巨きな足跡を遺した「生涯平和運動家」 -吉川勇一さんを悼む-
- 2015年 6月 4日
- 評論・紹介・意見
- 吉川勇一岩垂 弘
吉川勇一さんが慢性心不全で5月28日に亡くなった。84歳だった。戦後平和運動における傑出したリーダーの1人で、まさに「巨星墜つ」の感を禁じ得ない。
根っからの大衆運動家だった。
満州事変が勃発した1931年に東京で生まれた。旧制浦和高校から東大文学部へ。共産党東大細胞の一員として活動するほか、東大自治会中央委員会議長に就任。1952年4月30日、第2東大事件(同年4月、本冨士警察署の巡査が東大農学部内をパトロール中に数人の学生に取り囲まれ、安田講堂内に連れ込まれて警察手帳を奪われたとされる事件)に関係したとして公務執行妨害容疑で逮捕される。が、処分保留のまま釈放。
その後、同年5月14日、学友5人とともに退学処分を受ける。その時、文学部4年生。処分理由は、東大当局の立ち入り禁止通告にもかかわらず、4月28日に東大アーケード前で、東大自治会も加盟する全学連(全日本学生自治会総連合)が「破防法反対集会」を開いたのでその責任を問うというものだった。
その後、平和団体の日本平和委員会の書記局員、常任理事として活動するが、1964年、部分的核実験禁止条約(63年に米国、英国、ソ連の3国によって調印された条約)を支持したことから平和委を追われ、65年には、同条約に反対する共産党から党を除名される。
ここまでの吉川さんはそれほど目立つ存在ではなかったが、1966年から、日本の平和運動の舞台に華々しく登場して一躍“時の人”になる。
世界ではこのころ、64年8月に起きたトンキン湾事件をきっかけに、ベトナム戦争が激化の一途をたどりつつあった。65,年2月には、米軍機による北ベトナム爆撃(北爆)が始まり、ベトナム反戦運動が世界各地で高揚する。
日本でも、この年4月24日、作家の小田実、開高健、いいだもも(いずれも故人)、評論家の鶴見俊輔の諸氏らの呼びかけで、ベトナムの平和を要求する市民、文化人ら約1500人が東京・千代田区の清水谷公園から東京駅までデモ行進し、その後、集会を開いて「ベトナムに平和を!市民連合」を発足させた。ベ平連の誕生であった。
それまでの日本の平和運動の担い手は、もっぱら、社会党、共産党などの革新政党、総評(日本労働組合総評議会)などの労組、、全学連などの学生団体だった。そこに、一般市民と文化人を主体とする、新しい潮流が登場したわけで、それは国民に新鮮な印象を与えた。
そればかりでない。ベ平連は次々と新基軸の運動を打ち出した。月1回の定例デモのほか、アメリカの有力新聞紙に反戦広告を出したり、徹夜ティーチ・インを開催したり、アメリカの著名な平和運動家を招いて日米市民会議を催したり……。まだ、ある。ベトナムに派遣された米兵の脱走と日本脱出に手を貸したり、大阪で開かれた日本万国博覧会の向こうをはってハンパク(反戦万博)を開いたり、「軍需産業反対」のスローガンを掲げて三菱重工業に対し一株株主運動を起こしたり……。それまでの平和運動といえば、集会とデモが中心。ベ平連が次々と打ち出した新しい試みは、それまでの運動の常識を破ったユニークなもので、俄然、満天下の注目を集めた。
ベ平連の発足集会には加わらなかったが、1965年の暮れから、その事務局長を務めたのが吉川さんだった。
当時、ベ平連に詳しい者の間では「ベ平連は小田実代表のアイデアと吉川事務局長の官僚性でもっている」と言われたものだ。確かに、小田氏の自由奔放な発想と、吉川さんの卓越した事務能力がベ平連の活動を支えていたとする見方は間違いではないだろう。しかし、ベ平連の極めてユニークが活動が、すべて小田個人の発想によると見るのは当を得ないのではないか。むしろ、小田氏を含む文化人のほか、ベ平連に結集してきた無数の市民たちの創造的な知恵が、ベ平連のユニークな活動を生みだしたのではないか、と私は思う。
そう見た場合、さまざまなアイデアや提案をうまくまとめ、プロモートする人物が必要になる。そのような役割を果たす人物として、吉川さんはうってつけの人物だったのではないか。だから、私は1970年代にある雑誌から吉川さんの人物評を頼まれた時、彼を「天性のオルガナイザー」として紹介した。
事務局長というポストにありながら、吉川さんは一段高いところから他人に号令をかけるというタイプではなかった。むしろ、率先して自ら行動を起こすというタイプだった。つまり、「口舌の徒」でなく、あくまでも実践家であった。
しかも、「運動にとって大切なことは、組織の維持でなく、目的を達成することだ」という信念の持ち主だったから、組織の維持にきゅうきゅうとしなかった。ベ平連も、ベトナム停戦が1973年に実現すると、翌74年に解散してしまった。
ベ平連解散後も、吉川さんの活動は続く。吉川さんが関わった運動は、成田空港反対運動、小田、色川大吉(歴史家)両氏らが始めた「日本はこれでいいのか市民連合」(日市連)の運動、有事法制反対運動、湾岸戦争反対運動、自衛隊イラク派遣反対運動など、多岐にわたる。
中でも特筆すべきは、1988年から志を同じくする人々と始めた「市民意見広告運動」だろう。改憲反対、憲法9条、25条を実現する政治、反原発などを訴える意見広告を新聞に掲載する運動だ。広告掲載にかかる費用は全国の市民から募る。これは現在も続いており、国民の間に護憲意識を定着させる上で大きな役割を果たしてきたと言える。吉川さんはその運動の代表を務めた。
反戦市民グループ「声なき声の会」の例会の常連でもあった。この会は、1960年の日米安保条約改定反対運動の最中、「誰デモ入れる声なき声の会 皆さんおはいり下さい」と書いた横幕を掲げて東京・虎ノ門から国会に向けて行進を始めた千葉県柏市の画家、小林トミさん(故人)の提唱で生まれた市民グループで、61年以来、「日米安保反対」と、「改定反対運動の中で死亡した樺美智子さんを忘れない」を旗印に、毎年6月15日、東京で記念集会を開いている。吉川さんは、ほとんど毎年、この会に姿をみせた。ベ平連はこの「声なき声の会」を母胎に生まれたという経緯があったから、吉川さんとしては、特別の思い入れがあったのかもしれない。
60歳になった1991年にぼうこうがんに見舞われた。その後も、胃がん、腸閉塞、脳梗塞を患った。身体障害者手帳の保持者になった。まさに満身創痍。でも、吉川さんは亡くなるまで運動をやめなかった。杖をついて集会に現れた。まさに、休息することなく、倒れるまで走り続けた「生涯平和運動家」と呼ぶにふさわしかった。
私が最後にお目にかかったのは、昨年11月29日、新宿区の日本青年館で開かれた、平和運動家・吉田嘉清さんの米寿を祝う会だった。吉川さんは「吉田さんよりは5歳若いんですけれども、今年の1月に倒れて大腿骨を痛め、4カ月以上も入院しました。ヨタヨタ歩くんで、今とてもデモなんてダメなんです」と、笑顔であいさつした。
2014年6月15日、国会南門で樺美智子さんを追悼して献花をする「声なき声の会」の人たち。
中央の、杖をついた白い服の人が吉川勇一さん
それから6カ月後に、突然の悲報。いまわの際に吉川さんの脳裏を横切ったのはどんな思いだったのだろうか。おそらく、自分が生涯をかけて守り通そうとした憲法9条の改変が目前に迫っていることへの憂慮だったのではないか。
昨年6月15日に東京・池袋で開かれた「声なき声の会」の記念集会で、吉川さんはこう発言した。「私たちは、改定された日本国憲法に反対せざるをえなくなるかもしれない。政府や自治体の命令に従わなけれ処分されるだろう。でも、自分が正しいと思ったことをやらなければならないとしたら、市民的不服従、非暴力直接行動という道がある」。9条改定後に市民がとるべき行動にまで言及せざるを得なかったほど、吉川さんには、安倍政権が推し進める改憲作業に対する危機感、切迫感が強かったのではないか。
愛妻家であった。妻祐子さんが病死したのは2005年だが、その後も、吉川さんの年賀状は毎年、祐子さんとの連名であった。祐子さんの住所は「天国」。来年は天国から夫妻連名の年賀状が届くのだろうか。
ともあれ、吉川さんが愛する祐子さんのもとでこれまでの活動の疲れを癒やされるよう祈らずにはいられない。
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