駐車場とトイレだけ―はみ出し駐在記(23)
- 2015年 6月 16日
- 評論・紹介・意見
- 藤澤豊
お詫びから書き始めるのもどうかと思うが、お詫びもせずに時間を巻き戻すのは気が引ける。時間をちょっと巻き戻させて頂く。ご容赦を。個人の資質が大きな要素ではあっても、私生活のさまざまなことが仕事からの反動からきていることが多い。はみ出しの根っこが張った土壌-労働環境について簡単に触れておく。
先輩一人で十分な作業に、出張トレーニングとして連れて行ってもらった。ビジネスカジュアルなどという言葉もない時代、現場作業に行くにも、きちんとスーツを着てネクタイをしていた。
顧客の第一印象は、古きよき時代を思わせるくすんだ灰色の建屋だった。薄汚れた感じの建屋の中に入ると、そこはゆったりしたスペースの綺麗な事務所で、外観とのギャップに戸惑う。ところが事務所を抜けて一歩工場に入ると薄汚い外観に戻ってしまう。綺麗な事務所とは対照的に生産現場(工場)は古くて汚い。古さを感じさせないどころか今を体現している事務所と古さがむき出しになった工場。どちらも日本と違ってスペースはある。事務所はごみごみした日本の事務所よりよほど働き易そうだが、工場はできれば遠慮したいところだった。
地震がないから建屋は耐震設計になっていない。クレーンを使うには柱の強度が足りない。工場内で物の移動にはフォークトラックを使用する。そのため通路は広く、日本の感覚では機械と機械のスペースが空きすぎて田舎の定食屋のように間延びした感がある。スペースはあるのだし、もうちょっと整然としていてもいいはずなのに、工場は雑然としている。働いている人たちに整理しようという気持ちがないのか?
小学生でもあるまいし、オヤジ連中にやれ3Sだの5S(整理、整頓、清掃。。。)だのと言うのは失礼だろう。一人前の大人として認めていないことになりかねない。でも、あまりに汚い雑然としたアメリカの機械工場を目の当たりにすると言いたくなる。
修理する機械に着いたところで、先輩が客の担当者にBath room(トイレ)の場所を確認した。小便でもつかえていたのなら、さっき通ってきた事務所のトレイでさっさと済ませばいいのに。要領のいい先輩らしくもないと思っていたら、先輩が作業着の入ったバッグを持って目で行くぞという顔をした。何?どこへ?トイレに行って作業着に着替えると言う。
機械の修理をすれば切粉(きりこ)だらけ、油だらけになる。スーツにネクタイでは機械の修理など出来ない。何をするにも、まず作業着に着替えて作業(安全)靴に履き替える。
日本のトイレに比べれば、はるかにスペースがある。直径二メートルくらいの丁度小さな噴水のような手洗いまであった。スペースはあるがトレイであることに違いはない。工場と同じように汚いし、床は手洗いからの水で濡れている。ハンガーがあるわけでもなし、“すのこ“が敷いてあるわけでもない。
なんでトイレで着替えなければならないのか?事務所で着替えさせてもらえば、ズボンの裾が床に着くのを心配することもないし、机や椅子に物も置ける。事務所で着替えさせてくれって言いましょうよと言ったら、これがアメリカ流だとにべもない。こんなところで着替えるより機械の裏で着替えた方がいいんじゃないですかと言ったら、工場内で下着姿は禁止されている。
着ているものを脱いでも置くところもない。一つ脱いでは小さく畳んでバッグの上に置くのだが、重なってくれば滑り落ちかねない。落ちたところは濡れた汚いトイレの床。ただの着替えにかなりの神経を使うし、時間もかかる。事務所を使わせるという些細な気遣いもないのかと思うのは日本の常識で、アメリカではトレイで着替えが常識だった。
トレイにバッグを置いておく訳にも行かない。バッグと靴を持って機械のところに戻っていよいよ作業。考えられる障害の原因とどのような修理になるかを先輩が説明してくれた。障害の原因をチェックし始めたら、もう昼飯の時間を過ぎていた。日本では客が仕出し弁当を用意してくれるか社員食堂でがフツーだが、アメリカでは昼飯の時間になったことも教えてはくれない。
早く作業の目処をつけたい。昼飯を食いに近間のダイナーなどに行っている精神的な余裕がない。工場の裏手にランチトラックが来ているはずだから、それで済まそうと言う。初めて見たランチトラック、まるで田舎の雑貨屋をトラックに乗せたような感じで、雑貨ではなく食べ物(ジャンクフード)を扱っているという代物だった。清潔感など求める人もいないのだろう。雑然としていて汚い工場に似合っていた。
工場で働いている人たちがサブのような物を買っていた。何を頼んでいいのか分からない。先輩と同じハンバーガーとコーラを買った。機械の横にあった適当なものに腰掛けて、直ぐに食べ終ってしまった。百円マックの方が気が利いている。ぼそぼそのパンに厚さ五ミリかそこらのパテ。ケチャップの味だけのハンバーガー、何の肉だか聞く気もしない。農業国で食材の豊富なアメリカで、なんでこんなものを作るのかと聞きたくなる、飢えを凌ぐだけのハンバーガーだった。後日そんなハンバーガーにすらありつけない日を送ることになるとは夢にも思わなかった。
作業に取り掛かる前に一服しちゃおうと、工場の裏手に出るドアに歩いていった。工場で働いている人たちが、あちこちの機械の横で持ってきた弁当を食べていた。機械加工工場特有のマシンオイルや切削剤に何かがまざった匂いのなかで昼食、日本ではちょっと考えられない。現場事務所のようなむさくるしい部屋で何人か一緒にもあるが、昼飯は各自勝手にがフツーだった。中には昼飯の時間をとっていないというのか、決めていない工場もあって、機械を操作しながら四六時中何か食べているところもあった。
狩猟民族のなごりなのか、食べる場所を日本人のようには気にしない。歩きながら食べるのもその延長線のような気がする。
ホワイトカラーとブルーカラーという区分け、日本とはちょっと違う。大きな会社になればマネージャや技術者がいる事務所と生産活動の場である工場がちょっと行き来できる距離ではないところにあったりする。これが極端になれば、米国本社と海外の製造拠点になる。生産に直接関係する人たち、現場のフォアマン(班長)クラス以下がブルーカラー。本社にいるエンジニアはホワイトカラーでブルーカラーではない。日本のようにその間の行き来はあったとしても非常に希だろう。
雇用契約も勤務体系も全く違う。工場は二交代、中には三交代で止まることなく動いていることもある。始業時間も定時も違う。日本のように両者の間に一体感があることの方がアメリカ人には不思議かもしれない。
時間給料と出来高払い組合せた給与体系が根底にあるのだろう。作業者としては工場にいる時間は全て労働時間に勘定してもらった方が得になる。作業を中断して昼飯に三十分でも割けば、金にならない拘束時間が三十分長くなる。
日本では当たり前になっている社員食堂(食べ物を提供する、しないかにかかわらず)やロッカー、休憩室などを用意している会社はまずない。あるのは駐車場とトレイだけで、工場のトイレには、しばしばドアもない。しゃがんで用を足しているときに、次に使いたい人が目の前に立って世間話などということすらある。何度経験しても見られながらには慣れない。早く隣にでも行けと思いながらも、話しかけられれば応えるしかない。相手をしながら、隣が空いて、いなくなるのを待つことになる。使うのを躊躇って、便秘になってしまった出張者がいた。
日本より遥かに進んだ大衆社会のアメリカで、その大衆社会を支えてきたブルーカラーの人たちの待遇がなぜこれほどまでに劣悪なのか。経済の主体が製造から流通や金融に移行して、資本も人材もそちらに流れて、製造が痛んだのだというもっともらしい話を聞くが、説明になっていない。経済の主体が移動する前から待遇は変わってはいない。ブルーカラーの待遇を最低限に抑えて利益の最大化を求め続ける一方で、ブルーカラーの人たちも待遇改善より給与の増加を求めたてきた結果としか考えられない。
出張するたびにトイレで着替えて、ランチトラックのハンバーガーを食べて、しばしば昼メシ抜きで油まみれになった。慣れとは恐ろしいもので、戸惑いが消えて在るがままがフツーになるのに時間はかからなかった。客先で期待できるのは駐車場とトイレだけ。最も進んだ先進国に来て、なんでこんな劣悪な作業環境なんだ。そりゃないだろうと言う気持ち、何時まで経ってもなくならなかった。
Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆編集
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion5414:150616〕
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