テント日誌6月9日…なかなか先の見えない状況だが
- 2015年 6月 11日
- 交流の広場
- 経産省前テントひろば
経産省前テントひろば1368日商業用原発停止631日
なかなか先の見えない状況だが、考え考えてやって行こう
梅雨のあとさきという言葉があったような気もするのだが、何とはなしに落ち着かない気分の日々である。井上陽水の『少年時代』という曲には思い出のあとさきという言葉があるが、僕が想い出そうとしているのは、これとは少し違う気もする。こんなことはどうでもいいのだが。天候の不安定さは人の心にも反映するのか。テントの方は6月19日に控訴審の第1回目がある。第一審判決後に論議されたテントの対応のことが、そのまま宙に浮いたまま推移してきているようで、複雑な気分の中でこれを迎えることになる。
第一審判決後の方針の討議の最中に僕は入院になって、病室でやきもきしていた。電話で控訴と高裁の対応を知らされて、とりあえず、これはこれで強制撤去の事態は回避されてほっとしたことを記憶している。ほっとしても、これは束の間の事でいずれ判決後の対応を考えざるをえないことは確かで、そこのところを考えてはいるのだけれど、明瞭になったとは言えない。これは控訴審をやりながら、考え続けて行くしかないことで、≪テントは存在することで意味がある>ことを確認しながら、進んで行く他ない。判決後の対応や方向などは土壇場にならなきゃでないということもあるわけで、そのことを自覚しつつ、毎日をやっていくしかない。僕はまだ体調に不安もあって、ちょっと座りにいくことくらいしかできないが、泊りや昼番の方はしっかりやられていて心強く思っている。テントはこんな風に日々を闘い過ごして行く他ないのだろう。テントが果たしていることをあれこれ想像すれば、それは僕らの主観を超えた広がりがあり、他方で先が分からないという思いも膨らんでいく、いうなら悲観と楽観の混じった気分の中で日々を過ごしている。
政府や官僚たちは表には出ないで再稼働や原発保持のために体制強化をいろいろとやっている。新聞はたまにしか報道しないが、エネルギ―構成での原発の存在や、電力自由化対策に腐心しており、原発事故が生み出した風に逆らいながら、原発再稼働に固執している。一体、彼らのこの態度は何に起因するのか、経産省の建物を仰ぎみながら、考えあぐねているところもある。電力業界が電力の自由化による独占的な存在が崩れることを恐れていることは疑いない。これと原発再稼働と保存は深く関係している。政府や自民党は核兵器の代替として原発に固執していることがあり、こがれがまた原発再稼働や保存に向かう力になっている。5月18日の朝日新聞の小さな記事として「やっぱり電気は選べない(?)」という編集委員の記事があった。「消費者を大事にしない国だとつくづく思う。2016年4月に家庭向けの電力販売が自由化されると好きな電気を選べると思っていた。だが、このままではできなくなる。経済産業省が、<再生可能エネルギ―の電気であることを付加価値として説明をし、販売することは適切ではない>言い、消費者の選択を狭めようとしているからだ。」とある。脱原発のために再生エネルギの電気を買いなさいということを抑制しようとしているのだ。ス―パーでの加工品原材料が書かれていて、消費者はそれを選択の参考にする。電力だって同じだ。原発の電気は買わないということを恐れているのである。逆にいえば、ここに可能性があるのであり、原発以外の電気を使う運動を社会運動として展開し、電力独占体の構造を壊すことが、脱原発の重要な契機になることを暗示している。経産省が電力独占体とつるんでやっている所業に目を光らせ、対抗的な社会運動を構想していきたいものである。
季節とは関係ないのかも知れないが、国会周辺もざわついている。安保法制の法案をめぐる審議が論議を高め、国民の批判の声が国会周辺の行動となり、それが高まりを見せているからだ。政府は安保法案(戦争法案)が憲法違反であることを憲法学者に指摘され、あわてふためいて統一見解なるものを公表した。これは新聞などにも載っているので目を通して欲しい。この要点は次の点にあるが、政府の説明が何も言っていないのに等しいことは明らかだ。
政府の今回の説明案は論拠として1959年の砂川闘争についての判決を根底にしている。これは憲法9条が自衛のための戦力保持を否定しないとしている。この判決はいろいろと問題があるが、ここでは言及しない。この点の範囲をめぐり、自国が武力侵攻を受けた時(こうした事態が発生した時)というのが自衛の規定であり、専守防衛論の根幹であった。海外派兵も外国軍の戦争に自衛の名によって参加しないということで、憲法9条と関連づけたのが従来の憲法解釈だった。いろいろの批判はあるにせよ、自衛の概念もはっきりしていた。(日本の歴代内閣はこれを盾にしてアメリカの戦争への参加、例えばベトナムへの参戦を断ってきた)。政府の武力行使の新3要件は「日本が攻撃されるという事態」に「日本と密接な関係にある他国が武力攻撃され、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」ということを付け加えて自衛の概念を拡張している。外国の軍隊を守ること、及び海外での武力行使と自衛の念との関係を問われるのは当然であるし、この自衛の概念に疑問を持つのは当然である。この拡張が憲法9条は自衛権を放棄していないという憲法解釈の逸脱であり、憲法違反であるという批判が出てきたのである。当然だ。
政府の今回の統一見解はこれまでの自衛の概念のうちにあると詭弁をろうしているのであるが、そこで次のように説明をする、他国が攻撃されたというのは、他国の自衛も含む一般的な戦争を指さずに国民の生命や安全が脅かされる明白な危険がある時をさすという。他国の自衛の戦争に集団的自衛権の立場から参加するのではなく、我が国の国民の生命や安全が危険にさらされる場合にとするのだが、これは詭弁というか、何を指すか明瞭ではない。こういう規定が抽象的であることを免れないというのではない。この要件が現実の認識から出てきていないから、曖昧であり、それを抽象的と言っているだけだ。それだけ、政府や権力の勝手なというか、暴走が危険である。
例えば、中近東での戦争の結果、石油の輸入が止まった場合に、明白な危険が生まれたと拡大解釈される危険がある。政府や軍隊の勝手な行為の根拠とされることは十二分に想像できるが、勝手に国際関係の認識を改め、自衛概念を拡張し、従来の憲法との関係をも替えるのは許されざることだ。政府の答弁が二転三転し、この3要件とされることが、明瞭でないのは、これが現実の認識からでていることではなく、ためにされた規定だからである。自衛隊の海外での戦争を容認したい、自衛隊を海外で戦争させたいという政治的判断があり、そのための理由を打ち出しているから、曖昧なのだ。国民の命を言う前に自衛隊の命のことを考えよ。それの方が現実的なことだ。戦争ということをまともに考えよと言いたい。安倍が戦争を深く考えたことがないというのは、致命的なことのようにおもうし、こういう法案を出してくることへの不信はここにあり、これは払しょくできないことだ。
もともと、アメリカの戦略的な要請として、集団的自衛官容認の立場から戦争への参加要請がある。これに応えるために自衛隊の海外派兵、海外での戦争にのりだす、かつてのベトナム戦争の時のように、憲法を盾に断わらない。そうなら、そうともっとはっきり語れ。国民の生命や安全なお付け加えるべきではない。欺瞞が加わるだけであるからだ。いづれにしてもこんな戦争法案を葬ろう。 (三上治)
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