熊沢誠―わたしの気になる人⑤
- 2015年 6月 11日
- カルチャー
- 熊沢誠阿部浪子
熊沢光子(てるこ)が市ヶ谷刑務所未決監の独房で自殺したのは、1935(昭和10)年3月のことだ。24歳であった。それから80年が経過する。この国の女たちの置かれた状況は、はたして、変わったのだろうか。光子はなぜ、自死を選んだのだろう。何に絶望したというのだろう。
昨年の夏、わたしは、『平野謙のこと、革命と女たち』(社会評論社)を刊行した。その拙著を何人かの先達に送った。そのうちの1人、熊沢誠氏から9月の祝日に電話をいただいた。見知らぬ人からの著書に熊沢誠はおどろいているみたいだった。〈平野さんの文章は戦後の「近代文學」でよみました〉〈いい本だしましたね〉。胸のうちにぱっとうれしさがひろがったのを、わたしは覚えている。
拙著のなかに、昭和初期のプロレタリア解放運動に加わった女性活動家について書いた。日本共産党のハウスキーパー制度によって不本意なたたかいをよぎなくされた彼女たち。小林多喜二のハウスキーパーだった伊藤ふじ子。西田信春のハウスキーパーだった北村律子。秋笹政之輔のハウスキーパーだった木俣鈴子。そして、大泉兼蔵のハウスキーパーだった熊沢光子。光子の存在とその自死について初めて文章に書いて世に問うたのは、文芸評論家の平野謙だ。明治大学の教授でもあった。平野謙は、さらに書きたいことを残したまま、食道がんの手術後に逝ってしまった。光子のことを党の「哀切な犠牲者」(『「リンチ共産党事件」の思い出』三一書房)と書いている。4人のハウスキーパー体験者のうち、わたしは、律子に直接会って、なんどか話をきくことができた。あとの3人については、その関係者をたずねて取材している。
〈熊沢光子は親族です〉熊沢誠は言う。わたしはビックリした。苗字はおなじだが、それまで両者を結びつけて考えたことはない。光子と熊沢誠の父親がいとこだ、という。
熊沢誠は、1938(昭和13)年、三重県四日市市に生まれた。労使関係論が専門の経済学者だ。最近の著書に『私の労働研究』(堀之内出版)がある。2000(平成12)年には『女性労働と企業社会』(岩波新書)を刊行している。わたしは、新聞の書評をよんで購入した。数年前、『書くこと恋すること―危機の時代のおんな作家たち』(社会評論社)を書くため、関連する文献をよみながら学習した。山川菊栄の『おんな二代の記』(東洋文庫)などとあわせて、この新書を再読したのだった。文学書とは異なる分野の著書に、わたしは眼を開かれた。著者の新鮮な発想と思考に刺激されもした。
熊沢誠は、ジェンダーの視点でこの国の女性労働を分析しているのである。そして、わたしはこの稿を書くために復習した。すばらしい作品だと思う。ひさしく抱えてきた、ひとつの疑問が氷解するようにも思えた。光子の「絶望したものの正体」があぶりだされてくる。作家の富岡多惠子がいう、光子の自死にこめられた、「生者への抗議のメッセージ」を、熊沢説はしっかり受けとめているようにも認められるのであった。
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わたしの住まいの近くに、にいざほっとぷらざがある。その5階は男女共同参画推進プラザになっている。室内の一隅には、女性差別を告発する本たちが並んでいる。田中美津の『いのちの女たちへ―とり乱しウーマン・リブ論』(パンドラ)や伊田広行の『はじめて学ぶジェンダー論』(大月書店)などのなかに、『20人の男たちと語る性と政治―松井やよりフェミニズム対談集』(御茶の水書房)を、わたしはみつけた。男性の視点なしに男女共生は考えられない、というのが、松井の対談集へのモチーフだ。「女性労働のジェンダー差別」の章に熊沢誠が登場する。冒頭には顔写真が掲げられていた。
松井の問いかけに熊沢誠は、このように答える。
大学院生のころから、労働そのもののあり方に関心をもって、60~70年代にいろいろな職場をまわり見たり聞いたりした。どこでも管理する者とされる者、上位職務と下位職務、面白い仕事とつまらない仕事がある。ほとんどの場合、女性が後者の仕事をやっている。それはなぜか。女性がそういう仕事を受けいれないとすれば反乱が起こるはずだが、そんなこともない。なぜか。女性労働にかかわる階層性について考えるようになったそんなおり、田中美津の著書などをよみ、共感するようになった、と。
田中は、70年代初頭に巻きおこったウーマン・リブ運動の中心的人物だ。熊沢誠の、ジェンダーの視点を獲得するまでの経過が、とても興味ふかい。
職場での男女の「職務分離」は、家庭での夫婦の「性別役割分業」の共通線上にある。そのあり方を女たちが「仕方がない」と黙認するかぎり、男性優位の仕組みは継続されていく。熊沢誠は、するどく女たちの主体の意識を指摘する。裁量権は男が独占して、女は「銃後の守りみたいにむなしい仕事をやらされて、給料もあがらない」。熊沢誠の岩波新書の文章は、わかりやすくて明快だ。男の仕事をかげで支えて作業する女たちは、やりがいのある仕事につけず、「短い勤続」「補助的な仕事」「低賃金」のなかで働きつぐしかない。この状況からの脱皮はまだまだ不充分であると、熊沢誠はいう。わたしの知人に派遣労働者がいる。明けても暮れてもミカンを袋につめる作業をする。〈女だからこんなこと、できるのよね〉単純労働に不満をぼやくことしきりだ。
熊沢誠は、大学教授上野千鶴子の、男女雇用機会均等法にかんする発言にたいしてこうも述べている。低賃金で働く「多くのノンエリート」の女たちに、上野は、「それでも職場は変えうるという気力を贈るような、発想のルートを用意すべきだろう」、と。熊沢誠の思考は、書斎の学者フェミニストからは生まれてこない。現実の職場のジェンダー状況とじかに向きあった人にして可能なものであろう。「ノンエリート」の女たちの「言いようのない不安やしんどさを文字にしたい」とも、熊沢誠はいう。そして、職場の性差別に対抗する戦略を、具体的に提言するのである。
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「女性労働者の非正社員化はジェンダー差別の中心だ」。熊沢誠のこの卓見を、わたしはいくども、いくども、くり返してみた。ふと、脳裏にひらめいたのだった。ハウスキーパーの「非正社員化」はジェンダー差別の中心だ、と。
ハウスキーパー制度とは、当時非合法の共産党が採った、世間の目をごまかすための偽装手段であった。1軒屋を借りて男女の活動家が夫婦をよそおいながら住まう。その内実は、ハウスキーパー体験者の律子が証言するように、女性活動家が、男性活動家の身のまわりの世話や書類管理や炊事や掃除などをすることであった。律子は、回想しつつ〈与えられる仕事に最善を尽くすしかない〉〈死ぬる覚悟でやった〉というが、性も金銭も提供させられたのだ。実家の酒問屋の帳場から800円をもちだして西田にわたしている。
光子も、愛知県から上京後、新聞広告で職探しをしているところへ、党からの命令で中央委員大泉の書類管理をする。ほどなく同棲し、彼のハウスキーパーをすることになった。
前衛党という組織も、男性優位の「性別役割分業」「職務分離」を踏襲した。女にとっては、やりがいのある仕事ではない。裁量権はなく、男性活動家をかげで支える、つまらない仕事であった。女たちの人権は、まったく無視されている。
1933(昭和8)年12月のこと、光子は、党の中央委員たちによって、大泉とともに、渋谷のアジトに監禁されるのであった。党内に巣くうスパイ容疑の査問をうける。大泉のスパイの事実が判明し、もう1人の小畑達夫は委員たちのリンチのはてに絶命。この事件は発覚し、光子は治安維持法違反のかどで検挙された。警察に留置され、未決監へ。
なぜ、光子は、みずから生を絶ったのであろう。「彼の仕事を手伝うことが自分に課せられた役割だと思って約束し、闘争のためだと思っていた」と、「手記」のなかに書くが、「女の仕事」の「ジェンダー差別」には、気づいていたはずだ。これじゃ、弁護士の妻で自分の母親である女が家庭でしていることと、おなじではないか、革命運動への自分のこころざしは、こういうものではない、と。
光子の自死について、当時のプロレタリア解放運動に加わり、戦後は作家として活躍した山代巴は書いている。党に捧げようとした純情が、かくも無惨に、無価値に扱われていいものか(『山代巴文庫9』径書房)、と。また、富岡はいう。「最後の勝利」を闘いとるメンバーに女が入っていないのを思い知らされたことも、光子の「絶望的孤立」に含まれていただろう(『表現の風景』講談社)、と。光子の、検挙後に警察で書いた「手記」のなかに、党の「決定的勝利のために戦おう」と書かれているのだ。
熊沢誠の著書『女性労働と企業社会』と貴重な出会いをすることで、わたしは、さらに気づいたことがある。光子の自死が女の「反乱」ならば、ふじ子のとっぴな行為も、女の抗議の表現ではなかったか。小林に献身してきたハウスキーパーふじ子は、警察の拷問で死んだ彼の遺体を愛撫した。遺体をとりかこむ同志たちは、彼女が何者なのか分からぬまま、あっ気にとられて眺めていたという。 (2015・6・11)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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