ドイツの憤懣、バルセロナの怒り──先週の新聞から(8)
- 2010年 12月 23日
- 時代をみる
- ユーロ圏脇野町善造
先週は、Wirtschaft Wocheの記事のせいで気分が悪くなってしまったが、今週はそんなにひどい記事には出会わなかった。勿論、だからといってドイツの態度が変化したわけではない。ヨーロッパからは遠い極東の島国にいる私でさえ、ドイツの不気味な動きに不快感を持っているのだから、ヨーロッパでははるかに深刻であろう。
それをうかがわせる記事が12月16日のHandelsblatt(HB)にある。タイトルは「ドイツの好景気はユーロ圏にとっての爆発材料を抱えている」といういささか物騒なものである。それでなくとも国際的競争力の高いドイツ経済は、このところのユーロ安を背景にヨーロッパでは「独り勝ち」の状態になっている。ドイツ経済だけが2008年の金融不安の前の水準をすでに超えた。しかし、これがドイツ以外の諸国に波及効果をもたらすことはなく、他の諸国との間の緊張をかえって高めている。ドイツ国内には「堪忍袋の緒が切れる」寸前の雰囲気がある。「いままでに我々が競争力をつけてきたことで何故我々が罰せられなければならいのか」という憤懣である。HBはそう伝えている。
ドイツにしてみれば、次のようになろう。自分達は一生懸命に働いて競争力をつけてきた。Piigs(ポルトガル、アイルランド、イタリア、ギリシャ、スペイン)が危機に陥ったのは、彼らが競争力を上げることを考え得ずに享楽的な暮らしをしてきたからだ。だから自分達が「尻拭い」をしなければならない理由はなく、いわんや自分達が「独り勝ち」を理由に恨まれるのは全く筋違いだ。
これはある意味では正論である。正論であるがゆえにより一層ドイツに対する不気味さを感じざるを得ない。しかし、「尻拭い」に関しては、共通通貨ユーロを立ち上げるときにその覚悟があったはずだし、なければならなかった。いまさら「尻拭い」はいやだということのほうがよほど筋違いである。
上記のHBの記事はあるドイツ人の次のような発言の紹介で締められている。「ユーロは単なる経済的な実験ではなく、ヨーロッパの統合に向けられたものであり、先の壊滅的な戦争の後の平和秩序の基柱でもある」。この発言は、ユーロの危機やその克服を経済の側面からのみ判断することはできないとするとするものであろう。しかし、それは一歩間違えば、ユーロ危機の克服を材料に、ヨーロッパの統合や平和秩序を一気にドイツ主導のもとで進めてしまう理由にもなりかねない。
いずれにしても、問題の根底には「強くなりすぎたドイツ」がある。そう考えると、この間、国際競争力が一向に上がらず、隣国の後塵を拝することが多くなってきている極東の島国のほうが、安逸をむさぼるにはかえって好都合ではないかともいえる。
これは「ものは考えよう」ということになるが、どう考えても納得のいかないこともある。12月18日に、スイスのチューリッヒで発行されているNeue Zürcher Zeitung(NZZ)に、「指導的なマネタリスト」であるアラン・メルツァー教授(カーネギーメロン大学)へのインタビュー記事が掲載された(同教授はアメリカ在住の人であるから、英語紙でもこのインタビューは読めたのかもしれないが、NZZ以外では目にしなかった)。今頃マネタリストのインタビュー記事を載せるNZZの真意は量りがたいが、この「指導的なマネタリスト」の発言は驚くべきものだ。その主張は一言でいえば、「全ては市場にまかせればいい」ということである。危機に陥った国家や銀行は救済の手を差し伸べることなく市場の判断に委ねればいいとするのは、絵にかいたような新自由主義の主張である。すべてを市場に任せた結果の大混乱の後でなおこういう発言をするということが、どうやら「指導的なマネタリスト」である所以のようだ。ひょっとしたらNZZはマネタリストを嘲笑する材料を提供することを目的にこの記事を載せたのでないか。そう勘繰ってしまう。
こういう通常の理解を超えた考えの持ち主は経済学の世界に留まるものではないということは、12月17日のNew YorkTimes のクルークマン教授のコラムで分かる。クルークマン教授は、アメリカ議会で民主・共和両党によって設置された金融危機調査委員会の報告書のことを話題にしている。この報告書をまとめるにあたって、共和党から選出された4人の委員全員が、報告書で、「規制緩和」、「影の銀行」、「相互関連」、「ウォール街」という言葉を使うことを拒否したという。結果的に共和党選出の委員は民主党選出の委員とは別の報告書を書いたというが、それは実に浅薄なものになったそうだ。共和党選出の委員は、「すべては政府が悪い」としたかったようだが、それは事実をねじ曲げることになる。そもそも「規制緩和」等の重要なキーワードを回避して、金融危機の調査報告書が書けるはずがない。クルークマン教授ならずとも呆れかえるしかない。
基本的には月曜日から日曜日までの文を斜め読みすることにしているが、土曜日は金融当局もマーケットも休みであるから、日曜日のニュースはあまりない。印刷されたものとしての新聞が日曜を休刊としているのはそのせいもあろう。しかし、先週の日曜(12月19日)のEl País (スペイン)紙(Web版)には興味の惹かれる記事があった。18日にバルセロナで行われたデモの記事である。
警察発表で8千人、主催者発表で3万人と、参加人数が大きく違うのは、いずこも同じである。中間をとって、1万5千人としても大変な人数といえる。組織したのはスペインの労働組合の全国的センターの2大勢力である、UGT(スペイン労働者総同盟)とCCOO(スペイン労働者委員会)のようだ。UGTは政権与党であるPSOE(スペイン社会労働党)の支持母体であり、CCOOはスペイン共産党の影響が強いとされている。この二つにバルセロナを州都とする自治州カタロニアの地域政党が加わった。ICV(カタロニア緑の党)、EuiA(カタロニア統一左翼党)、ERC(カタロニア左翼共和党)といったカタロニアの左翼政党が参加した。
集会で強調されたのは、社会主義者(PSOE)が政権を取っているマドリッドの中央政府の年金改革に対する抗議である。中央政府は財政改革の一環として、年金給付年齢を65才から67才に引き上げようとしているが、これを「歴史上、最も重大な社会的攻撃」だとして、抵抗が呼び掛けられた。方法はゼネストであり、街頭行動(Movilización)である。「抗議のために街頭に出よ」、「恒常的に街頭行動することなしには何も得られない」──集会ではそうアジられたという。
読んでいて複雑な気分になった。気分を比率で表現するのはどうかを思うが、敢て比率で言えば、昂揚感半分、羨望感四分の一、残念さ(A)八分の一、残念さ(B)八分の一である。もともとスペインは伝統的に左翼の強い土地柄で、なかでもカタロニアは反マドリッドの感情もあって、とりわけその傾向が強いとされるが、それでもこの時期に、社会主義者の政権に対してこれだけのデモが組織され、しかもその中で、「街頭に出よ」というアジ演説がなされるというのは、やはり注目に値する。
羨望感四分の一、残念さ(A)八分の一の理由は省略する。八分の一の残念さ(B)は、カタロニアの左翼のなかに、CNT(全国労働者連合)の姿が報じられていないことだ。かつてはスペイン最大の労働組合センターであり、フランコとの内戦の初期にはバルセロナの実権を握ったこのアナキストの組織はもはやほとんど存在感のないものとなってしまったようだ。
それにしても地方都市の左翼のデモのことをこれだけ詳細に報告したEl País(バルセロナ支局)の記者のことを考えると、再び気分は昂揚する。彼は、このデモのことを詳細に「報告」することそれ自体によって、現在のスペインの状況に対する自分の「解釈」をも伝えようとしたのではないか。それもまた報道の一つの方法であろう。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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