テント日誌5月29日…経産省前抗議行動で3人が逮捕/戦争の道に本質的なところから抵抗を
- 2015年 6月 1日
- 交流の広場
- 経産省前テントひろば
経産省前テントひろば1357日商業用原発停止621日
経産省前抗議行動で3人が逮捕された。これはひどい逮捕だ。
木曜日夜9時半、抗議行動中に経産省玄関前の鎖を超えたとして通報され、テント前で警官隊に取り囲まれ、3人が逮捕された。3人はいつも経産省前で抗議している仲間。テントとのつながりも深い人々だが、経産省の鎖の内側でフェンスの外側に数分間入ったということで経産省から不法侵入の被害届が出され、逮捕される拘留されるということなら、同じ鎖の内側、フェンスの外側に数年間居座っているテントの立場はどうなるのか、テントを訪れた=鎖を超えたのべ数万人の人々はみんな逮捕されなければならないのか、と思ってしまう。
国有地は国民の財産であり、抗議行動をするという用があるから入ったのだ。用があるからこの場所にいるのだ、このことは全く正当な国民の権利なのだと、一人一人が声に出して言いましょう。3人を支え、守り、取り返しましょう。5月29日(金曜日)には3人のうちの一人が勾留されている中央区の中央署前に100人近くが集まり逮捕に抗議した。経産省前の入り口を超えたからといってそこは構内でもないし、誰が見ても不当なものだし、ひどいものだというほかない。(H)
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戦争の道に本質的なところから抵抗を組むべきだ。今が、その時だ。
梅雨の雰囲気がする一日だった。まだちょっとなのにと思ってもこうした季節らしい動きにどこかほっとする。天気予報では日曜は雨であったが、それ以外は晴れだった。最近の天気予報はそれなりに当たると思っていたが、今の季節ではそうとはいかないのか。僕は梅雨が嫌いではないから、雨の事なんか気にはしないのだが。それにしても、口永良部島の噴火には驚いた。テレビに映る光景に釘付けになった。そして、火山学会の警告を無視して川内原発再稼働の許可(保安許可)を出した原子力規制委員会のことが頭に浮かんだ。火山活動は予知可能だとし川内原発の場合に危険はないとして許可(保安許可)をしたのだ。そして、さらには火山活動が予知できぬ段階にあり、調査を要求した火山学会の意見をアホウよばわりしたのである。
再稼働のために自分に都合のいいことだけを取り上げ、耳の痛い話は遠ざけるか、排除する。原子力規制委員会なんて誰も信用すまい。彼らは形式を整える役割を持つ典型的な日本の官僚機構に成り下がったことを露呈している。原子力規制委員会は自分たちがどんな犯罪的役割を演じているのか分かっているのだろうか。この列島での地震や火山活動は当面は活性化するのだろうと推察される。その事象にきちんと向かい合い、科学的に対処することが望まれる。専門家たちだって矜持はあるだろう。その誇りを失ってはもらいたくないのだ。
国民の「安全と命」を論じることが好きな政府だが、こういう御仁たちが国民から信じられることはないのだが、本格的に地震や火山対策に取り組めば少しは見直されるか(?) 少なくとも、原発再稼働を優先させるために、こういう地震や火山対策に本腰を入れず、なるべく影響や被害を小さく見せることに腐心している政府や官僚に届けたい声である。集団的自衛権行使の問題より、こちらに本格的に取り組めと茶々を入れたくもなる。
集団的自衛権行使のための法案成立に躍起の安倍政権だが、議論を経れば経る分、僕らの疑問は膨らむ。安倍首相の答弁の曖昧さ、中谷防衛相など閣僚の発言もいい加減さが露呈するが、これは当然のことだ。今、自衛隊が海外に派兵され、戦争を行うための法案を出さなければならない理由は何かという一番、肝心のところが曖昧だからだ。戦後70年の日本の安保法制の転換をやらなければならない理由は何かが明瞭ではないのだ。「武力行使のための新3要件」にしても、「存立的危機の事態」にしても言葉による規定である限り、抽象的であることはまぬがれない。ただ、政府や官僚の答弁が抽象的というのはこれとはわけが違う。それを導いた現実認識(現実的理由)が曖昧なためだ。もし他国の侵略が現実にあれば、法的なことなど関係なく、それに闘う(抵抗する)準備をするし、そこではことは明瞭に運ぶ。こうした規定などあろうが、なかろうが闘い(抵抗)は進む。けれども、現実的な理由が明瞭でなければ、こうした規定は意味をもたない。
安倍首相は「国民の安全保障の環境が厳しくなっている」「一国では平和は守れない」という現状認識を語る。これが安倍首相の集団的自衛権行使容認の構図の根底理由である。今、戦争の備えも含めて戦争が可能になるようにする理由は、曖昧だし、間違っている。戦争を不可避とする現実が訪れている、それがやってきているという認識があるのならそれを明瞭に語ってみよ。
安倍の認識には中国の動きが念頭にあるのだろうが、日本と中国が軍事的対立に向かっているという状況にあるのか。中国がそういう動きの中にあるというのは、間違いだし、こういう認識で戦争の準備をすることは、相手にそういう動きを生み出させるだけだ。確かに日本と中国や北朝鮮、あるいは韓国との関係は緊張関係が増している。これにはこれの原因(歴史認識)などがあるが、軍事的な緊張が深まっているというわけではない。日本と中国が尖閣諸列島をめぐって対立してきたことはあり、偶発的に事件が起こるかもしれない。しかし、このことは中国の日本への軍事的緊張が本格化していることを意味しはしない、して行くことを意味しない。戦後70年を経て東アジア諸国との関係が大きく変化して行く段階にはない。どのように関係を構築できるかの課題はあるにしても、日本が戦争へ方向を転換しなければならないような関係が変化があるわけではない。
「一国では平和は守れない」というのも明瞭さを欠いた発言である。アメリカが世界に対する軍事的支配力を衰退させていることは事実であり、アメリカを手助けしなければというのならわからないではない。僕はアメリカの軍事力が世界の平和を維持してきたということに、疑問を持っているし、アメリカの平和維持の下に日本の戦後の平和があったという考えに組みしない。だから、僕はこういう考えに疑念を持つが、日本の保守や右翼の政治家たちがこういう見解を持ってきたことを知っている。安倍首相がアメリカの軍事行動を支え、その共同関係でしか日本の平和は守れないというのなら、僕はその考えに否定的であるが、まだ分からないではない。そうとはっきりいうべきだ。日本が積極的にアメリカの軍事パートナーになることで、日本や世界の平和が維持できる、そういう時代に現在があるというなら、そう語るべきだ。そのために、集団的自衛権行使容認による海外派兵(海外での戦争)が必要と思っているなら、それを明瞭にいうべきだ。これらを反論することは難しいことではない。専守防衛という直接的な侵略に対応した自衛の戦略ではなく、アメリカ軍の安全保障戦略の構成要素となり、その戦争を媒介にしてしか、日本国民の安全も平和も守れないというなら、そう名言せよ。これが本音のくせに、いろいろと抽象的規定でごまかし、実際はそこへ事を運ぶ欺瞞を僕らは認めない。
日本の軍隊は第二次世界大戦において日本国民を守るための行為をしたのか、あるいはその努力をしたのか。軍隊は自分たちを守ることを優先し、国民を守らなかった。そういう努力を個人は別にしてやったと思えない。これは日本だけでなく、世界の軍隊にみられたことであり、軍の法則とでもいうべき事態だった。あらゆる戦争は自衛のためという名目ではじまり、国民の安全と命を守るという名分から出発する。だが、国民のための軍隊は、軍隊のための国民に変質し、そうした存在なって行く。こうした苦い歴史経験が憲法9条を支えてきたのだし、自衛隊を軍隊でない軍隊と呼ばせてきたのだ。専守防衛ということもそうである。国民にとって自己と軍隊との間で経験した事態を媒介にしないで、いくら国民の命と安全を言ってもその言葉はむなしく響くだけである。
これらを戦後のアメリカ軍が押し付けたことして、変えたいというのが安倍の願いだろう。祖父の岸から受け継いだものだ。日本国民の戦争や軍に対する認識はアメリカの持ち込んだものもあるが、一層、重要なことは国民自身の体験によって出て来たものだ。ここには日本国民が兵士として、一庶民として戦争を経験したことがあり、それこそが歴史的なものとして認識の要なことだ。仮に侵略的な事態起これば、僕らは自ら闘うし、軍隊なんぞに依存しない。軍隊が国民の命と安全を守るという幻想は歴史の中で砕け散ったことである。沖縄の人たちのことを想起せよ。そんなことはないのだ。むしろ、軍隊は国民の自立的な闘いに敵対するし、妨害物になるだけである。僕らは安倍が国民の命と安全をも守りたいのなら、軍隊の事ではなくて、原発の撤去のことを考えるべきだといいたい。テントを訪れた韓国の民主論祖の面々に僕はこんな話をした。通訳を通してではなく、直接話せたらよかったのにと思ったが。 (三上治)
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