裏付けとしての「国民経済」が必要です。「国民経済」はそれゆえ経済理論に不可欠です。
※「国民経済」は世界資本主義の最初期からあったわけではなく、16世紀のオランダは世界金融の中心ではあったが「国民経済」は形成できず、[中央銀行の成立時点で見れば]まずイギリスが17世紀に「国民経済」になり、ついでフランス、ドイツが19世紀に「国民経済」になり、20世紀になってアメリカや日本が「国民経済」になった、という経過です。
「多重起源説」では、英独仏露米日などの「資本主義」が別々のプレートに乗って登場した、というイメージになり、宇野さんの一国資本主義モデルと、ある意味では同じになってしまうように思います。
英独仏路米日などが、基軸国と周辺国といった関係を持ち、「世界編成された諸国民経済」としてとらえる――つまり世界資本主義としてとらえる――ことにすれば、宇野さんのように「タイプ論」といった無理を持ち込まなくてもすみます。
もう一つの特徴たる「資本の株式会社化」については小幡論文には触れられていませんが、「資本の株式会社化」は資本主義の段階規定にとって、やはり重要です。
資本主義の発展を規定する要因はさまざまあるでしょうが、経済学の目的を「資本主義の運動法則(力学)」の解明とすれば、つぎのように「力学」を設定することができます。
(ア)19世紀中葉の自由主義段階(産業資本主義の段階)の「力学」は、循環恐慌論であり、宇野恐慌論がこれをあきらかにしています。
(ウ)20世紀終盤以降のグローバリズム段階(「超金融資本主義」の段階)の「力学」は、「国際投機による諸「国民経済」の攪乱」です。ミンスキーがこれに取り組みました。
(ア)と(ウ)のあいだ、つまり
(イ)19世紀終盤から20世紀中葉までの段階(金融・産業資本主義の段階)の「力学」は、「先進国の株式会社による金融・産業一体化による国内的国際的発展」です。
以上を貨幣(金融)と実体経済(産業)の関係としてみれば、
(ア)は、基軸通貨国イギリスの産業資本の景気循環運動(金融と産業の一体化)
(イ)は、金融資本に主導される諸国民経済の運動(金融が産業を動かす)
(ウ)は、諸国民経済から遊離した金融資本(金融の独自運動に産業がふりまわされる)
ということになります。
2008年リーマン金融危機が(イ)から(ウ)への移行の事実(実際には1980年代に移行していた)をあらためて突きつけたと思います。
(4)プレート論について
1990年代以降のグローバル化を「帝国主義段階」とは別の新たな「プレート」の開始と見るのは、よいと思います。また、そのために宇野の段階論の再検討⇒原理論の再検討、と遡及する姿勢にも、研究者としての誠実さを感じます。
段階論に代わる「プレート」論を提案していますが、「プレート」の経済理論的規定が、私には、不明です。プレート論が、資本主義の「単一起源論」批判とセットになっているようなので、「新たな資本主義の誕生」ごとに新たなプレートを設定するのかな、とも推測します。グローバル化という「第4のプレート」についても、「アジア等の新興諸国の台頭」をその要因としてあげています。第一プレートから第4プレートまで一貫する(プレートの沈下・台頭を規定する)要因は何でしょうか?
(5)経済学に問われているもの
リーマンショック・世界金融危機に対して、米連銀は大規模なQE (中央銀行による債券購入)に突入し、日本銀行、ついでECBもQE を開始しました。先進国はQE でデフレスパイラルへの転落を防いでいます。QE とは何か?QE のような新型の世界金融がどのように各国の国民経済を動かしているか。ここに、マルクス経済学が試されています。他方で新興資本主義の中露印等はAIIB(アジア投資銀行)を設立し、おどろくことに、英独仏伊も参加しました。米の中東政策の破綻という地政学的な問題も深く絡んではいますが、経済には経済独自の運動があり、それを解明するのが経済学の役割だと思います。
宇野原理論が純粋資本主義論であり、そこからの根本的な転換が必要なことは(岩田弘氏の影響下で)40年も前から感じていますが、「純化・不純化・逆転をどうみるか」など、「宇野派」の中の論争には、あまりに内向けで生産的ではないという印象をもちます。それよりも「脱純粋資本主義論の原理論」「脱帝国主義論の段階論(世界経済論、現状分析)」を積極的に提示することが問われていると思います。小幡氏の「変容論」経済学がこうした課題にどう答えてくれるか、期待しています。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study640:150521]
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